2012年11月4日 永眠者記念礼拝説教
  聖  書  ヨハネによる福音書14章1〜7節
  説教者  山岡 創

「天の父の家に住む」

  本日は、教会の暦の上で〈聖徒の日〉と呼ばれる日曜日を迎えました。“聖徒(せいと)”というのは、週報の礼拝順序のところに書かれているように、“聖なる徒”と書きます。これは、イエス・キリストによって聖なる者とされ、天国に召された信徒のことを言います。
 そのように、天国に迎え入れられた人々を偲び、記念する日として、8世紀にグレゴリウス3世という教皇が、この日を定めました。だから、聖徒の日は、日本流に言えば、お彼岸やお盆に当たるものと考えてよいでしょう。
 そういうわけで本日の礼拝は〈永眠者記念礼拝〉として守ります。天に召された人々を偲び、やがて私たち自身も召されていく天に思いを馳せます。

 皆さまのお手元に、当教会に関係のある永眠者の方々の名簿をお配りしました。私たちの教会は、1992年の創立から今年でちょうど20周年を迎えましたが、20年の間に、10名の教会員を天に送りました。また、この教会で葬儀をなさった方、教会墓地に納骨されている方々のお名前が、そこに記(しる)されています。
 昨年の永眠者記念礼拝から今日までの間に、教会員であるM・Tさんが、7月30日に天に召されました。101歳という長寿を全(まっと)うされました。Mさんは1993年に、東京・石神井教会から私たちの教会に移られ、以来ほとんど休まずに日曜日の礼拝に出席なさいました。2005年、この新会堂に移転した頃から、年齢による衰えのため教会に来られなくなりました。ご自宅をよくお訪ねしました。最後まで、本当にしっかりしておられました。臨終の日、ご家族の方から危篤(きとく)の連絡があって、すぐに妻と二人で出掛けました。水谷さんの手を握って、“イエスさまが一緒にいるから、だいじょうぶですよ”と声を掛けて失礼しました。返事はありませんでしたが、聞こえていたのでしょうか、それから1時間も経たないうちに、水谷さんが亡くなられたとの知らせが届きました。“イエスさまが一緒にいるからだいじょうぶ”と安心して、天国へ旅立たれたのだと思いました。
 私たちは一人ひとり、地上での交わりを偲ぶことができる人を、心の中に大切に持っています。ありし日のその人の姿を偲びながら、そして聖書の御(み)言葉に耳を傾けながら、この礼拝を守りたいと願います。

さて、地上の生涯を終え、天に召された人を、永眠者とも呼びます。しかし、本日の説教の準備をしながらふと、考えてみれば“永眠者”という呼び方はおかしいのではないかと思いました。と言うのは、私たちは復活を信じている者の群れです。地上の生涯を終え、死んでも、やがて永遠の命に目覚める朝が来ることを信じて歩んでいるのです。そういう信仰からすれば、永遠に眠っている者という呼び方はおかしい。主イエス・キリストが復活されたように、復活の朝まで仮眠している、あるいは一時的に眠っていると考えるべきでありましょう。
もう一つ、“永眠者”という呼び方がおかしいと思う理由は、教会が天国を信じている者の群れだからです。地上の命を終えた者は、天上で永遠の命を与えられ、生きているのです。神を賛美する天上の礼拝に連(つら)なり、死も悲しみも労苦もない喜びの宴(うたげ)に座を占めているのです。眠っているのではありません。天国で暮らしている、という感覚です。そういう信仰からすれば、永遠に眠っている者という呼び方はやはり違うのではないか。もっと天国の喜び、復活の希望を表す呼び方があってよいと思いました。
 実は、聖書を読んでみると、人間の死後について、二つの考え方があることが分かります。一つは、人間は死後、眠りにつくという考え方です。私たちが生きている現世には終わりがあるとキリスト教では考えます。神がお造りになった世界を神が終わらせるのです。完成させると言った方がいいかも知れません。いずれにせよ、その終わりの時に世界は新しく生まれ変わる。その新しい世界で生きるべく、眠りについていた人々が復活するのです。ただし、その時、イエス・キリストによる裁きを受けなければなりません。現世での行いによって裁かれ、新しい世界に入れるかどうかが決まるのです。そう言われると、自分は入れるかと不安になるかも知れませんが、神さまの御心は、すべての人が滅びないで、悔い改めて救われることですから(Uペトロの手紙3章9節)、私は、神の子イエス・キリストの裁きの座で、“私が悪かったです。お赦しください”と悔い改めたら、すべての人が新しい世界、神の国に入れてもらえるに違いないと(楽観的に)信じているのです。
 人間の死後についてのもう一つの考え方は、死んですぐに、神の世界に迎え入れられるというものです。ルカによる福音書16章に〈金持ちとラザロ〉という話がありますが、金持ちの家の前で、病を抱え、物乞いをしていた貧しいラザロが死んだとき、「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」(16章22節)と主イエスは語っています。死後の世界を「宴席」、宴の席にたとえています。アブラハムというのはユダヤ人のルーツと言うべき人物で、そのアブラハムのすぐそばに、ということは、宴席の一番の上座ということです。何にせよ、人は死んだらすぐに、神の世界、天国に迎え入れられるという考え方です。

