2012年11月11日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書10章1〜16節
  説教者  山岡 創

「神の働き手になろう」

 主イエスの“弟子”と言えば‥‥‥ペトロやヤコブ、ヨハネといった、いわゆる12弟子を、皆さん、思い浮かべるのではないでしょうか?けれども、主イエスの弟子は12人しかいなかったのかと言えば、どうやらそうではないらしい。少なくとも今日の聖書箇所に、「主はほかに七十二人を任命し(た)」(1節)と書かれています。同じルカによる福音書の9章に〈十二人を派遣する〉という記事がありましたから、その12弟子の「ほかに」という意味です。12弟子のように、聖書の中に名前が記録されているわけではありません。名もなき弟子です。けれども、名もなき弟子たち、記録にも残らないような弟子たちの働きが、伝道の業(わざ)を進展させ、教会を造り出していったのだと私は思います。
 「七十二人」という数は、当時、世界にはこれだけの民族がいると考えられていた数字です。だから、72人がこの時遣(つか)わされたのはユダヤ人の町や村だったでしょうが、この時既に、主イエスは、ユダヤ人という民族の枠を超えて、世界中の人々に「神の国」の福音を伝えようとする志を持っていたのだと思われます。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15節)と、復活の後に弟子たちに命じられた世界宣教の志です。だから、名もなき弟子たちの宣教、伝道は、今日の、世界中の教会につながる第一歩だったことは間違いありません。
 ところで、この「七十二人」とはだれか?当時の教会の人々は、これは自分たちのことだと考えて、読んだに違いありません。そして今、私たちも、特に洗礼を受けた教会員・信徒は、遣わされていく72人とは、自分(たち)のことだと受け取ってほしい。

 さて、主イエスは、72人を遣わすにあたり、こう諭(さと)されました。
「収穫は多いが、働き手が少ない」(2節)。
私は、この言葉にハッとしました。私は「収穫は多い」と思っているだろうか?
この言葉は、後に教会から遣わされて伝道したパウロという人が、コリントの町で、神さまから語りかけられた言葉を連想させます。
「この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(Tコリント18章10節)。
 神の国の収穫は多い。それは、福音を信じて神の民となる、クリスチャンとなる人が大勢いる、ということです。けれども、私はこの御(み)言葉を信じているだろうか?坂戸の町に、収穫は多い、神の民となり得る人は大勢いると信じているだろうか?。いや、福音など、そう簡単には伝わらない。そう簡単に人は信じない。だから、収穫は少ない。教会に人は増えない。そう思ってしまっているところがあるのです。
 皆さんはどうでしょうか?「収穫は多い」と信じていますか?もしかしたら、現実に打ちのめされて、“だめだ。家族も、友人も、誘っても教会に来ない。信じようとはしない。無理だ”。そう感じて、知らず知らず、伝道あきらめモードになっていないでしょうか?あきらめモードになっていたら伝道できない。伝道のために働けないのです。「働き手が少ない」のはそのためです。働き手がいないわけではない。しかし、あきらめて働かなかったら、働き手になれない。その結果、働き手が少なくなるのです。
 確かに、現実を見れば、そういう気持になったとしても無理はないと思います。けれども、私たちが信じるべきなのは現実ではなく、神の御言葉です。「収穫は多い」という御言葉です。収穫は少ないと考える不信仰を悔い改めて、「収穫は多い」と信じることから、福音の伝道は始まります。家族は信じるようになるのです。友人は信じるようになるのです。人は信じるようになるのです。「収穫は多い」。この御言葉の可能性に、私たちの信仰モード、伝道モードを切り替えましょう。

