2013年2月24日 大人と子どもが共に守る礼拝説教(受難節第2)
  聖  書  マルコによる福音書14章12〜21節
  説教者  山岡 創

「その人のためによかった」

 今から3千数百年昔のエジプト。そこは科学と文化の進んだ超(ちょう)大国でした。不老不死の技術が研究され、ピラミッドやスフィンクスといった巨大な建物が建築されていました。けれども、ピラミッドやスフィンクスを作るために、レンガを焼かされ、大きな石を運ばされ、むちで叩(たた)かれ、苦しんでいる人々がいました。奴隷(どれい)たちです。
 その奴隷たちの中に、イエスさまの先祖たち、ユダヤ人の先祖たちも混(ま)じっていました。ユダヤ人の先祖たちは、苦しくて、つらくて、神さまに“助けてください”と叫び続けました。その叫びを聞いて、神さまはモーセさんを先祖たちのところに送り出してくださいました。そして、ユダヤ人の先祖たちは、モーセさんに導かれ、神さまに守られて、奴隷の国エジプトを脱出(だっしゅつ)しました。それが、“エジプト脱出”の出来事です。
 それ以来、ユダヤ人は千年以上、エジプト脱出を記念し、助けてくださった神さまに感謝するお祭りを続けて来ました。過越(すぎこし)の祭りと言います。この過越の祭りの中で、一緒に食事をするイベントがあります。それが、今日読んだ聖書の中に出て来た「過越の食事」(12節)です。
 イエスさまも、お弟子さんたちと一緒に過越の食事をしようとしていました。そこで、弟子たちが「どこへ行って用意をいたしましょうか」(12節)と尋ねると、イエスさまは都のエルサレムへ行け、と言います。そこで、水がめを運んでいる男に出会ったら、その男について行け。その男の主人が場所を準備してくれているから、そこに過越の食事の用意をしなさい。
 そのとおりになりました。二人の弟子がその広間に準備をして、イエスさまと12人の弟子たちは、そこで過越の食事をしました。


 さて、この食事の席で重大事件が起こりました。何と!弟子たちの中に裏切(うらぎ)り者がいることをイエスさまが宣言(せんげん)なさったのです。
「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)。
 えーっ!と、みんなびっくり仰天(ぎょうてん)したことでしょう。顔から血の気が引いて、真っ白(蒼白(そうはく))な顔になったことでしょう。その後で、12人の弟子たちは、「まさかわたしのことでは」(19節)と代わる代わるイエスさまに聞き始めました。
 私たちは、この後の聖書の話を知っているので、イスカリオテのユダが裏切ることを知っています。けれども、この時、イエスさまは“イスカリオテのユダが裏切る”とは言いませんでした。そうしたら、弟子たち全員が不安になったのです。だれも“ぼくは裏切らない”と断言(だんげん)する自信がないのです。
 代わる代わる「まさかわたしのことでは」と尋(たず)ねる弟子たちに、イエスさまはやはりはっきりとは言いませんでした。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢(はち)に食べ物を浸(ひた)している者がそれだ」(20節)と言われても、みんな、イエスさまと一緒に、鉢の中のスープにパンを浸しているのです。だれなのか分かりません。
 迷っている弟子たちに、イエスさまは言いました。
「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(21節)。
 “えーっ!イエスさま、その言葉、ちょっとひどくない?” そう思いませんでしたか?弟子の一人が裏切ることに腹が立つ、憎らしくなるのは分かるけど、“お前なんか、生れなかった方がよかった”というのは、イエスさまらしくない言葉だよ。そう思いませんでしたか?
 もしイエスさまがそう言ったのだとすれば、それは本当にひどい言葉です。“お前なんか、死んでしまえ!”と言っているのと同じです。
 けれども、よーく読んでみると、ちょっと違うんです。イエスさまは、「その者のためによかった」と言っているのです。この違いが分かりますか?
 ただ“生れなかった方がよかった”と言うのなら、それは“私にとって”“私のために”生れなかった方がよかった、ということですから、自己中心な考えです。自分が裏切られ、迷惑だから、邪魔(じゃま)だから、お前なんかいない方がいい、と言っているのと同じです。
 ところが、「その者のために」ということは、相手のことを考えている、裏切る相手のことを思いやっている、ということです。弟子の一人が裏切るだろう。でも、その人は裏切ったら、きっと後で後悔(こうかい)するよ。自分のことを許せなくなるよ。惨(みじ)めな裏切り者の気持をずっと背負(せお)っていくことになるよ。(実際、ユダは後で後悔して自殺をしてしまいます)そんなのは、その人にとって本当に不幸なことだ。そんな不幸を背負うぐらいなら、生れなかった方がまだましだったかも知れない。だから、そんな不幸は背負わないでほしいんだ。イエスさまは、その人のために、相手のために、そう言っているのです。


