2012年12月9日 待降節第2主日礼拝説教
  聖  書  マタイによる福音書1章1〜17節
  説教者  山岡 創

「名も無き者から生まれた神」

 待降節アドヴェント第2主日(日曜日)を迎えました。クリスマスに向かう礼拝の中で、今年はマタイによる福音書を通して、救い主イエス・キリストの誕生にまつわる御言葉を聞こうと考えています。
 さて、マタイによる福音書を開くと、初めに〈イエス・キリストの系図〉が置かれています。聖書を読んでみようと志(こころざ)した人が、興(きょう)をそがれるような、せっかくの志をつまずかせられるような出だしです。
 聖書を手にして、旧新約聖書であれば、いちばん最初を開くと創世記があります。その冒頭(ぼうとう)には、「初めに神は天地を創造された」という御言葉で始まる天地創造物語がありますから、割とおもしろく読めると思います。
けれども、新約聖書だけの聖書を手にして、その最初を開くと、この系図があります。既に亡くなられましたが、キリスト教作家であった三浦綾子さんが、初めて聖書を開いてここを読んだとき、“何と退屈(たいくつ)な本だろう”と思ったと、著書『光あるうちに』の中で書いています。その後の話がおもしろい。あまりに退屈なので、三浦綾子さんは、“自分の恋人にするなら、どの名を選ぼうか”と考えながら読んだ、と言います。ここにお集まりの女性の方々、皆さんならどの名前をお選びになるでしょう? あるいは男性だったら、プロテスタントはカトリックと違って洗礼名はないけれど、自分の洗礼名にするなら、どの名前が良いかと考えて読むと、いくらかいいかも知れません。それでも、決しておもしろい、ひきつけられるとは言えないでしょう。たぶん、先ほど私がこの系図を朗読した時、耳に入らなかった、集中して聞けなかった方もおられたのではないでしょうか。
 そのように退屈な、私たちにとっては無意味だと思われるような系図が、どうしてこの福音書の最初に載(の)せられているのでしょうか。それは、この福音書が主に、ユダヤ人を対象(たいしょう)に書かれたものだから、ユダヤ人にイエス・キリストを信じる者になってほしいと願って書かれたものだからです。

 ユダヤ人は血筋(ちすじ)を重(おも)んじる民族です。それは、神に選ばれた民族の一員であるためです。神の祝福を受けるためです。
 最初に、神さまに選ばれ、召し出されたのは、この系図の最初に記されているアブラハムです。彼は、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(創世記12章1節)と命じられ、カナン地方に到着した時、「あなたの子孫にこの土地を与える」(12章7節)と約束されました。このアブラハムの子孫が神に選ばれた民イスラエルとなりました。このイスラエルの民を、私たちはユダヤ人とも呼びますが、彼らにとっては神に選ばれた民であるためにアブラハムの血筋、アブラハムの子孫であることが重要なのです。そして、それを証明するものが系図です。
 だから、彼らは一人ひとり、自分の系図を持っています。当時は紙が貴重(きちょう)な時代でしたから、みんなが巻物の系図を持っているわけではない。だから、皆、自分の系図を暗記していたはずです。「アブラハムはイサクを、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを‥‥」(2節)というふうに。
 ですから、この系図は、イエス・キリストも確かにアブラハムの子孫である、この福音書を読む人々と同じユダヤ人である、神に選ばれた民族の一員であることを表しています。

 更にこの系図にはもう一つ重要な目的があります。それは、冒頭の1節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあるように、イエス・キリストがダビデの子孫であると証しすることです。
 ダビデという人物は旧約聖書のサムエル記に出て来ます。羊飼いの家の末っ子でしたが、神さまに選ばれて、イスラエル王国の2代目の王になります。そして、周りの諸民族に戦いで勝ち、あるいは外交で同盟し、支配して、広大な領域(りょうえき)を持つ王国を築き上げ、英雄とたたえられます。
 けれども、ダビデ王の後、イスラエル王国は分裂し、次第に衰退(すいたい)し、最後はメソポタミアのバビロニア帝国に滅ぼされて、ほとんどの人が捕虜(ほりょ)としてバビロニアに連行され、約50年その地で暮らすことになります。その後、イスラエルの人々は故郷に帰還(きかん)することを許されますが、その後も代わる代わる大国に支配され、イエス・キリストが生まれた当時はローマ帝国に支配されていました。
 そのような歴史の中で、イスラエルの人々、ユダヤ人は救世主を望みました。自分たちを大国の支配から解放し、イスラエル王国を復興する英雄です。その英雄の理想像はダビデです。だから、当時の人々は、ダビデ王の子孫から救世主が生まれる、神さまはダビデの子孫から救い主を遣(つか)わしてくださると期待し、信じていたのです。
 だから、ユダヤ人を信じさせるためには、イエス・キリストがダビデの子孫であることを示すことが非常に重要だったのです。
 だから、この系図は、イエス・キリストが「ダビデの子」であることを証明するために載せられています。そのことは17節を解読しても分かります。17節には、「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」と書かれています。これを読んで、おかしい、不自然だと感じた方もおられるでしょう。そんなにピッタリ、14代、14代と行くものでしょうか? そんなはずはないのです。つまり、この系図は14代が3回続くように、ちょっといじられているのです。
 では、“14”という数字にどんな意味があるのでしょう。この系図を暗号のように解読する学者は、14とは4+6+4だと言います。その数字はヘブライ語のアルファベッドを表していて、アルファベッドの4番目はダレス、6番目はヴァウという文字です。だから、4+6+4は、ダレス、ヴァウ、ダレスと並ぶわけで、これはつまり“ダビデ”という名前のつづりになる、と言うのです。だから、ここにも「ダビデの子」という、この系図のテーマが隠(かく)されていると言われています。
 ですから、この系図は、イエス・キリストは、あなたがたユダヤ人が待ち望んでいたダビデの子孫、ダビデの血筋から出た救い主なのだ、だから信じなさい、と語りかけているのです。