 「収穫は多いが、働き手が少ない」と主イエスは言われました。けれども、主イエスは任命した72人に、“だから、あなたがたが働き手となって伝道しなさい。収穫しなさい”と言われたわけではありません。そうではなく、
「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(2節)
とお教えになりました。普通だったら、働き手が少ないから、あなたたちが働きなさい、と言う文脈でありましょう。しかし、主イエスが言われたのは、「収穫の主」、神の国の主、すなわち神さまに働き手を送ってくださるように願いなさい、ということでした。何だか肩すかしをくらったような、ちょっと不思議な言葉です。けれども、この御言葉には深い意味があります。
 もちろん収穫のために、神の国の伝道のために遣わされるのは72人なのです。けれども、この72人が“だから、あなたがたが働き手となって伝道しなさい”と命じられたら、どう感じたでしょうか?主イエスに信頼されていると、勇んだかも知れません。しかし、反対にひるんだかも知れません。プレッシャーを感じたかも知れません。この世に神の国の働き手となって行くということは、「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」(3節)なのです。その現実を知っていたら、勇むよりもプレッシャーでしょう。では、私たちが同じく“働き手となれ”と直接言われたらどうでしょう?家族や友人は、誘ってもなかなか教会に来ないし、そう簡単には信じない。その現実を感じている私たちには、やはりプレッシャーではないでしょうか。その気持は、裏返せば、自分の力で伝道するのは難しい、と感じているということです。
 けれども、だからこそ主イエスは、自分の力で伝道するのではなく、「収穫の主に願いなさい」と言われるのです。つまり、それは“祈りなさい”ということです。自分の力で伝道しなければと気張る前に、まず神に祈りなさい、と言うのです。
 実は、伝道するのは私たちではありません。神さまご自身です。神さま御自身が、私たちを通して働き、伝道なさるのです。だから、極端に言えば、伝道するとは、私たちの責任ではなく、神さまの責任です。だから、プレッシャーを感じなくていい。
 私たちに求められているのは、祈ることです。“神さま、あなたが私を通して働いてください”と祈ることです。自分の力に頼るのではなく、神さまの力を求め、委ねることです。「財布も袋も履物も持って行くな」(4節)という教えは、つまり自分の力に頼るな、それは不安とプレッシャーの元だから捨てよ、ということです。
 だから、自分の力で伝道しなければ、と力まなくていい。楽にしていればいいのです。しかし、伝道のために祈ることは私たちの責任です。そして、祈ることで、“私”ではなく、“神さま”が私を通して伝道なさるのだ、と信じることで初めて、私たちは町や村へ、自分の伝道の現場へ遣わされるのです。

 自分の遣わされる場所へ、人とのつながりの場所へ、私たちは「この家に平和があるように」(5節)と、平和を届けるために、伝えるために遣わされます。それは、「狼の群れに小羊」(4節)として送り込まれるということです。この世においては、強者の論理の前に“そんな信仰はだめだ。そんな考え方では生きていけない”と叩かれ、つぶされてしまうかも知れないのです。
 けれども、主イエスは、狼の中であなたがたも狼として強く生きよ、とは言わないのです。私たちが狼になったら、あるいは狼以上に強いライオンか何かのようになったら、そこに「平和」はないのではないでしょうか。強者同士の争い、その繰り返しがあるだけです。
 主イエスも“神の小羊”と言われました。柔和で謙遜な生き方をなさいました。隣人を愛し、弱い者を愛し、友のために命を捨てる道を歩まれました。争い戦わず十字架におかかりになりました。そのような神の小羊に遣わされる小羊としての私たちの生き方、私たちの伝道とは何でしょう。自ずと見えてくるものがあります。
 先日木曜日の聖書と祈りの会の分かち合いをしているとき、話の流れの中で、ある方が、こんな話を読んだことがあると言われました。あるところに売春婦がいた。牧師が彼女のところに行って話をし、“あなたも教会に来なさい”と勧(すす)めた。そうしたら彼女は何と言ったか。“あんなところに行けるもんか!今よりもっと惨めになるだけだ。教会に行くぐらいなら、警官を殴って留置場に行く方がましだ”。それを聞いたその牧師は大きなショックを受けた、という話です。
 主イエスは、当時ユダヤ社会で非難されていた遊女のそばに寄り添い、神の国の福音を伝え、何人も救いました。マグダラのマリアをはじめ、主イエスに従うようになった遊女が何人もいたのです。その主イエスの福音を受け継いでいるはずの教会に、現代の売春婦の女性は、牢屋の方がましだと叫ぶ。これは教会にとって確かにショックです。でも、私は、教会はそういう場所になってしまっているとうなずける面もあるのです。教会は、そういう正しい強者の集まりになってはいけない。この世で、羊のように弱い者、悲しみや苦しみを抱えた人が安心して来られる場所にならなければならない。私たち一人ひとりが、愛と柔和と謙遜のある小羊として生きなければならない。私たちは鈍く、愚かなために、正しい強者として、弱い者を排除するような生き方をしてしまっている自分たちに気づかないこともあるけれど、もし気づいたなら、そういう自分(たち)を悔い改める。悲しみや苦しみ、痛みを抱えた人が安心して集える交わりを造り上げていきたいのです。
 それが「平和」というものです、そして、そこにこそ「神の国」が近づいている、神の国があると言えるでしょう。

 そんな平和を届けるために、そんな神の国を造り出すために、私たちは一人ひとり、主イエスに任命されて、遣わされるのです。家族のもとに、友人のもとに、この町に遣わされるのです。大切な使命です。でも、決して独りではありません。共に伝道する仲間がいます。そして何より、“後から私も行く”と主イエスが約束されています。主イエスは、「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」(1節)とあります。自分独りで行って、自分の力で伝道するのではありません。そうしたら失敗します。心が折れます。しかし、そうではありません。私たちは先遣隊です。家族に、友人に、この町に、先に遣わされて行くのです。そして、いつか後から主イエスが来てくださったとき、相手は主イエスと出会います。出会ったら救われます。教会につながります。その信仰で、主イエスにお任せして、焦らず、やさしい心で、神の国の働き手となりましょう。



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