2012年10月7日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書43後〜48節
  説教者  山岡 創

「最も小さい者こそ、最も偉い者」

「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」(46節)。このことは、弟子たちが大きな関心を持っていることであり、最も気にしていることでした。“偉くなりたい”。弟子たちはその一心でイエスに従い、ガリラヤ地方で伝道し、エルサレムに向かう旅について来たのです。最初は、あまりそんなことは考えなかったかも知れません。けれども、イエスの力を目の当たりにするにつれて、“この方が神の国を打ち建てた時、自分はどんな地位に取り立てられるのだろう”という野心が湧(わ)いて来たのではないでしょうか。弟子たちは、偉くなるために、イエスと共に旅をして来たのです。そのような弟子たちに、イエスは今日、「最も偉い者」(48節)とはどんな人かをお教えになったのです。

 ところで、「偉い」とは、どういうことでしょう? 今日読んだ聖書箇所の最初の43節に、「イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると」とありました。その直前にも、「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた」(43節)と書かれています。これは、37節以下に記されているように、イエスが、悪霊に取りつかれ癲癇(てんかん)に苦しんでいる息子を癒(いや)されたからです。イエスの癒しを見て、人々は皆、心を打たれ、驚いていたのです。この光景は、簡単に言えば、“イエスさまは偉いね”と、皆が驚き、感心していたと受け取ってよいでしょう。
 けれども、イエスは、そのような癒しの“力”を「偉い」と受け取ってほしくなかったようです。“偉いとは、そういうことではないよ”と水を差すかのように、弟子たちに2度目の受難予告をなさいました。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」(44節)。
 「人の子」とは、イエスさまが自分のことを指して使っている言葉です。自分は人々の手に引き渡される。イエスの信仰、イエスの生き方を快く思わないユダヤ人の長老、祭司長、律法学者たちによって捕らえられ、裁かれ、十字架に架けられて殺される。そのように弟子たちに予告されたのです。イエスさまは偉いと湧(わ)き立ち、期待を膨(ふく)らませている弟子たちにとって、「その言葉が分からなかった」(45節)というのも無理はありません。いや、言葉の表面の意味は分かるのです。自分たちが従っているイエスさまが、人々の手に引き渡され、裁かれ、殺される、という意味だと薄々分かるのです。そんなことがあってはならない。嫌だ。だから、「怖くてその言葉について尋ねられなかった」(45節)のです。
 弟子たちが分からなかったのはむしろ、偉いと思っているイエスさまが、どうして十字架に架けられて死ななければならないのか、という理由でした。その意味でした。
 イエスが十字架にお架かりになる。それは、イエスが人々の罪を背負って、身代わりに犠牲になるということでした。ユダヤ人の指導者たちの罪も、人々の罪も、弟子たちの罪も、そして今、信じている私たちの罪も、時空(じくう)を超えてすべて背負って、私たち皆が罪の罰を受けずに済むように、神さまに赦(ゆる)されるようにしてくださったのです。それは言わば、イエスさまが、すべての人間の“下”になって、私たちすべてをいちばん下で支え、背負ってくださっている、という生き方です。
 先日、泉小学校の運動会がありました。そのプログラムの中で、最後から2番目に5、6年生による組体操がありました。その中に、5段でしたか、人間ピラミッドを組む大業がありました。大人数の1段目から、上に乗る人は段々少なくなって、いちばん上の子どもが乗ったときは、見事なものでした。うちの二人の子どもたちは、いちばん下の段になって、その重さにうなっていたようです。
 今日の御言葉から、この人間ピラミッドを思い起こしたのですが、弟子たちが考えている「偉い」ということは、たとえて言えば、このピラミッドのいちばん上に乗るようなものでしょう。すべての人の上に乗っかって、人々を支配し、命令し、権力を振るうような偉さを、弟子たちは夢見ていたようです。いや、いちばん上はイエスさまだから、自分たちは上から2段目になりたい、他の弟子たちよりも上の段になりたいと願っていたのです。
 ところが、イエスさまの生き方は、人々のいちばん上に君臨するようなものとは正反対です。イエスさまの生き方は、言わば“逆ピラミッド”です。イエスさまがいちばん下になって、その上に二人乗り、その上に三人乗り、その上に四人乗り‥‥と、一人ですべての人を背負っている。一人ですべての人々の罪を背負い、十字架に架かり、私たちの身代わりとなって、私たちを生かしてくださった。そのように、だれよりも低い位置に立って、人の下になって支える生き方、愛する生き方こそ「最も小さい者」(48節)になることだと、イエスは身を持って示してくださったのです。そして、そのような生き方こそ、「最も偉い者」(48節)になることだと教えてくださったのです。

