2013年2月17日 礼拝説教(受難節第1)
  聖  書  ルカによる福音書11章14〜23節
  説教者  山岡 創

「神の指で」

 1ヶ月ぐらい前だったでしょうか、ジブリのアニメ〈ハウルの動く城〉がテレビで放映されました。ハウルという名の魔法を学んだ青年が、カルシファーという火の悪魔と契約を結び、ものすごい魔法の力を発揮(はっき)します。そんなハウルの生活の中に、魔女に魔法をかけられて、お婆さんになってしまったソフィーという少女が飛び込んできます。そして、魔法で動く城の中でソフィーと一緒に生活する中で、ハウルは変えられていきます。虚(むな)しさに生きていたハウルが、“僕にも大切なものができた。それはソフィー、君だ”と言うほどに、ハウルの内に愛が宿るようになります。悪魔の力に取りつかれていたハウルが、悪魔を必要とせず、愛に生きるようになります。おまけの話をすれば、その愛で、火の悪魔カルシファーまで、優しい悪魔に変えられてしまう。そんなアニメ映画です。

 イエスさまの時代、「口を利(き)けなくする悪霊(あくれい)」というものがいました。悪霊は目には見えません。では、どうして悪霊がいる、と分かるのでしょうか? それは、人が、口が利けなくなるからです。人が、口が利けなくなったり、歩けなくなったり、高熱に冒(おか)されたりします。どうしてそうなったのか、分らない。そういう原因不明の障がいや病気は、悪霊の仕業(しわざ)だ。悪霊がその人に取りついて、そうしたのだ。当時の人々は、そう考えました。
 そういう悪霊を人から追い出す。その結果、障がいはなくなり、病は癒(いや)される。主イエスはそのような働きをなさいました。
 現代人である私たちは、障がいや病気の原因をそのようには考えないでしょう。けれども、カトリック教会では今でも、“エクソシスト”と呼ばれる悪霊祓(はら)いを職務(しょくむ)としている司祭がいるそうです。国際エクソシスト協会という組織もあるようです。悪霊という存在は、現代においても絶滅(ぜつめつ)してはいないのかも知れません。

 主イエスは、苦しんでいる人の内側から悪霊を追い出されました。それによって、「口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆(きょうたん)した」(14節)とあります。人々は、主イエスの業に、素直に驚いたのです。中には、主イエスの内に神の力が働いていることを認め、神をほめたたえる者もいたことでしょう。
 けれども、主イエスの業を神の力と、素直に認めない人々がいました。
「あの男は悪霊の頭(かしら)ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)。
そう言って彼らは、主イエスの働きにケチをつけ、否定しました。悪霊の親分の力で、下っ端(ぱ)の悪霊に命じて追い出している、と言うのです。彼らは、ユダヤ教のファリサイ派の人々や律法学者と呼ばれる人々だったと思われます。
 ルカによる福音書を読んでみると、既に5〜6章で、主イエスと彼らが対立していることがわかります。6章11節では、彼らは「怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」と書かれています。そして、その怒りが昂(こう)じた彼らは、最後には主イエスを十字架に架けて殺してしまうのです。
 彼らは、神の掟(おきて)である律法を熱心に守る人々であり、また律法を研究して、人々に指導する学者でした。そういう彼らの目には、主イエスのやることは、律法を破り、神の御心に反し、神を冒涜(ぼうとく)する行為に映ったのです。
 だから、彼らが、律法違反ではないからと言って、主イエスの癒しの業を、素直に認めるはずがありません。根本的に主イエスを否定しているのです。嫌いなのです。反(そ)りが合わないのです。そういう目で相手を見ている時は、どんな良い行いも、良い発言も認められないものです。中には、それがベルゼブルの力ではないのなら、はっきりと分かる神のしるしを見せてみろ、と要求する者もいたといいます。

 このような非難に対して、主イエスは反論なさいました。
「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重(かさ)なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪(うちわ)もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」(18節)。
 まさにその通りです。内戦の絶えない国は荒れ果てます。力を失い、やがては隣の国に滅(ほろぼ)されてしまうでしょう。悪口や喧嘩(けんか)の絶えない家庭は、家族のつながりが崩壊(ほうかい)します。それと同じように、せっかく悪霊が人を支配しているのに、その支配を悪霊の王様自らやめさせたらどうなるでしょう? 下っ端の悪霊としては“なんで?”と理解できないでしょうし、不平不満も出るでしょう。そして遂(つい)には悪霊の王様を信頼できなくなって、悪霊の国は崩(くず)れ、成り立たなくなってしまうでしょう。だから、悪霊がそんなバカなことをするはずがない。従ってご自分の癒しは悪霊の頭ベルゼブルによるものではないと主イエスは言われるのです。
 もう一つ、主イエスは反論(はんろん)なさっています。
「わたしがベルゼブルの力で悪霊をい出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」(19節)。
 読んでみて、ちょっと分かりにくい言い回しかも知れません。ファリサイ派の中にも悪霊を追い出し、病を癒す者がいました。その人たちは「何の力で」追い出すのか? やはり悪霊の力か? そんなことを言ったら、その仲間は“失礼な!”と怒るだろう。でも、私の癒しを悪霊の頭ベルゼブルの力と言いながら、あなたたちの仲間の癒しは違う力だと言うのでは筋が通らないではないか。それは、ただの自分中心なご都合主義の理屈だ。そう言って、主イエスは彼らの屁理屈(へりくつ)を指摘されます。