 話は変わりますが、とある国がありました。その国は医学のとても進んだ国でした。優れた医者がたくさんいました。ところが、その国の王様は、医者をたった20人にしてしまいました。そして、20人しかいない医者をお城に住まわせました。それは、国民を支配して、王様の命令に従わせるためでした。病気になって、治(なお)してほしかったら、王様の言うことを聞け、というわけです。そう言われたら、医者はお城にしかいないのですから、国民は嫌(いや)でも王様の命令を聞かなければなりません。無理な命令でも従わなければなりません。
 この国に、王様に支配されない医者が一人いました。王様の家来(けらい)にもつかまらず、逃げ回っては患者を治療(ちりょう)していました。
 そんなある日、お城にいる20人の医者が皆、病気になって倒れてしまいました。国民がどんなに頼んでも、病人を診(み)てもらうことができません。病人が苦しみ、次々に倒れていきます。それを見た一人の医者は、自分が20人の医者を治すのだとお城に向かいます。
 ところが、この医者が城に着いたとき、20人の医者は元気でピンピンしていました。それは、この医者をお城におびき出してつかまえるための罠(わな)だったのです。それを知ったとき、この医者は何と言ったと思いますか?
よかった。病人はいねえのか。おれはてっきり国の一大事かと‥‥。何だぁ‥‥おれがダマされただけか‥‥。        (『ONE PIECE』16巻より)
 そう言ってホッとしたと言うのです。普通なら“だましやがったな!”と怒って、大暴(おおあば)れしてもおかしくない場面です。けれども、この医者は“よかった。おれがだまされただけか”と言ったのです。その言葉に、心がズキンと痛んだ者もいたはずです。自分のことではなく、国のこと、人々のこと、相手のことを考えている。
 私は、イエスさまも同じだと思うのです。自分のことではなく、弟子たちのことを思って、“何だぁ、おれが裏切られただけか”と心の中で言っておられる気がします。


 そう考えると、イエスさまがどうして裏切り者の名前を言わなかったのかが分かって来ます。イエスさまは、裏切るのはイスカリオテのユダだと知っておられたでしょう。自分の命がかかっているのです。普通だったら、みんなの前で“ユダ、お前だ!”と言って、弟子たちと一緒に懲(こ)らしめ、制裁(せいさい)を加えてもおかしくない場面です。ところが、イエスさまは決して名前を言いませんでした。どうしてでしょうか?
 それは、ユダに思い直してほしかったからだと思います。裏切る心を入れ替えてほしかったからだと思います。名前を言わなければ、だれにも分からない。もう一度やり直せる。大きな後悔と不幸を背負わず済む。それはみな、ユダを思ってのことです。「その者のために」と思いやってとっている行動です。愛です。
 受難節(じゅなんせつ)レントの期間を過ごしていますが、イエスさまがご自分を裏切る弟子のことさえも愛されたように、私たちのことも「その者のために」と思いやってくださる、愛してくださることを感謝して、喜んで歩みたいと思います。





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