2013年1月6日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書10章25〜37節
  説教者  山岡 創

「行って、あなたも」

 ちょっとカチンと来たのかも知れません。宣教の旅から帰って来た弟子たちに、主イエスが語りかけている。神の国の恵みは、「知恵ある者や賢い者」にではなく、「幼子(おさなご)」のような者に示されたと言う。それを、歴代の王も預言者も見ることができなかったが、神の国の幼子であるあなたがたは今、見て、知っている、と言う。
 「律法の専門家」(25節)は、自分のことを「知恵ある者」「賢い者」と自負していたでしょう。そういう者には見えず、ある意味で“愚か者”と同じである幼子には見える、と言う。“あなたは分かっていないよ、見えていないよ”と自分が言われているような気がして、ちょっとカチンと来たのかも知れません。そこで、“じゃあ、そういうあなたはどれぐらい分かっているんだい?”とばかりに、反発を感じながら、主イエスを試そうとして尋ねたのでしょう。
「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)。
当時ユダヤ人の多くは、死んだ後の命、永遠の命に望みをかけていました。それは神の国と結びつき、神の国で新たに生きる命と理解されていたと思われます。
もしかしたらこの律法の専門家は、帰って来た72人の弟子の一人だったかも知れません。案外、彼は自分の宣教がうまくいかなかったと感じていたかも知れない。周りの弟子仲間は喜んで主イエスに宣教の武勇伝を報告している。何か取り残されたような疎外感、焦りを感じる。そう感じているところへ、主イエスの“知恵ある者には見えない”という発言は、彼の心に深く刺さったのかも知れません。

 そういう彼の心情を、主イエスは見透かしているのではないかと思います。逆に彼に問い返します。彼が律法の専門家であることを知っていて、彼の律法理解の深さを知り、その答えから自分で考えられるように導く。それが弟子を育てる“師匠の心”です。
「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(26節)。
主イエスから問い返されて、彼はドキッとしたことでしょう。
 律法とは、モーセを通してユダヤ人に与えられた神の掟です。それを守れば、祝福された土地を受け継ぐことができる。命を与えられ、その地で長く生きることができると約束されています。
 問い返された律法の専門家は、即座に答えます。
「『心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」(27節)。
 奇しくもその答えは、主イエスが、律法の中で最も重要(マタイ22章36節)と考えている掟と一致していました。だから間髪をいれずに主イエスも答えています。「正しい答えだ」(28節)と。
 けれども、主イエスの言葉はそれで終わりません。
「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」(28節)。
正しい答えだ。さすがは律法の専門家だ。私もそう思う。しかし、君は律法を通して神さまの心を知っているのに、実行が伴っていないんだ。実行しなさい。そうすれば君の願うものが得られる。主イエスは、彼に足りないものが何かをお教えになったのです。
 ところが、その言葉がまたもや律法の専門家の心に刺さります。反発心が起こります。彼は、実行していないと言われたことを素直に受け入れることができませんでした。私は実行している、愛していると自分を正当化しようとしたのです。そんなことはない。私は実行している。神さまを愛している。隣人を愛している。その私に、実行していないと言うなら、一体だれを愛していないって言うんだ。言ってみろ‥‥‥そんな気持で再び主イエスに問うのです。
「では、わたしの隣人とはだれですか」(29節)。
その反抗的な問いかけに応えて、〈善いサマリア人のたとえ〉を主イエスはお語りになります。