 今日読みましたヨハネによる福音書14章1節以下の御言葉は、人は死んだらすぐに、神の世界、天国に迎え入れられるという信仰を表しています。
 主イエスは弟子たちに語りました。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうしてわたしのいるところにあなたがたもいることになる」(1〜3節)。
 最後の晩餐と言われる夕食の席で、主イエスはこのようにお教えになりました。翌日には、主イエスは敵に捕らえられ、陥(おとしい)れられ、十字架に架けられて殺されるのです。主イエスには、そのことが分かっていました。だから、弟子たちに“わたしは行く”と語られたのです。私は十字架に架けられて殺される。けれども、それは天にある父なる神の家に行く、ということだ。父の家には住むところがたくさんあって、先に行って、そこにあなたがたを迎える場所も用意しておこう。そして、霊となってあなたがたの心に戻って来る。あなたがたが、天の父の家には自分の「住むところ」、自分の「場所」もあると信じることができるように。そのように主イエスはお教えになりました。
 私たちは順調に生きている時はあまり意識しないのですが、人間が生きていく上で「場所」があるかないかということは、非常に大きな問題です。自分の「場所」がなかったら、人は生きていけないのです。
 この場合の「場所」というのは、空間的な場所の問題ではありません。自分の家とか部屋とか、職場、学校、そういった空間的な場所のことではありません。家があっても家にいられないことがある。職場があっても、学校があっても、そこに行きたくないことがあります。そう考えたら、単に空間の問題ではないことが分かるでしょう。
「場所」というのは、“他者との関係”という意味です。人に認められている。人から信頼されている。人に大切にされている。人に赦(ゆる)されている。人に愛されている。そういう関係があって初めて、私たちは“生きる場所”を得るのです。そういう関係のないところでは、私たちは不安に陥(おちい)り、自分が生きている意味を見つけることができなくなります。そこに、私の「場所」はないのです。
 主イエスは、父なる神に愛されて生きる関係を教えてくださいました。愛されて生きる安心の「場所」を与えてくださいました。そして、その「場所」が地上の人生だけで終わるのではなく、天にまで続くということを示してくださったのです。死んでも、父なる神とのこの関係は続く。永遠に続く。死んでも、あなたは神に愛され、赦され、認められ、大切にされる。だから、心を騒がせなくて良い、と主イエスは励ますのです。父なる神を信じ、主イエスに命を委(ゆだ)ねた者は、もう既に天の国に「住むところ」「場所」を予約してある、ということです。

 けれども、弟子のトマスが言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(5節)。
 ある牧師が、“死んだらどうなるのですか”としばしば聞かれると、ある本の中で書いていました。しかし、牧師であっても、この問いには答えられないと言っています。それは、死を経験したことがないからです。死を経験した者が、生き返って“死後の世界はこうだった”と語ることはできないからです。だから、分らないのです。ただ主イエス・キリストのみが、人の命と死の道を、死後の世界をお語りになります。だから、主イエスは言われます。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。
 死後のことは“分かる”という知識の対象ではありません。分からないのです。ただ信じることです。キリスト教流に言えば、主イエスの教えに従い、主イエスの道を歩む。そうすることによって悟ることができる恵みと平安の世界です。
 天の父の家には住むところがたくさんある。そこに、私たちの愛する人も「場所」を与えられています。いつか私たちも、その場所に迎えていただけます。
 死は終わりではなく、滅びでもなく、父の家への入口、天国への入口、そして永遠の命と愛する者との再会への入口、その信仰を手にする時、私たちは幸いです。



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