2013年3月10日 礼拝説教(受難週第4)
  聖  書  ルカによる福音書11章29〜36節
  説教者  山岡 創

「目が澄んでいれば」

 今日の御(み)言葉の初め、29節に「群衆の数がますます増えて来た」(29節)と書かれています。主イエスの周りに集まって来る群衆のことです。神の国、神の救いを宣教し、一人でも多く伝えようとしている主イエスにとっては、結構なことだと思われます。
 ところが、ご自分の周りにますます増えて来た人々に向かって、主イエスはこう言われるのです。「今の時代の者たちはよこしまだ」(29節)。
 「よこしま」という言葉を改めて辞書で引いてみましたら、“心が正しくない”と出ていました。「よこしま」という漢字は“邪悪”という熟語にもなりますが、単純に言えば“悪い”という意味です。ますます集まり増えて来た人々に向かって、主イエスは“あなたたちは心が正しくない、悪い”とはっきりと言われたのです。言われた人々は、どう思ったでしょうか?中には腹を立てて帰ってしまった者もいたかも知れません。
 私たちは、主イエスが語る言葉というのは、いつも愛にあふれた、その人を認め、受け入れるような言葉だと思っているかも知れません。こちらを注意し、非難するような言葉は言わないと思っているかも知れません。けれども、そうではありません。愛するとは、相手を認め、受け入れるばかりではありません。時に愛は相手に厳しい。それは、本当の意味で人を生かすためです。だから、甘い言葉ばかりを主イエスは語りません。時には、私たちの奥にある罪をえぐり出すような、鋭い言葉を言われるのです。