 けれども、この系図には、イエス・キリストがアブラハムの子孫、ダビデの子孫だと証明している以上に見逃せない点があります。それは16節によって示される意味です。
「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(16節)。
 アブラハムから始まる系図は、だれがだれをもうけた、と続きますが、その名前はすべて男性でした。つまり、ユダヤ人社会は男系社会です。男性の血筋で系図をたどっていくのです。
 ところが、最後の最後になって“ヨセフはイエスをもうけた”とは言わない。「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と記すのです。そのことに疑問を持ったユダヤ人が少なからずいたことでしょう。つまり、この最後の一言は暗に、イエスはヨセフの子ではないよ、と言っているのです。それは、ダビデの血筋をたどりながら、しかしダビデの子孫ではないよ、と言っているのです。その隠(かく)れた意味を読み取ってくれ、とマタイは望んでいるのです。
 イエスは単純に、ダビデの子孫だとは言えない。けれども、「メシアと呼ばれるイエス」とマタイは記します。「メシア」とはヘブライ語で“救世主”のこと、ギリシア語では「キリスト」と言います。だから、マタイは、“イエスは確かに救世主メシアなのだ、キリストだ。けれども、あなたがたが英雄ダビデの子孫から生まれると期待していたような救世主ではない。ユダヤ人のために大国と戦い、イスラエル王国を復興するような救世主ではない”と語っているのです。
 では、どのようなメシア、どんな救い主なのでしょうか? 来週の礼拝で読む18節以下の内容からも分かるように、マリアから生まれたと言われるのは、イエス・キリストがヨセフの血筋ではなく、聖霊によって生まれた神の子であると伝える意味があります。    
けれども、私はここに、それとは違うメッセージを感じています。「マリア」とは当時、名も無き女性でした。現代のキリスト者である私たちには、「マリア」は有名ですし、カトリックでは“聖母マリア”とあがめさえします。けれども、当時のユダヤ人にすれば、“マリアってだれ?”と全く知られていない、名も無き一少女でした。しかも、当時は男性優位、女性蔑視(べっし)の時代でした。そのような名も無き女性であるマリアの名が救い主の系図に記される。これは、当時の感覚、価値観から言えば、非常に珍しいことです。考えられないと言ってもいいかも知れません。
そういうマリアの名前が大切な系図に記される。それは、私たちの信じる神さまが、名も無いような、社会の中で蔑(さげす)まれているような“小さな女性”を御心に留(と)めておられる、ということではないでしょうか。大切な一人の人間として、愛しておられるということではないでしょうか。
そう言えば、この系図には他にも4人の女性が記されています。「タマル」(3節)、「ラハブ」(5節)、「ルツ」(5節)、「ウリヤの妻」(6節)です。詳しい話はできませんが、タマルは事情があって神殿娼婦のふりをしてユダの子をもうけた女性、ラハブは遊女でした。ルツはユダヤ人が差別する外国人でしたが、姑(しゅうとめ)に愛と真心を尽(つ)くした女性、ウリヤの妻は、かのダビデ王の不倫(ふりん)相手でした。私は思うのですが、これら4人の女性が系図に記されているのは、神さまが、社会的に弱い立場にある女性も、遊女も、軽蔑(けいべつ)され、差別されている外国人も、罪人も皆、愛して、その大きな救いの翼(つばさ)の中に包んでくださるということを示しているのだと思うのです。選ばれたユダヤ民族だけを、神の掟(おきて)をしっかりと守る、立派な、正しい、強い人だけを愛し、救うのではなく、間違いを起こしやすく、立派に生きられない、弱い者、悲しむ者、悩む者を“神の愛する子”として、神によって造られた大切な、価値ある人間として生かしてくださる。そういうメッセージが込められていると思うのです。
イエス・キリストは、そういう神の愛のメッセージを、宿して生まれる救い主なのです。長じて主イエスが教えられたマタイ福音書9章12〜13節の御言葉に、この神の愛のメッセージが凝縮(ぎょうしゅく)されています。
「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招(まね)くためではなく、罪人を招くためである」。
“私”も招かれています。私たちも一人ひとり、この神の愛の翼に包まれています。そして、私たちが自分の目で、この人は救われる、あの人は救われないと決めつけてはならない、拒絶してはならない。どんな人も、神の愛と救いの下に置かれている。それが、クリスマスの最大のメッセージです



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