 弟子たちの頭の中には、人よりも上の地位に立って、人々を支配し、命令し、権力をふるいたいという願いがありました。それが弟子たちにとって「偉い」ということでした。私たちの「偉い」という価値観も似たり寄ったりではないでしょうか。
 けれども、イエスは、いちばん低く、人の下に立って生きる「最も小さい者」こそ、最も偉いのだ、と教えました。それが、この世の価値観とは正反対の、天の価値観、神の価値観であり、神さまに喜ばれる生き方なのです。
 その価値観と生き方を教えるために、イエスは弟子たちの前に、「一人の子供」(47節)を立たせて言われました。
「わたしの名のためにこの子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣(つか)わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」(48節)。
 当時のユダヤ人社会において、子供は、神の掟である律法を知らず、わきまえず、行えないという点で、最も価値のない存在でした。その意味で、「最も小さい者」でした。そのような最も値打ちのない、小さなものを認め、大切にするためには、自分が偉そうにしていたら無理です。それよりもさらに低く、小さな者に自分がならなければなりません。そのように、自分が「最も小さい者」となって、小さな者を受け入れ、大切にする生き方こそ、十字架への道を歩んだイエスさまの生き方を受け入れることであり、それを喜ぶ神さまの御心を受け入れることになるのです。

 話は変わりますが、新潟の敬和学園高校で寮生活をしている長男が、9月末に2泊3日の修養会があって、長野県にある共同学舎に行って来たようです。かなり楽しく、有意義だったらしく、インターネット上のフェイスブックに、こんな感想を書いていました。共働学舎、すごくよかった。荷上げはすごく大変だったけどやりがいがあったし、温泉行くときはトラックにみんなで乗って騒いで楽しかった。また共働学舎行きたいです。来年の修養会も楽しみだ。
 今、月刊誌『信徒の友』に、4月からシリーズで〈信州・共同学舎からの便り〉という特集が載っています。共同学舎は、1974年に宮嶋眞一郎という方が、長野県小谷村に創立しました。東京の自由学園で教師をしていた宮嶋氏は、40歳を過ぎて自分の目が見えなくなっていくことを知り、50歳で自由学園を退職されました。そして、健康な者の教師でいるより、体の不自由な人や、様々な理由で社会の中で生きづらさを抱えている人たちが、能力や障がいの有無にかかわらず共に過ごす生活と学びの場を作りたいとの願いを持って共同学舎を作られました。自由学園で培(つちか)ってきたキリスト教をベースに、“競争社会ではなく協力社会を作ろう”“点数によって人を評価するのではなく、その人固有の命の価値を重んじよう”“生きるための食べ物と住まいを自ら作り出す喜びを味わおう”という考えの下、有機農法で食べ物を作り、パンやクッキー、ケーキ等も作って販売しています。共同学舎に集う一人ひとりは同じでなくて良いのだ、それぞれ与えられたタレント(能力)を生かして働き、学べばよいのだと考えて、皆が協力し合っています。今では北海道に2つ、東京にも1つ、共同学舎が生まれ、信州共同学舎の代表は、初代の宮嶋眞一郎さんから、そのご次男の宮嶋眞さんに受け継がれています。
 長男は、小谷村の真木という場所にある共同学舎に行きました。自動車で登れる道はなく、必要な物資を背負って、1時間半の山道を麓(ふもと)から歩いて荷上げするという奉仕に携(たずさ)わったようです。電話で話しましたら、今度、家族で一緒に行こうと言われました。ぜひ行ってみたいと思います。
 私は、〈信州・共同学舎からの便り〉を読みながら、「最も小さい者」になるという生き方の、具体的な一つの姿が共同学舎の中にあると感じました。すばらしいと思いました。でも、簡単にそこに飛び込んで、同じ生き方をすることはできません。
 けれども、今、私たち一人ひとりが置かれている場所で、職場や学校、家庭等における人間関係の中で、「最も小さい者」になるとはどのようにすることかを考えながら生きることはできます。イエスさまと同じでなくても、共同学舎と同じでなくても、イエスさまと同じ、共同学舎と同じ“愛の道”を歩くことはできます。
 イエスさまがエルサレムへ、十字架へと進む旅は、言わば「最も小さい者」となって人を愛する“愛の旅”でした。私たちも、そのイエスさまに愛されて、罪を赦されて、大切にされています。信じています。だからこそ、私たちもイエスさまの後(うしろ)に従って、「最も小さい者」の道を歩んで行きましょう。



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