2013年1月27日 大人と子どもが共に守る礼拝説教
  聖  書   マルコによる福音書12章18〜27節
  説教者  山岡 創

「生きている者の神」

  イエスさまを信じる私たちの信仰では、私たちが死んだら、復活して天国に入れてもらえると信じています。そして、天国で自分よりも先に死んだ家族や親しかった友達とまた会えると信じています。
 ところで、私たちが結婚したとして、夫が妻に、妻が夫に先立たれたとします。例えば、妻が夫に先立たれたとして、その後、その妻だった女性が別の男性と再婚したとします。その後、その妻も2番目の夫も死んだとき、天国では、その妻は二人の夫のどちらの妻になるのでしょうか?夫が二人いたら、けんかになるのではないでしょうか?

 実は、イエスさまにそういう質問をした人々がいました。「サドカイ派」と呼ばれるグループの人々です。彼らは、こういう質問をしました。例えば、マリアさんという女性がいて、その人はユダさんと結婚しました。ところが、マリアさんとユダさんには後継ぎの男の子が生まれず、ユダさんは死んでしまいました。こういう場合、神さまの掟、律法では、どのようにしなさいと命じられているでしょう?(視覚教材を見せながら)それは、ユダさんの弟がマリアさんと結婚しなさい、と命じられています。ユダさんの弟がマリアさんと結婚して、もし男の子が生まれたら、その子はお兄さんのユダさんの子どもになります。ユダ家の後継ぎになります。そして、2番目に生まれた男の子が、ユダさんの弟の長男ということになります(レビラート婚、申命記25章5節〜)。
 そこでユダさんの弟のヤコブさんがマリアさんと結婚しました。ところが、ヤコブさんとマリアさんにも男の子が生まれずに、ヤコブさんが死んでしまいました。そうしたら、どうなるでしょう?今度はヤコブさんの弟がマリアさんと結婚して、兄2人の後継ぎをもうけなければなりません。そこで、ヤコブさんの弟のシモンさんがマリアさんと結婚しました。けれども、男の子が生まれず、シモンさんも死んでしまいました。そこで、シモンさんの弟のアブサロムさんがマリアさんと結婚しました。しかし、男の子が生まれず、アブサロムさんも死んでしまいました。そこで、アブサロムさんの弟のエズラさんがマリアさんと結婚しました。しかし、男の子が生まれず、エズラさんは死んでしまいました。そこで、エズラさんの弟のヨハネさんがマリアさんと結婚しました。しかし、男の子が生まれず、ヨハネさんは死んでしまいました。そこで、ヨハネさんの弟のマナセさんがマリアさんと結婚しましたが、マナセさんにも男の子が生まれずに死んでしまいました。そして、マリアさんも死んでしまいました。
 さて、これらの人々が復活して天国で再会した時、マリアさんは一体だれの妻になるのですか?7人の夫と結婚したのですが‥‥。
 こういう質問を、サドカイ派の人々はイエスさまにしたのです。彼らは、真剣にこの質問をしたのではなく、イエスさまを困らせようとして、イエスさまの答えの揚げ足を取ろうとして、このような質問をしました。さあ、皆さんなら何と言って答えますか?

 イエスさまの答えはこうでした。“アホかーっ!”。一言で言えば、そうです。だって、サドカイ派の人々の質問は屁理屈ですから。理屈は合っていて、筋は通っているように見えて、考えられないようなこと、考えても仕方のないこと、答えの出ないことです。だから、そういう屁理屈に対して、イエスさまは言われました。
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」
 あなたたちは神の掟をちっとも分かっていない。聖書の心を全く分かっていない。神の力に少しも感動していない。だから、そんなくだらない屁理屈をこねるのだ。
 そのようにズバッと言って、イエスさまは、天国では結婚したりしないから、だれが夫かなんて問題にならないんだよ、と言われました。これは、もう一言いえば、天国のことは私たちには分からないのだから、神さまに任せておけばよいのだよ、ということだと私は思います。
 そして、更にイエスさまは言われました。
「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか」。
この言葉はどういう意味かと言えば、27節にあるように「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」ということです。生きている者の神。これは、神さまは、死んだ人間のことなんてどうでもいいと思っておられる、という意味ではありません。神さまは死んだ者にちゃんと復活と天国を用意してくださって、大切にしてくださいます。そうではなくて、これは、死んだ者のこと、死んだ後のことは神さまにお任せしておけばよい。私たちにとって、今、ここで、生きている時に、神さまの恵みをいただくことが大切なのだ、ということです。
 アブラハムは、“あなたを大いなる国民にし、祝福するから旅立て”と神さまから命じられ、どこに行くかも分からずに故郷から旅立ちました。旅の途中で色々と大変なことがありましたが、神さまはアブラハムを導き支えてくださいました。その子イサクは、荒野(あれの)で羊やヤギに水をやる井戸を見つけるたびに敵に奪われました。それでも、ヤコブは争わず、次の井戸を探しました。そして、神さまは最後にすばらしい井戸と放牧の場所をイサクに与えてくださいました。その子ヤコブは、兄弟げんかをして兄貴に家から追い出され、独り荒野をさまよっている時に、神さまと出会いました。自分が孤独ではなく、神さまがいつも一緒にいてくださることを知って、慰められました。3人とも“今、ここで、生きている時に”、神さまの恵みをいただいた人々の代表です。

 ところで、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とありますが、実は4人目がいます。ここにフリップを用意しました。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、(     )の神‥‥‥このカッコにはだれの名前が入るでしょう?‥‥‥‥
 “山岡創の神”、私ならそのように入れます。けれども、皆さんにとってはそうではありません。○○○さんにとっては○○○の神、△△△さんにとっては△△△の神、□□□さんにとっては□□□さんの神です。自分の名前を入れる。だれかの神さまではない。自分の神さまです。神さまが“自分の神さま”だと思えた時、私たちは、勇気や安心や慰めをいただくことができるようになるのです。神さまは、私たち一人ひとりを、それぞれの置かれた場所で、それぞれの喜びや悲しみ、楽しみや苦しみの中で生かしてくださるのです。
 受験勉強に苦労している人がいます。神さまはその人を導き、進学すべき学校をきっと与えてくださるでしょう。病気に苦しむ人がいます。神さまはその人を支え、病気で苦しむことの意味を、きっと教えてくださるでしょう。どちらを選ぶべきか迷っている人がいます。神さまはきっと、その人に答えを与えてくださいます。家族関係、人間関係に傷ついている人がいます。神さまはその人の心の傷を癒(いや)し、愛を備(そな)え、励ましと希望を与えてくださるでしょう。うまく行った成功を喜んでいる人がいます。神さまはその人に、有頂天にならないように、謙遜と感謝を与えてくださるでしょう。
 そのように神さまは一人ひとりを生かしてくださいます。それが「生きている者の神」を信じるということ、“私の神”を信じるということです。



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