2013年2月3日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書11章1〜4節
  説教者  山岡 創

「祈りを教えてください」

 「イエスはある所で祈っておられた」(1節)と、今日の聖書箇所の最初にあります。主イエスは“祈りの人”でした。今日の箇所だけではありません。ルカによる福音書を今日の11章まで見るだけでも、5章16節では人里離れた所で祈り、6章12節では山に登って祈り、9章18節では独りで祈り、9章29節では弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、山に登って祈っておられます。祈る主イエスの姿がこれほど記録されているということは、主イエスは日常的に、毎日のように祈っておられたということでしょう。その祈る姿が弟子たちの記憶に強く焼きつけられて、後に福音書が書かれる際に、主イエスの祈る姿が、このように何度も書き記(しる)されたのだと思われます。
 その意味で、主イエスは私たちにとって“祈りの模範(もはん)”です。祈りとは、日曜日に教会に来たときだけ祈れば事足(ことた)りるのではありません。祈りとは日常的な営みです。毎日の生活の中で、自分の心で、自分の言葉で祈ってこその祈りです。
 私たちは、ともすれば“サンデー・クリスチャン”になります。日曜日だけ信仰的に生活しながら、平日は、まるで信仰とは無縁のような“ただの人”になることがないでしょうか。それではクリスチャンとして、まだ未熟(みじゅく)な子供であり、書道や算盤(そろばん)で言えば初級(?)です。そこから1段1段、スッテプ・アップして成長する。そのためには、毎日の生活の中で祈ることです。毎日祈ることで、私たちの信仰は、頭の中でこねている信仰から、自分の生活と密着(みっちゃく)した信仰、自分の心とマッチした信仰へと成長します。

 毎日のように祈る主イエスの姿を、弟子たちはいつも見ていたことでしょう。そういう姿を見て、自分もあのように祈りたい、との気持が湧(わ)いて来たとしても不思議ではありません。そこで弟子の一人が主イエスに願いました。
「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)
 洗礼者ヨハネという人物がいました。彼は、人々に罪を悔い改める信仰を教え、悔い改めたしるしとして洗礼を受けることを勧(すす)めた人です。それで、彼はヨルダン川で人々に洗礼を授(さず)けるユダヤ教改革運動を起こしました。主イエスも、このヨハネから洗礼を受けたのです(3章21節〜)。その意味で、主イエスにとってヨハネは師であり、主イエスもヨハネから、日常的に祈る祈りの習慣を教えられたのかも知れません。
 主イエスの弟子たちも、ヨハネの弟子たちが祈っているのを見て、自分たちも祈れるようになりたいと思ったのでしょう。それで主イエスに願いました。
 けれども、ちょっと不思議な感じがします。主イエスの弟子たちはユダヤ人です。ユダヤ教徒として、神さまを信じて生きて来たはずです。そういう彼らが「祈りを教えてください」と願うということは、彼らは祈りを知らなかったのでしょうか。旧約聖書にある詩編を読んでみても、その人その人の“祈り”と言って良い詩編がいくつもあります。だから、祈りはユダヤ人にとって当たり前のように思っていました。けれども、案外そうではないのかも知れません。どのように祈ったら良いのか分からない。弟子たちの多くは、そうであったのかも知れません。そして意外と洗礼を受けて、もう何年も何十年も経(た)つクリスチャンの中にも、そういう人がいるかも知れません。
 どのように祈ったら良いか、分らない。これは、私たちがキリスト教信仰の求道を始めた当初、また洗礼を受けて間もない信仰初心者の頃、まさにストレートな問題だったのではないでしょうか。何かに向かって手を合わせる習慣を持っていた人は、まだいいかも知れません。けれども、そうでなかった人は、何かに向かって祈るということが感覚的に分からないのではないでしょうか。まして祈りを向ける相手は、太陽とか山とか大木といった目に見えるものではなく、目には見えない人格です。私たちが「主」と呼び、「父」と呼ぶ人格です。だから、まるで目には見えないけれど、人に話しかけるかのように祈りの言葉を口にする。これは、戸惑(とまど)うのも無理はありません。
 しかも、最初はどう祈ったら良いか、その言葉が分からない。ある方が、初めて人前で祈ったとき、“神さま”と呼びかけた後、言葉が何も出てこず、数分間沈黙していて、最後にアーメンだけ言って終わった、という話を聞いたことがあります。私は、その沈黙に込められたその人の心を思えば、それもまたすばらしい祈りだと思います。けれども、当人はそれどころではない。パニックであり、後になって顔から火が出るほど恥(は)ずかしく感じたかも知れません。
 だから、祈りたくない。特に人前では祈りたくない、と思う。だから、祈り会には出たくないし、何かの集会や集まりで、締(し)めの祈りの時に、自分が当てられはしないかとドキドキしたりするのではないでしょうか。その気持が分からないわけではありません。
 けれども、祈りには“訓練される”という面があります。どんなことでも、繰り返し練習しなければ、できるようにはなりません。祈りも同じことです。だから、毎日の生活の中で自分で祈り、教会の集会に出席して祈る。どうぞ尻込(しりご)みしないで、チャンスがあったら木曜日の聖書と祈りの会にご参加ください。私も高校生の頃、祈り会に出席するようになって、ベテランの信徒の方が祈る祈りを聞きながら、“なるほど、こういう場合は、こういうふうに祈ればよいのか”と祈りの言葉を覚えました。
 聖書と祈りの会においでになっても、もし祈りたくなければ当てません。慣れてきて、そのうち自分も祈ってみようと思うようになったら、祈っていただくようにしています。
 ある方が、聖書と祈りの会に出席するようになって、最初は祈りをなさいませんでした。祈れないので、と言われたので当てませんでした。そのうち、祈りの言葉を紙に書いて来て、お祈りするようになりました。そして、いつしか紙にも書かず、その場で祈れるようになりました。今では、自然に祈っているその人の姿を見て、祈りは成長する、信仰は成長する、と嬉しく思います。
 礼拝や祈り会など、公の場で祈る時は、祈りの言葉を紙に書いてくるのも一つの方法です。その点で、改めて“ああ、早くしないと”と私が思ったのは、〈祈りの冊子〉を作るということです。礼拝での感謝祈祷、集会での始まりと終わりの祈り、食事の前の祈り、朝の祈り、夜の祈り等、簡単な冊子を作って、必要な方に差し上げたいと思います。昨年9月の協議会の際に、そんなことをお話しました。もう4ヶ月経っています。今年度中に作ります。皆さんと約束です。

