2012年10月14日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書9章49〜56節
  説教者  山岡 創

「あなたがたの味方」

 先週の礼拝説教で、直前にある43〜48節をお話しました。その中で、中心となる御言葉を選ぶとすれば、48節の最後、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」だと言うことができます。「最も小さい者」こそ、イエスに喜ばれるのです。神さまの御心に適(かな)うのです。
 そして、今日の聖書箇所を黙想しながら、改めて「最も小さい者」とは、どのような者のことを言うのだろうか、と考えさせられています。
 今日の聖書箇所には、イエスが求めておられる「最も小さい者」とは反対の人間の姿が描(えが)かれていると思いました。弟子のヨハネが、自分たちと一緒に行動していないので、イエスの名前で悪霊を追い出している人の活動をやめさせようとした、といいます。イエスを歓迎しようとしないサマリア人を、弟子のヤコブとヨハネが天からの火で焼き滅ぼそうとしています。そういう考え方と行動を取ろうとするのは、いつの間にか自分を「偉い」と思い込んでいるからです。思い上がっているのです。
 別の言い方をすれば、弟子たちは自己中心になっているのです。自分のことを偉いと思い、思い上がっているから、自己中心になるのです。
 そのような弟子たちを、イエスはたしなめ、また戒(いまし)められたと書かれています。「戒められた」(55節)という言葉は、別の聖書では“お叱りになった”と訳されています。思い上がって自己中心に振る舞うことを、イエスはお叱りになるのです。そして、「なたがたに逆(さか)らわない者は、あなたがたの味方なのである」(50節)と、寛容(かんよう)な、広い心で相手を見て、受け入れ、自分たちを歓迎しない者たちとは争わずに、避けて通って行くことをお教えになりました。それが、「最も小さい者」の生き方なのだということを、イエスは弟子たちに示されたと言うことができるでしょう。

 さて、最初の話は、自分たちと一緒にイエスに従い、宣教活動をしていないのに、イエスの名前を使って悪霊を追い出している者がいる、ということでした。それを見て、弟子のヨハネは、やめさせようとしました。そして、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」(49節)とイエスに報告しています。ヨハネにしてみれば、“自分たちと一緒にイエスさまに従っていないのに、お許しももらっていないのに、イエスさまの名前だけ利用するとはずるい。怪(け)しからん!”という気持なのでしょう。
 ところが、イエスはそれをたしなめて、こう言われました。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」(50節)。ヨハネは、“えっ?”とびっくりしたかも知れません。
 イエスさまとヨハネの間には、大きな意識の差があります。ヨハネは、「わたしたちと一緒に」という点を重視しています。けれども、イエスさまは、一緒に活動していなくても、「逆らわない者は‥味方」と考えておられるのです。つまり、ヨハネの方は「味方」の捉(とら)え方が狭いのですが、イエスさまの方はずいぶん広いのです。“自分たちと一緒でなければ”という思いを捨てれば、私たちの心はずいぶんと拓(ひら)けます。

