2012年12月2日 待降節第1主日礼拝説教
  聖  書  ヨハネによる福音書3章1〜16節
  説教者  山岡 創

「神の愛のプレゼント」

 今日から待降節アドヴェントが始まりました。教会にクリスマス・シーズンが到来し、クリスマスを意識しながら、クリスマスに向かって一日一日歩んで行く期間です。昨日の午後、3名の婦人を中心にアドヴェントの飾り付けがなされました。これを見ると、改めて “いよいよクリスマスだなあ”と感じます。しかし、クリスマスの飾り付けは目に見える所だけであってはなりません。私たちは、お客さんを迎えるとき、家の掃除をするように、一人ひとり、自分の心の部屋を整え、飾り付けをして、おいでになるイエスさまを、自分の心の部屋に迎え入れる準備をしたいと思うのです。
 ところで、クリスマスと言えば、プレゼントのシーズンです。子どもたちは、サンタさんから何がもらえるかなと期待しながら、この時期を過ごすことでしょう。でも、サンタ・クロースを信じられなくなった子どもたちも少なからずいます。けれども、サンタ・クロースを信じられなくなったのは子どもだけでしょうか? 私たち大人も、サンタ・クロースを信じられなくなっているのではないでしょうか。
 サンタ・クロースにも色々あります。私たちにとって1番のサンタ・クロースとはだれでしょう? それは父なる神さまだと、私は思うのです。なぜなら、神の独り子であるイエスさまを、この世にプレゼントしてくださったからです。今日読んだ御言葉の16節で、私たちは語りかけられています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(16節)と。
 神はご自分の独り子イエス・キリストを、この世に与えてくださった。それは、それだけ世を愛している証拠です。「世」などと言うと、抽象的(ちゅうしょうてき)で分かりにくい。そこで、「世」と書かれているところに自分の名前を入れて味わってみると良い、と言われます。神は、その独り子をお与えになったほどに、“山岡創”を愛された、というふうに。“私”を愛するために、神さまはイエスさまを送ってくださったのです。
 けれども、これほどの神の愛が、時々見えなくなることがあります。神さまサンタを信じられなくなる時があります。それは、調子が良くて思い上がっている時か、反対に、調子が悪くて心が弱り過ぎているかのどちらかです。どちらの場合も、神さまに心の目が向かない時です。実はここ最近、私も調子が悪い。いまいち体調が良くありません。体調が悪いと稼働率(かどうりつ)が下がります。仕事も他のことも思うようにできなくなる。そうなると迷いが生じます。自分は駄目(だめ)な奴だとネガティブ(うしろむき)になります。でも、そういう時こそ神さまに目を向けることが必要です。
私たちの人生には、調子の悪い時があります。逆風(ぎゃくふう)の時があります。うまく行かない、思うように行かない時があります。けれどもそれは、自分の力に思い上がらずに、神さまに目を向けるチャンスを、神さまが与えてくださっているのだと考えることもできます。そういう意味で、私は、クリスマスへと向かうアドヴェント(待ち望む)の期間を、改めて独り子をくださった神の愛を思い、平安を味わう時にしたいと思っています。

 さて、ここに一人、神さまの愛から目が離れている人がいました。ニコデモという人です。彼はユダヤ教の「ファリサイ派」(1節)の人で、「ユダヤ人たちの議員」(1節)でした。ファリサイ派というのは、神さまの掟(おきて)である律法を忠実に守る宗派で、それ故に神に愛され、神の国に入ることを約束されていると自負(じふ)する宗教的エリート集団でした。しかも、彼は議員でした。ユダヤ人を指導する最高法院、その72名の議員の一人でした。うまく行っているのです。知らずしらず思い上がっていたかも知れません。
 しかし、そんなニコデモが、主イエスのもとにやって来ました。何かを求める心を失ってはいなかったのだと思います。主イエスのもとにやって来たのは、直前の2章に記されているように、主イエスがカナの結婚式で水をぶどう酒に変えた奇跡を噂(うわさ)に聞き(あるいはその場にいたかも)、また商売の家と化している神殿で商売人を追い出し、その堕落(だらく)を清めたからです。ある意味、ニコデモは爽快(そうかい)な思いだったかも知れません。そこで、主イエスの行為を見て、「神のもとから来られた教師」(2節)と認めたのです。
 けれども、そのニコデモに、主イエスは思いがけないことを言われました。
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。 えーっ!?とニコデモは思ったでしょう。なぜなら、主イエスの言葉はニコデモには、“あなたは新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない”と聞こえたはずだからです。熱心なファリサイ派の信徒であり、議員でもある彼は、自分には神の国が約束されていると信じて疑ったことがなかったでしょう。だから、“あなたは入れない”と言われた主イエスの一言に驚きもしたでしょうし、反発(はんぱつ)も感じたに違いありません。だから、主イエスに食い下がります。この後のニコデモの語る言葉について、聖書には、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(10節)と、彼の理解力が足りないかのように言われていますが、私はそうではなくて、“あなたはこのままでは神の国に入れないよ”と自分の信仰を否定されたことに対する“そんなことはない”という反発心が、ニコデモを食い下がらせているのだと思います。つまり、ニコデモは自分に崩折(くづお)れて、悔い改めて主イエスのもとに来たのではないのです。立派な信徒、立派な人間と自負(じふ)して来たのです。神に認められ、神の国を約束されている者として来たのです。自分の力と行いに自信を持っています。上から目線(めせん)なのです。そういう自分を悔い改めて、神の憐(あわ)れみを求める目線ではなかったのです。主イエスは、そういうニコデモの心を見抜いておられました。

