2012年12月16日 待降節第3主日礼拝説教
  聖  書  マタイによる福音書1章18〜25節
  説教者  山岡 創

「神は“私”と共にいる」

 今日読んだ聖書の御言葉は、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」(18節)という言葉で始まります。これは、イエス・キリストの誕生までの経過(けいか)、プロセスと言い換えても良いでしょう。
 だれにも、この誕生までの経過、プロセスがあります。そしてそれは、誕生する者自身にとってよりも、生まれる者を迎える方の側に、特にその子の両親にとって、大きな意味があります。とりわけ女性にとって、子を産み母親になるということは、人生の大きな変わり目でありましょう。
 今、私たちの教会には、Kさんが妊娠(にんしん)のために里帰(さとがえ)りして、礼拝に出席しています。私は男性なので、分らないことがきっとたくさんありますが、Kさんは今まさに、一人の命が生まれ出る経過を味わっています。
 自分が妊娠したことを知る。だんだんお腹が大きくなって来る。そのうちお腹の中で子どもが動くのが分かるようになります。きっと命の息吹を感じることでしょう。つわりの苦しさや出産への不安もあるかも知れませんが、命が生まれ出るその経過の中で、喜びは大きくなっていくことでしょう。
 今日の聖書箇所にも、一人の命、イエス・キリストが誕生する経過が記されています。けれども、その経過を味わっているヨセフとマリアには喜びがありません。特にヨセフにとってそうでした。私たちの周りにも、残念なことですが、喜びのない、望まれない出産という出来事が時に起こります。イエス・キリストの誕生もそうであったのです。しかし、そのような苦しみ悩みの中に、「神は我々と共におられる」(23節)という喜びと平安がもたらされる。それがクリスマスです。クリスマスの本当の喜びです。

 さて、マタイによる福音書は「イエス・キリストの誕生の次第」を次のように語り始めます。
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊(せいれい)によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。
 二人は婚約中、まだ夫婦としての共同生活は始めていません。しかし、マリアが身ごもったのです。聖書は、「聖霊によって」、神の霊的な力によって身ごもったと語ります。けれども、それは、だれでも簡単に“あぁ、聖霊によって身ごもったのか”などと認めることのできる出来事ではありません。見えないのです。分からないのです。分かっているのは、マリアが身ごもっているという事実だけです。
 マリアが妊娠したことについて、ヨセフには身に覚えがありませんでした。けれども、マリアは身重になっている。その事実を知ったとき、ヨセフはどんなに大きなショックを受けたか分かりません。そして、マリアを疑い、どんなに深く傷つき、また怒りさえ感じ、考えることが嫌になるほど苦しみ悩んだに違いありません。
 その苦悩の末に、ヨセフが取ろうとした決心が記されています。
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)。
 「夫ヨセフ」とありますが、当時のユダヤ人社会では、まだ一緒に生活をしてなくても、婚約していれば、二人は夫婦と見なされました。そして、ユダヤ人の掟(おきて)、ユダヤ人が奉じる神の掟では、結婚して夫たる者、妻たる者が他の男性もしくは女性と関係して姦通(かんつう)を行ったとき、それは許されざる罪として、その者を石打の刑に処(しょ)して殺し、社会から罪と悪を取り除け、と定められていました。
 ヨセフの決心は「正しい人」としての決心だったと書かれています。しかし、もしヨセフが単に正しい人だったなら、神の掟に従って行動することがユダヤ人にとっては正しいことなのですから、マリアの妊娠を姦通の罪として表ざたにし、掟に従ってマリアを石打の刑にしていたかも知れません。
 けれども、ヨセフはそうはしなかったのですから、四角四面に神の掟を守る、社会常識・価値観を守る、ルールを守るという融通(ゆうづう)の利かない人ではなかったようです。
 では、表ざたにしなかったのは、知らないうちに妻が妊娠していたという“間抜けな男”としての恥を世間にさらさないためでしょうか。
 それもちょっと違うようです。表ざたにせず、ひそかに離縁(りえん)しても、マリアは妊娠しているのです。そして子どもを産むでしょう。そうしたら世間はヨセフのことを何と言うか。あいつは身ごもらせておいて、その責任は取らずに離縁した男だ、と言うでしょう。そういうレッテルの方が、ある意味でヨセフにとっては恥です。
 だから、表ざたにしなかったのは、たぶん恥を隠すためではありません。それは、マリアを石打の処刑から守るためだったと思うのです。
 ヨセフはマリアに裏切られたと思い、深く傷つき、怒りさえ感じたでしょう。その怒りの感情に任せて、マリアを石打の刑にしても不思議ではありません。神の掟にも、自分の感情にも適(かな)うことです。けれども、ヨセフは思いとどまりました。それをしないことが、人として正しいことだと考えたのでしょう。あるいは、自分の怒りによってマリアを処刑することを、神の掟に従って裁くという名分で正当化している、そういう自分を深く反省したのかも知れません。そして、身ごもらせながら責任を取らなかった男というレッテルも甘んじて受ける。それがヨセフの決心でした。