 私たちの心の中には、“自分たちと一緒でなければ”という気持が、自分が思っている以上に強く働いているのではないでしょうか。その気持が、数あるキリスト教と教会の教派、教団同士の間の非難となって現われることがあります。また、私たちの坂戸いずみ教会は日本基督教団に属していますが、同じ教団の中での対立や争いとなって現われることもあります。けれども、今日の御言葉から、私が皆さんと一緒に、いちばんに考えたいことは、私たちの坂戸いずみ教会のことです
 皆さんは、坂戸いずみ教会を共に造り上げる教会員また関係者を、みんな「味方」だと思っておられますか? みんながそう思っているならば、私たちの教会は幸いな教会です。いや、「味方」どころか、皆、坂戸いずみ教会に属し、坂戸いずみ教会を造り上げていく“仲間”でしょう!?と言われるかも知れない。確かにそのとおりです。
 けれども、一緒に主イエス・キリストに従っている一つの教会の中においても、“仲間”だと思えなくなる。「味方」だと思えなくなる。お互いに非難し、対立してしまう。それが、罪深い人間である私たちの現実なのです。そこに、“自分と一緒でなければ”という意識が深く関わっています。
 例えば、どんな時にそういう仲間割れ、味方割れが起こるのか。それは、自分が信仰に、教会に熱心になっている時です。もちろん、熱心になること自体が悪いわけではありません。むしろ、熱心になってほしい。自分が置かれた信仰生活の中で、一人ひとり熱心になってほしい、キリストに熱心になってほしいと私は願っています。けれども、自分の熱心さのあまり、私たちは他者を非難することがしばしばあるのです。
 この気持、この問題は、私自身、よく分かるのです。20歳の時、私はかなり強烈な救いの内的体験を味わいました。価値観が変わり、生き方が変わり、世界が変わりました。感謝と喜びに満ちあふれました。それが元で献身を決意し、神学校に入学しました。熱心に信仰生活をし、教会のために熱心に奉仕しました。一緒に、熱心に奉仕する青年が何人かいました。それがまた喜びであり、楽しくもありました。
 けれども、同時に私は、教会も休みがち、奉仕もほとんどしない青年たちを“どうしてだ!?”と心の中で非難していました。裁(さば)いていました。それは、その人を愛し、その人を思っての心配ではなく、自分の熱心さが昂(こう)じて、自分とその人を比べての非難であったと思います。
 熱心が悪いわけではない。キリストへの熱心はすばらしい。けれども、熱心は時に、自分の目を曇らせます。自分でも気づかないうちに、キリストの心を見る目が、人を愛によって見る目が曇って来ます。
 だから、私は牧師になってからは、こう考えることにしています。自分はキリストに熱心に仕える(いや、不調な時、落ち込む時もありますが。そんな時、怠惰な自分、できない自分が神さまに愛され、赦されている恵みに気づかされて、自分も人を認めよう、受け入れようと思い直すのです)。そして、皆が自分と同じようにしなくても、決して非難しない。強制しない。それぞれ、時間的な都合もある。体調の問題もある。家庭の事情もある。そういう中でキリストに従っている一人ひとりの信仰の在り方を信じる。そして、その人の信仰において、何かしら集会に参加したり、奉仕してくださったことには感謝する。それを喜ぶ。
 もちろん、信仰の教育・訓練をしないというわけではない。それはまた別問題です。声はかけます。頼むこともあるでしょう。一緒にできたら、それはありがたい。感謝です。けれども、できる時もあれば、できない時もある。できる人もいれば、できない人もいる。焦(じ)れるのではなく、それがその人の信仰のベスト・パフォーマンス(最適な行動)だと信じたい。そう信じて、一人ひとりの信仰と奉仕と賜物(たまもの)をつなぎ合わせて、私たちにできる教会を造り上げていきたい。そうすれば、非難や裁きはなくなります。みんな、大切な「味方」です。仲間です。
 逆もあるので注意しましょう。していない者が、している者を非難する場合があります。妬(ねた)むこともあります。熱心にしている者を「やめさせようとしました」という気持になることがある。そうではなくて、感謝しましょう。自分ができないことに劣等感を感じる必要もありません。むしろ今、この教会の中で、自分ができないことを、別のだれかがしてくれていることに感謝しましょう。そして、その人のために神の支えと祝福を祈りましょう。そうすれば、教会には「味方」しかいません。愛すべき“仲間”しかいません。

 なぜ「わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」という非難になるのか。もっとひどくなれば、なぜ「天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」という裁きの気持になるのか。
 自己中心だからです。自己中心な目で、自分と他者を比較して見ているからです。そして、主イエス・キリストは、“自分の味方”だと思い込んで、自分を正当化しているからです。「最も小さい者」になっていないからです。
 確かに、主イエス・キリストは“私の”味方です。でも、同時に、私以外の、“あの人の”味方、“この人の”味方でもあることを忘れてはなりません。キリストは、すべての人を受け入れて、愛しておられるのです。
 親の気持を考えれば分かります。親は3人子供がいれば、3人ともかわいいのです。10人いれば、10人ともかわいいのです。100人いれば、100人ともかわいいのです。もちろん、一人ひとり接し方は違うでしょうし、与えるものも違うでしょう。でも、一人ひとりを愛しております。それなのに、子どもたちがいがみ合っていたら、いちばん悲しむのは親です。そうなったら、親はどちらの味方でもあり、どちらの味方になることもできないでしょう。私たちが、逆らわない者は味方と広い心を持ち、神さまは一人ひとりを愛して、認め、受け入れておられるとの信仰で、互いに愛し合う時に、私たちは神さまのお心に似た者となります。
 私は、私たちの坂戸いずみ教会は、“熱心で、やさしい教会”でありたいと思っています。そのために、私たちは「最も小さい者」を目指して歩みましょう。キリストを目指して歩みましょう。みんな「味方」と、低く広い心で人を受け入れ、支え合って、教会を造り上げていきましょう。



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