 食い下がるニコデモに、主イエスは言われました。
「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)。「水」によって、と言うのは、教会の洗礼式を象徴(しょうちょう)していると思われます。主イエスの当時にも、洗礼はありました。しかし、それは異邦人がユダヤ教に回心、改宗(かいしゅう)する時の儀式であって、既に神の民であるユダヤ人には必要のないものと考えられていました。しかし、主イエスの師であったヨハネは、ユダヤ人にも悔い改めが必要と考え、悔い改めの形として洗礼を授けました。主イエスもヨハネからヨルダン川で洗礼をお受けになったのです。その主イエスも、神の憐れみを見失っている自分を悔い改めるという意味で、神の憐れみに心を向けるという意味で、水による洗礼をお考えになったのでしょう。
 けれども、それ以上に大切なのは、「霊(れい)」によって生まれる、ということです。「霊」とは何でしょうか。幽霊(ゆうれい)とかゴーストとか、そのような超常現象(ちょうじょうげんしょう)を言うのではありません。聖書が言う「霊」とは、体感できるようなものとは違うと思います。
 その後の主イエスの言葉に、「風は思いのままに吹く。‥‥‥霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)とあります。この御言葉から、「霊」について連想した御言葉がありました。それは、コリントの信徒への手紙(二)3章17節(新約328頁)です。「主の霊のおられるところに自由があります」。更に18節が続きます。「わたしたちは皆、顔の覆(おお)いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」。
 あぁ、これが新しく生まれるということだな、と思いました。
 どういうことでしょう? この手紙の3章には、神さまの掟である律法の問題が書かれています。律法の一つ一つの教えに縛(しば)られて、肝心の“律法の心”が見えていない。故(ゆえ)に、一つ一つの教えを守ることにこだわり、守れない者を見下し、裁く。それが、顔に覆いが掛っていて、律法の心が見えない、神の愛が見えない状態です。ファリサイ派のニコデモは、その代表のような人物です。
 このような律法に対するこだわりと裁きから、人は自由になる必要があります。そのためには、律法の文字ではなく、律法の心を読み取ること、すなわち“愛の心”を読み取ることです。自分は律法を行い、まじめで立派な人間だから、神さまに救われるのではないのです。何も持たず、至らない、不甲斐無(ふがいな)い自分が、神の憐れみによって救われるのです。そう、“私”は罪人なのに神さまに愛されているのです。私だけでなく“皆”、神さまに愛されているのです。だから、私も人を愛するのです。受け入れるのです。
 この愛を実践したイエスさまのエピソードを思い出します。ヨハネによる福音書8章1節以下にある話です。姦通(かんつう)の罪を犯した女性が現場で捕らえられました。人々は、この女性をイエスのもとに連れて来て、“律法には、こういう女は石で撃(う)ち殺せと命じられている。さあ、あなたならどうする”と迫(せま)りました。主イエスはそれに答えず、地面に何か書いておられたとありますが、あまりにしつこいので、身を起して「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。この一言に、人々はその場から一人去り、二人去り、遂にだれもいなくなったと言います。そして、二人きりになったとき、主イエスはその女性に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。
 確かに姦通は好ましからざる行為です。律法に反する罪です。けれども、主イエスは律法に書かれているからと言って、石を投げない。裁かない。お互いに罪を持ち、罪を犯す者同士、まるで自分には罪がないかのように上から目線で裁かない。否定しない。駄目出しをしない。憐れむのです。愛するのです。忍耐するのです。赦すのです。人を生かすのです。それが律法の真髄だ、神の心だと主イエスは教えます。
 霊によって新しく生まれるとは、神さまの大切にされるものが愛であることを知り、神に愛されていることを信じ、自分も人を愛して生きる者になることです。

 「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と16節にありました。独り子イエス・キリストを信じることは、言い換えれば、独り子によって示された神の愛を信じることです。神の愛を信じ、人を愛して生きる者は「永遠の命」に生きています。永遠の命とは、死ぬことなく地上で永久に生きることではありません。コリントの信徒への手紙(一)13章には、永遠に続くものが3つ示されています。「信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(13節)。いつまでも残る、永遠なる信仰と希望と愛、その中で最も大いなる愛に生きるならば、私たちは「永遠の命」を得ているのです。新たに生まれ、この地上で既(すで)に「神の国」を生きています



   ウィンドウを閉じる