 「わたしたちにも祈りを教えてください」。弟子のその願いに応(こた)えて、主イエスが祈りを教えてくださいました。
「父よ、御名が崇(あが)められますように。御国が来ますように。‥‥‥」(2節)
4節まで続くこの祈りは、私たちが礼拝や集会で唱える〈主の祈り〉の原型です。
 以前に〈主の祈り〉の一つひとつの祈りを取り上げて、シリーズで説教したことがありました。ラウンジの図書の棚に、その時の説教をファイルにまとめて取ってあります。だからと言うわけではありませんが、今日は一つひとつの祈りを取り上げることは控(ひか)えます。とても1回の説教ではお話できません。
 ただ1点だけ心に留(と)めていただきたいのは、〈主の祈り〉が前半は神のための祈り、後半は人のための祈りになっている点です。まず父なる神さまをほめたたえ、感謝する。神さまの思いが何であるのかを考え、神さまの御心とご計画のために祈る。それが、祈りの基本です。神さまに造られた人としての分(ぶん)をわきまえた、私たちクリスチャンの信仰の姿勢だということです。“自分”が真っ先ではない、人が中心ではない。“神さま”が先なのです。
 私たちの祈りは、もしテープに録音して分析してみたら、80%は自分のお願いかも知れません。ともすれば、ほとんど全部お願いかも知れません。それが悪いとは言いませんし、祈りではないとも申しませんが、どこかに自分中心、自分のご都合主義の匂(にお)いがします。極端(きょくたん)に言えば、自分の願いを叶えさせるために神さまを利用しようとしているような感があります。祈りとは、そういうものではないよ、と主イエスは“祈りの心”を弟子たちに教えておられるのです。私たちに命を与え、私たちを愛し、生かしてくださる神さまの前に、ひざまずく謙遜(けんそん)と感謝の心を忘れない。その上で、糧(かて)を与えてください、罪をおゆるしください、誘惑に遭(あ)わせないでください、○○してください、という願いが来るのです。
 〈主の祈り〉は、その心も言葉も、私たちの祈りのモデルです。主の祈りを毎日、自分で祈るという方がいます。食事の前に主の祈りを祈る、という方もいます。朝、出かける前に、夜、寝る前に祈っても良いと思います。「祈りを教えてください」との願いに応えて主イエスが教えてくださったこの祈りは、どんな時でも祈れる祈りです。

 「わたしたちにも祈りを教えてください」。主の弟子の願い、そして現代の弟子である私たちの願いです。しかし、この言葉をもう1歩踏(ふ)み込んで、あるいは裏返(うらがえ)して考える必要を感じます。と言うのは、この御言葉を黙想(もくそう)しながら、私はふと、「祈りを教えてください」と本気で思っているだろうかと感じたからです。祈りたい。祈れるようになりたい。最初はそう思っているかも知れません。
 けれども、だんだん祈れるようになって来る。祈りが当たり前になって来る。祈りがマンネリ化してくる。祈っても無駄(むだ)だと心のどこかで思い始める。
 そうなると祈りを怠(おこた)るようになる。祈らなくても、別に普通に生活できるではないかと思っている自分がいる。あるいは、疲れや忙しさ、心の落ち込みや迷いから、祈ることができなくなる。苦しみや悲しみを抱えて、神さまを信頼できずに祈れなくなることもある。
 「わたしたちにも祈りを教えてください」と、私たちはどこまで真剣に、本気で願っているでしょうか。他人事ではない。実は、私自身も同じです。多かれ少なかれ、そういう思いが私の中にもあります。日常の祈りから離れてしまうことがあります。だから、祈ることができた時は、“ああ、帰って来た。自分のあるべき本来の場所に戻ってきた”とホッとし、平安になります。
 祈りの生活は、ある意味で、毎日、自分との闘(たたか)いです。だからこそ、「祈りを教えてください」との御言葉を、“祈れるようにしてください”“祈りに招いてください”“祈る思いを与えてください”という願いで、私は祈っていきたいと思っています。
 主よ、祈りを教えてください。



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