 「今の時代の者たちはよこしまだ」。どうして「よこしま」なのでしょう?法的な意味で、あるいは倫理的な意味で言っているのではありません。それは、「しるしを欲しがる」(29節)からです。
 11章14節以下に〈ベルゼブル論争〉と表題の付いた箇所があります。主イエスが人々から悪霊(あくれい)を追い出す働きを認めず、あれは悪霊の王様ベルゼブルの力で下っ端の悪霊を追い出しているだけだと悪口を言った人々がいた、という話です。その話の中で、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」(16節)と記(しる)されています。
 「しるし」とは「天からのしるし」のことです。つまり、人から悪霊を追い出すだけじゃ信じられない。神さまから遣(つか)わされて来た救世主、“神の全権大使”である証拠を見せろ、というわけです。〈水戸黄門〉という有名な時代劇がありますが、クライマックスのシーンになると、必ず助さん角さんが“この紋所が目に入らぬか!”と、黄門さまが江戸幕府の副将軍である証拠の印籠(いんろう)を取り出して見せます。そのように、だれの目にもはっきりと分かる救世主、神の子の証拠を見せろ、と言うのです。
 私たちも主イエスに向かって、神さまに向かって、“信じるに値する神であることのしるしを見せろ”と求めることがあるかも知れません。“神さまだったら、こういうことができるだろう。これぐらいできるだろう”と勝手に思い込んで、“そうしてくれたら信じよう”という態度になることがあります。いや、こういう信仰の態度は、生活がうまく行っている時はあまり出て来ません。どちらかと言えば、苦しみや悩み、問題を抱えている時に、こういう思いが湧いて来ます。信じているから、神さまなんだから、苦しみ悩みを解決して、救ってほしい、という気持になる。それは、私たちが神さまを試していると同時に、私たち自身が、その苦しみ悩みによって誘惑され、信仰を試されているのです。信じているからと言って、苦しみ悩み自体がそう簡単に解決されるものではありません。ならば、信じることをやめるのか?それとも、苦しみ悩みの中に、何を見るか?その“目”を試されているのです。
 主イエスは、「しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」(29〜30節)と言われました。人々にとって都合の良いしるしは与えられない。ヨナのしるしだけが与えられる、と。
 旧約聖書にヨナ書という短い書物があります。ヨナはそこに出て来ます。彼は、邪悪な町、アッシリアの首都ニネベに行って、そこに住む人々の罪を指摘し、悔い改めを呼び掛けるようにと神さまから命じられます。ところが、ヨナはそれが嫌で、ニネベとは反対方向、タルシシュへ逃げ出します。ところが、船に乗っているとき嵐に遭います。こんなひどい目に遭うのは、お前が神さまの言うことを聞かず逆らったからだ、と人々から責められ、ヨナは人柱として海に放り込まれます。しかし、神さまはヨナを大きな魚に飲み込ませ、救われました。三日三晩、魚の腹の中でヨナは祈り、悔い改めます。そして、魚の腹から吐き出されたヨナはニネベに向い、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と説教して歩きます。そして、その言葉を聞いたニネベの人々は、王様から庶民にいたるまで皆、悔い改め、悪の道から離れたと言います。
 さて、この「ヨナのしるし」とは何でしょうか?ヨナが魚の腹の中に三日三晩いて吐き出されたように、主イエスも墓穴の中に三日いて復活する。十字架に架けられた主イエスが三日目に復活することが、主イエスが神の子、神の救世主であることのしるしだと言われることもあります。けれども、ここではそうではありません。ヨナがニネベの町で説教したように、主イエスがイスラエルで、ユダヤ人の間で説教したことこそ「しるし」だということです。つまり、ニネベの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めました。それは、ヨナの言葉に神の「しるし」を見たからです。この言葉は神さまが語らせている、否、神ご自身が語っている、と受け止めたからです。だから、ヨナの言葉そのものが「しるし」となったのです。それと同じように、主イエスが語る言葉そのものが神の「しるし」だということです。神の言葉だということです。
 直前の28節に、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とありますが、それは、主イエスが語る言葉は神さまが語らせている、否、神さま御自身が語っていると受け止めて、従う者は幸いだと言っているのです。
 けれども、今の時代の人たちは、目に見えるしるしばかりを追い求めて、病の癒しや問題の解決や物質的な豊かさばかりを求めて、「ここにヨナにまさるものがある」(32節)、ヨナの言葉にまさる神の言葉が語られていることに気づかない。その鈍さを主イエスは嘆(なげ)いておられるのです。
 「南の国の女王」(31節)の話も、同じ内容を語るためのエピソード、ヨナの例話に並ぶもう一つの例話ですから、細かく話して繰り返すことは避けようと思います。ちなみに、この女王の話は旧約聖書・列王記下10章に出て来ます。シェバという国からイスラエルに、彼女は遥々(はるばる)やって来ます。そして、ソロモン王の言葉を聞いて、その言葉に神の「しるし」を、神の「公正と正義」(10章9節)を認め、感動して帰って行くのです。「ここに、ソロモンにまさるものがある」(31節)。ソロモン王の言葉にまさる神の言葉がある。しかし、今の時代の人々は、主イエスが語る言葉に神の「しるし」、神の言葉を見出す目を持っていないのです。