 一人のユダヤ人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われ、半殺しにされた。そこへ「祭司」と「レビ人」が通りかかる。祭司とは、神殿で礼拝を司(つかさど)り、人々が献げた動物を、彼らに代わって祭壇で神さまに献げる重要な役割を担っています。またレビ人は祭司に仕えて、その補助をする人々で、レビ人の中から祭司が任命されます。言わば彼らは“律法をよく知っている人々”です。いちばん神さまのそば近くに仕え、神さまの心を知っているはずの人々です。ところが、彼らは「道の向こう側を通って行っ」(31、32節)てしまった。
 半殺しのユダヤ人を助けたのは「サマリア人」でした。細かいことは申しませんが、ユダヤ人とサマリア人とは歴史的な理由があって、非常に仲が悪い。いわゆる犬猿の仲です。ところが、サマリア人は倒れているユダヤ人を助けました。手当をし、宿屋に連れて行って介抱し、宿代を支払い、超過分さえ払うと言う。
 祭司、レビ人とサマリア人の違いは一体何でしょうか?これは想像に過ぎませんが、律法には汚れを避けるように、との掟があります。律法では、祭司が遺体に触れることは汚れでした(レビ記21章)。触れたなら、清めの儀式をし、一定の期間を経なければ、元に戻ることはできず、祭司の務め、神殿での務めを行うことができませんでした。もし祭司やレビ人が、血まみれになって倒れているユダヤ人を死んでいるかも知れないと思ったら、近寄らず、道の向こう側を通って行くことは十分考えられます。そしてその場合、祭司やレビ人を突き動かしているものは“律法”です。律法によって、彼らは、倒れている人を助けないことを信仰的に正当化することさえできた、ということです。
 ところが、サマリア人はそのような律法に縛られていません。もし彼の妨げになるものがあったとすれば、倒れているのが大嫌いなユダヤ人だったということです。けれども、彼は躊躇(ちゅうちょ)することなくユダヤ人を助けました。そのとき彼を突き動かしたものは、33節にあるように「憐れに思い」という心です。これは、相手のことを思うと自分のはらわたがよじれて痛む、という意味の言葉です。それは、すなわち“愛”です。サマリア人を突き動かしているものは“愛”でした。
 たとえ話の最後に、主イエスは再び律法の専門家に問いかけます。
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(36節)。
 この問いかけの決定的な違いがお分かりになるでしょうか?このたとえ話を始めるきっかけになった問いは「では、わたしの隣人とはだれですか」というものでした。つまり、自分にとって隣人とはだれか、という考え方。もっと言えば、自分中心な隣人選別の考え方であり、自分から見て“この人は隣人”“この人は隣人ではない”と選り分ける考え方です。そして、律法が隣人として示している対象は、律法を守る同胞のユダヤ人でしたから、外国人は愛する対象にはなりません。ユダヤ人でも律法を守れない徴税人や遊女等は愛する対象から外して差し支えなかったのです。だから、律法の専門家は、私は律法によって示されている隣人を愛していると自分を正当化することができました。
 ところが、主イエスが「隣人を自分のように愛しなさい」との掟から汲み取っておられることは、更に深く突っ込んで、愛することを徹底したものでした。主イエスは、だれが隣人になったか?と問われました。つまり、自分にとって隣人はだれかという自分中心の考え方はもはやないのです。そうではなくて、自分自身が隣人になる。その人の隣人になるという考え方です。それは、相手中心に考える。相手の立場に立って考え、行動することです。自分で愛する相手を選り分けられない。自分の好き嫌い、自分の価値観、自分の都合、そういったもので選べない。選んではいけない。あいつは嫌いだからと言って愛さないわけにはいかない。こうだから、ああだからと言って、愛すること、愛さないことを正当化してはいけない。相手の必要に応じる。それが隣人を愛することだと主イエスは教えておられるのです。そしてそのように実行せよ、と命じられます。

 この隣人愛の教えの深さを、私に最初に教えてくれたのは、今はK伝道所の牧会をしておられるS先生でした。1995年に阪神淡路大震災が起こったとき、私はS先生と組んで救援ボランティア活動をしました。そのときのボランティア・グループの名前は“サマリタン”でした。〈善いサマリア人〉から名付けられました。しかし、S先生に引っ張られるように行った活動の中で、私はいつも自分の都合ばかりを考えていました。そういう中で、S先生から、自分の都合で相手を選べない、愛するかどうかも選べない、それが隣人を愛するということだと教えられ、恥ずかしくなりました。
 東日本大震災が起こって、もうそろそろ80歳になろうとするS先生は、私以上に現地に足を運んでいます。きっと、この聖書の御(み)言葉から、自分は隣人となっているか、善いサマリア人になっているかと、いつも自分の心に誠実に問いかけながら動いておられるのだと思います。
 先日、年末に一人の人から電話がありました。お金を貸してほしいという頼みでした。仕事を失って、ようやく生活保護を受けられるようになった。しかし、滞納していた公共料金や借金を支払ったら、現金がなくなってしまい、次にお金が支給されるのは1月半ばだと言う。身内はおらず、頼れる人はいない。こんなことを相談していいのかどうか分かりませんが、他に相談できるところがない、必ず返します、との電話でした。若い感じの人でした。私は、教会ではお金を貸すことはできないんだよ、と言って、5分か10分話を聞いた後、電話を切りました。
 けれども、その後、“他に相談できるところがなくて”と言った彼の言葉が、ずっと心に刺さっています。なぜもう少し丁寧に電話で対応しなかったのか。教会に呼んで、もう少し話を聞いても良かったではないか。場合によっては、少しでもお金を貸してあげたらよかったではないか。彼は今、路頭に迷っていないだろうか。後悔しています。
 この手の話は教会ではよくあって、お金が返ってこないことも少なからずあります。そんなことをするのは馬鹿らしい、お人好し過ぎるのかも知れない。本人のためにならないかも知れない。分かっています。
 でも、もう少し何かできたに違いない。事情によっては、返ってこない覚悟で1万円ぐらい貸してあげたって良かった。もしもう1度そういうことがあったら、その時に断ることだってできた。たとえ話の中のサマリア人が、ユダヤ人のために宿代を払っている、超過分も負担すると言っている。もちろん彼は返って来ることなど当てにしていないでしょう。それが今日の私にいちばん響きました。私は祭司でした。私には愛がなかったのです。
 私たちは愚かにならなければ、隣人を愛することはできない。自分を正当化する賢さを捨てなければ隣人を愛することができないのです。

 「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)。主イエスの声が聞こえて来ます。その御言葉の前に、自分の愛を正当化しない。それが、このたとえ話の前に立たされた時の、クリスチャンとしての最低限のマナーだと思います。そして、自分に愛がないことを知るとき、そんな自分のことを「憐れに思い」、愛してくださる神の愛の深さを知ります。それが愛することへの入口、永遠の命への入口だと私は思っています。



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