 けれども、そのように決心してもなお、ヨセフは迷い、苦しみ悩みました。夢に見るほどに苦悩しました。それはそうでしょう。そう簡単に割り切れる問題ではない。すっきりする出来事ではない。そして、この問題で迷い、苦悩する自分を誤魔化(ごまか)すことなどできないからです。
 私は、このヨセフの内面、心を考えながら、先日放映された〈心の時代〉という番組の内容を思い起こしました。日曜日の早朝に放映されている番組ですが、その時には、山形県にある基督教独立学園という高校の校長である安積力也氏がインタビューに答えておられました。“読むべきものは聖書。学ぶべきものは天然(自然)。なすべきことは労働”という校訓の下で、1学年25人の生徒たちが全寮制(ぜんりょうせい)の生活を送る学校です。その教育の下で成長していく子どもたちの成長の姿を安積先生が紹介してくださいました。そのうちの一人の生徒の“心の言葉”です。
いい子になりたい。そう願っていた。そう願われていた。
いい子になる。それが正しいことだと思っていた。
いい子のつもりで生きて来た16年。
しかし、私は分かっていた。悪い子の自分はだれにも見せていないと。
私の得意なことは、
言い訳をすること、嘘をつくこと、人を裁くこと、そしてすべてをごまかすこと。
いつの間にか、私は、自分の中に悪い子がいることを忘れた。
私はすべてをごまかし、嘘をつくことが得意だということを忘れた。
気がつきたくなかった。思い出したくなかった。
けれど、そのことを、この学園に来て、私は知ってしまった。
私が嘘だったことを。
いい子でいれば愛される。必要とされる。居場所ができる。
いい子でいたかった。いい子になりたかった。

私の中で声が聞こえる。
もういいよ。助けてよ。認めてよ。もっと大事にしてよ。そう叫んでいる。
聞きたくない。見たくない。逃げたい。
そうやって耳をふさぎ、目を閉じる。
私はいつになったら、この叫んでいる声を聞いてあげることができるのだろう。
私はいつになったら、本当の言葉を話せるようになるのだろう。
いい子になるためではなく、“私”になるために。
もう一度、“私”と出会いたい。
 ヨセフもこの時、おそらく高校生ぐらいの年齢だったと考えられます。そして、もしかしたら“いい子”になりたいと思って、律法に従い、正しく生きて来たかも知れません。マリアの妊娠は、そういうヨセフが突きつけられた、簡単には答えの出ない問題、聞きたくない、見たくない、逃げ出したい、そして嘘をついて誤魔化してしまいたい問題だったに違いありません。けれども、それは「決心」という名の嘘で誤魔化そうとしても誤魔化せない、逃げようとしても逃げられない問題でした。そして、ヨセフは逃げませんでした。誤魔化しませんでした。いや、誤魔化せませんでした。だからこそ、決心したと思ってもなお、迷い、苦しんだのです。向き合ったのです。
 けれども、嘘をつけない、誤魔化せない問題を、誤魔化さずに向かい合い、迷い苦しみながら歩いて行くときに、私たちはきっと神と出会うのです。「神は我々と共におられる」と約束してくださる神と出会うのです。そして、“私”と出会うのだと思うのです。

 誤魔化せない問題に迷い、苦しみながら、その末にヨセフは夢を見ます。そして夢の中で天使のお告げを聞きます。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。‥‥その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)。
 あるいはヨセフは、23節の聖書の御言葉、預言者イザヤの御言葉を少し前に読んだのかも知れません。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。
 マリアの妊娠に苦悩しながら、この御言葉を聞いたとき、ハッと感じるものがあったに違いありません。そして、なお思い巡らしているとき、夢の中で天使のお告げを聞いたのです。聖霊によるマリアの妊娠、そしてそのマリアを受け入れよという神の言葉を。それは言い換えれば、“迷い苦しむあなたと共に、私はいるよ。誤魔化さずに、逃げずに歩くその人生の道を、私も一緒に歩くよ”という神の約束、慰め、エール(応援)だったと思います。その声を、ヨセフは魂で聴いたのです。
 もちろん答えなど出なかったでしょう。けれども、なかなか答えなど出ない人生を、逃げたくなるような人生を、嘘をつかず、誤魔化さず、苦しみながら、迷いながら、誠実に生きる。そこに、神は共にいる。そして、それが人として歩むべき道なのでしょう。

 神と出会うことは、“私”と出会うこと、本当の自分と出会うことだと思います。そして、それは私たち一人ひとりの最も深いところで、最も決定的に起こることでしょう。それがクリスマスの恵みです。喜びです。
そして、イエス・キリストが“聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ”と告白することは、言い換えれば、“私は神と出会いました。そして〈私〉と出会いました。神が共にいてくださる自分と出会いました”という喜びの告白以外の何ものでもないのです。



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