 では、主イエスが悪霊を追い出すのは何の力によるのでしょうか。
「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)
 私は「神の指で」、つまり神の力で悪霊を追い出し、癒しを行っているのだよ、と主イエスは言われます。けれども、主イエスが「神の指で」悪霊を追い出しているとどうして分かるのでしょうか? 主イエスしか悪霊を追い出すことができないのなら、神の力だと信じられるかも知れません。けれども、他にもできる者がいます。ファリサイ派の「仲間」にもできるのです。それこそ「天からのしるし」、神の証拠(しょうこ)があれば分かるかも知れませんが、そんなものはないのです。見た目では分からないのです。100人いたら、100人全員が“神の指だ”と信じるものではないのです。
 では、どうしたら「神の指で」と信じられるのか、神の恵みだと信じられるのでしょうか? それは、自分の判断(信仰)による以外にありません。自分の今までの人生を振り返って判断する。自分と人との出会いとつながりを思って判断する。それらが、自分の力だと思ったら、「神の指」の働きは信じられません。不思議なことがあった。思いがけない出来事があった。自分の力とは思えない感動があった。深い愛と優しさに触れた。そういう思いが聖書の御言葉と一つになったとき初めて、「神の指」の働きを信じることができるのです。自分も神さまに導(みちび)かれて来た。救われて来た。神さまに生かされて、愛されて、今の私がある。そう信じることができます。聖書の御言葉と一つになることで、そういう恵みの体験を味わいます。
 自分と聖書の御言葉が一つになる。それは別の言葉で言えば、聖霊を体験するということです。直前の聖書箇所で、「まして天の父は求める者に(良い物を、)聖霊を与えてくださる」(13節)と約束されている、その聖霊です。そして、神の指の働きによる恵みの体験とは、自分の中に巣食(すく)っている悪霊が追い出され、代わりに聖霊が入って来るということ、御言葉の心が、主イエスの心が入って来る、ということです。
 その恵みの体験を、主イエスは21節以下のたとえで表しています。
「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(22節)。
 強い悪霊がその人の内側にいるときには、悪霊がその人を支配している。その人は悪霊に取りつかれた(かのような)生き方をする。しかし、もっと強い聖霊がその人の内に入ってくれば、悪霊は追い出され、聖霊がその人を支配する。神を信じる信仰によって、主イエスの心によって、その人は生きるようになる、と言うのです。

 『こころの友』2月号に、新潟・東中通教会員の月乃光司さんという方の証しが掲載(けいさい)されていました。月乃さんは高校時代、対人恐怖症や自分の体を醜(みにく)いと思い込む(醜形)恐怖症で不登校になりました。何とか卒業し、大学に入ったものの、薬とアルコールに頼る毎日で、やがて中退します。24歳からは完全に引きこもり、ひたすら飲酒し、自殺未遂で入退院を繰り返したといいます。そのような苦しみの末に、月乃さんは、アルコール依存症の自助グループと出会います。苦しみの体験を語り合い、回復を実感したといいます。そんな月乃さんは、今では、何らかの苦しみや弱さ、障がいを持つメンバーが、自作の詩や歌、演奏などを通して、だめな自分をさらけ出し、共感し合う〈こわれ者の祭典〉というイベントの代表をされているということです。
 そんな月乃さんの背中を後押ししているのが教会という存在でした。自助グループのプログラムがキリスト教的であり、そのメンバーに誘われて教会に行くようになりました。そして、1999年、34歳の時に洗礼を受けられます。
  それまで何となく時々日曜日に教会に行っていたが、「だんだんと『神の愛』が僕に入って来た」からだった。それは、自分の力を超えた力、引きこもり、アルコールで挫折(ざせつ)した過去に苦しんできたが、生かされて来た自分がいる。生きていて良かったと思う。「みんな必要なことだった」と気づかされた。
と月乃さんは証ししています。
 今日の聖書の言葉で言えば、それまでの月乃さんは、悪霊に取りつかれたかのような生き方をされていたと言うことができると思います。それが、だんだんと神の愛が入って来た。御言葉と聖霊が入って来た。悪霊が追い出された。信仰によって新しく生きるようになった。“生かされて来た自分がいる。生きていて良かったと思う。みんな必要なことだった”信じて生きていけるように変えられたのです。
 こういう体験は、信仰生活を続けてこられた方は多かれ少なかれ持っていると思います。これからもきっと、繰り返し味わうことができます。まだ味わったことがない方も、イエス・キリストによる救いを求め続ければ、いつかこの救いを味わうことができます。そして気がつけば、その自分の人生が、自分の今が「神の国」なのです。神の国は、自分のもとに来ているのです。



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