「ともし火をともして、それを穴倉や、升(ます)の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭(しょく)台の上に置く」(33節)。
 ヨナの話に続けて、主イエスはこう言われました。夜、家の中で電気をつける。ともし火を灯す。それは、部屋を明るくするためです。家に入って来る人が、暗くてつまずいたり、何かにぶつかったりしないようにするためです。せっかくのともし火をわざわざ穴倉や升の下に置く人なんていない。
 ここで主イエスは、ご自分が語る言葉を「ともし火」にたとえています。神の救いに入りたいと願う人みんなが見えるように、御言葉というともし火を置いている。みんなが聞こえるように、御言葉を語っている。それがあなたに見えるか?それがあなたに聞こえるか?ただ単に肉眼で見えるということではない、肉の耳で聞こえるという意味ではない。心の目で、神さま御自身が語りかけておられるという「しるし」を見なさい、心の耳で神の言葉を聞きなさい。主イエスはそのように語りかけているのです。
「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば体も暗い」(34節)。
 今度は主イエスは、ご自分の言葉を聞く人自身の「ともし火」について語り始めます。その人を明るくする、その人を輝かすともし火です。それは「目」だと言います。ここに「目が澄んでいれば」とありますが、この“澄んでいる”という言葉は、新約聖書の原語のギリシア語では、最初の29節に出て来た「よこしま」という言葉の反対の言葉だそうです。と言うことは、目が澄んでいるということは、しるしを欲しがらないこと、自分が考えている神の証拠を求めないこと、目に見える病の癒しや苦悩の解決や物質的な豊かさを(祈り求めること自体はいいでしょう)もって神の証拠とし、神さまを信じる根拠としないことです。主イエスが語る言葉、聖書の言葉の中に、神の言葉を見出すこと、神さま御自身が“私に”、自分に語りかけていると感じ取り、受け止めることです。そういう心の目、信仰の目を持っていることが、目が澄んでいるということです。
 主イエスは、「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」(35節)と言われます。あなたの目が濁っていないか調べなさい、と言われます。もし目が濁っていて、神の言葉を見ることができなかったら、神の言葉を聞くことができなかったら、私たちの内側は暗くなります。私たちの心は、不平不満や疑い、絶望や逃避、投げやりで満たされることになってしまいます。そのために自分の「目」をチェックする。
 「目」とは視点です。“ものの見方”です。物事をどう見るか、出来事をどう受け止めるか。それによって私たちの内側は明るくもなれば暗くもなる。平安にもなれば不安にもなる。感謝にもなれば不平不満にもなるのです。神の言葉によって物事、出来事をポジティブに受け取る視点を持つこと、神の愛の御(み)心の中で捉え直す信仰を与えられること、それが“澄んだ目”を持つということです。
 『信徒の友』11月号に〈学生たちとの対話から見えてくるもの〉という特集が載っていました。聖書と祈りの会でも、中高生・青年会でも読みました。現代の学生たちは、社会の厳しさの中で、自分の長所が分からず不安を抱えている、と言います。その中に、著者の吉岡康子先生が学生に、自分の長所と短所を書かせるゲーム(ワークショップ)をさせると、長所を書くときはペンが止まるが、短所になると一斉にペンが走り出すと言うのです。自分を否定的に見る。そんな学生たちに、吉岡先生は、神に愛されている自分と出会い、自分を愛するということを学んでほしいと強く願っておられました。
 中高生・青年会では、これを読んで、自分たちもやってみようということになり、2月の会で〈良いとこ探し〉をやってみました。私は、自分の良いところをいっぱい見つけて書こうと思い、16コ書きました。そして、これは私よりも多く書いた子はいないだろうと思っていたら、私よりも自分の良いところを多く書いた子が3人もいました。うちの教会の子たちは、神さまに愛されていることを知っているなあ、と思いました。その後で、自分の短所、悪いところを書きました。それで終わりではありません。今度は、自分の短所だと思っているところを、長所に変換してみる。ネガティブなことをポジティブに捉え直してみる、という作業を行いました。お互いにプリントを交換して、人の短所を長所に捉え直してみました。視点を変えれば短所は長所になる。ものの見方を変えれば、ネガティブな出来事はポジティブな意味に変わるのです。その後で、お互いの良いところを書き合いました。とても興味深い、色んなことを考えさせられ、気づかされた作業だったと感じています。
 私たちは何者でしょうか?神さまに愛されている者です。神さまが、ご自分の大切な独り子イエス・キリストを、私たちを救うために十字架の上で犠牲になさった。こんなにはっきりした“愛のしるし”をもって、私たちは愛されているのです。この神の愛の中で自分を見直す。人生を捉え直す。苦しくて、悲しくて、なかなか神の愛が見えないこともあります。そんな時こそ、聖書から離れず、教会から離れず、神の言葉を聞き続ける者でありたいのです。澄んだ目で、神の愛を信じる信仰の目で見直す時、私たちの内側に、感謝と喜びが、慰めと希望が、平安と勇気がよみがえってくるでしょう。




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