2013年3月17日 礼拝説教(受難週第5)
  聖  書  ルカによる福音書11章37〜44節
  説教者  山岡 創

「外側ではなく内側をきれいに」

 福音書の中には、主イエスが食事をしている場面がしばしば出て来ます。イエスさまはよく食べる人でした。「大食漢で大酒飲みだ」(ルカ7章34節)と言われるぐらい、よく食べ、よく飲む人でした。だれとでも食事をなさった。相手を選びませんでした。徴税人(ちょうぜいにん)や罪人(つみびと)と言われる人たちとも食事をなさったし、ファリサイ派とその律法学者たちとも食卓に着かれました。今日の聖書箇所でも、「ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた」(37節)と記(しる)されています。
福音書を読んでいると、イエスさまとファリサイ派は仲が悪い、対立しているという印象を受けるのではないでしょうか。今日の聖書箇所もそうです。イエスさまはファリサイ派の人々を強烈に非難しています。「不幸だ」(42節他)とさえ言っています。何もそこまではっきりと言わなくても、と思います。けれども、だからと言って主イエスとファリサイ派の人々が単純に、仲が悪く、対立しているということではないのです。もし単純に仲が悪く、対立しているという関係だったなら、一緒に食事をすることはなかったでしょう。
 日本の格言に“罪を憎んで、人を憎まず”という言葉があります。イエスさまもファリサイ派に対して、そんな感じではないかと思うのです。この態度、とても大事だなと思います。美しい、格好いいと思います。“神の態度”だと言ってもよいかも知れません。
 私たちは相手と意見や思想、価値観が合わないと、その人自身まで憎らしいと感じてしまうことが少なくありません。そして、その人から遠ざかり、付き合わなくなったりします。その人の内側とその人自身を分けて考えることは、とても難しいことです。けれども、意見や思想、価値観が合わなくても、付き合う関係があります。食事を共にする関係があります。それは“家族”です。意見や価値観が違っても、相手を受け入れ合う関係、それが家族です。その意味では、“神の態度”というのは、すべての人を家族と見なす目であり、態度だと言って良いでしょう。そういう広いまなざしで、神さまと意見や価値観が合わない私たちが認められ、そういう寛容な態度で、罪人である私たちが受け入れられている。受難節レントの歩みの中で、私たちが心に留めるべきはそのことです。そして、そのように神に愛されている私たち一人ひとりが共に交わる教会が“神の家族”と呼ばれることの意味を、改めて考えたいのです。


 さて、事の発端は、「イエスが食事の前にまず身を清められなかった」(38節)ことにありました。私たちも食事の前に手ぐらいは洗います。けれども、ユダヤ人の場合、単純に衛生的な清潔さの問題ではありません。
 ユダヤ人は、神の掟である律法に生きる人々です。特にファリサイ派は、律法を熱心に行い、厳格に守る宗派でした。この律法の中に、「わたし(神)は聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ記11章45節、他)という教えがあります。神さまは清いお方だから、ユダヤ人も清い者になれ、ということです。その精神に基づいて、具体的な清めの決まりが幾つも、細かく定められています。ファリサイ派は、そういう律法の定めをきっちりと守る人々でした。単に衛生上のことではなく、宗教的な清さの問題です。食事の前に手を清めるのか、全身なのかどこなのか分かりませんが、ともかく律法の決まりがあった。それを主イエスがなさらなかったので、招待したファリサイ派の人は“なぜ清めないのだろう?”と不審に思ったのです。
 その不審に気づかれた主イエスが、ファリサイ派批判を始めます。これは、先ほどもお話したように、ファリサイ派に対する憎しみではなく、彼らを思う“苦言”だと私は受け取りたいと考えています。
「実にあなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲(ごうよく)と悪意で満ちている」(39節)。
 ファリサイ派は言わば、“清く、正しく、美しく”をモットーに生きた人々です。そういう彼らが強欲だというのは、いまいちピンっと来ません。42節にも「薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一」を献げるとあります。律法には、収穫の十分の一、牧畜している家畜の十分の一を献げよ、との決まりがあります。適当に誤魔化したいところですが、その精神を隅々まで適用して十分の一、否それ以上を献げていた人々です。だから、彼らが強欲だとは考えにくい。形の上では献げているが、心の中では惜しんでいる、ということでしょうか?
 「強欲」を考える前に「悪意」を考えてみたいと思いますが、同じ11章の14節以下に〈ベルゼブル論争〉という話がありました。主イエスが人に取りついている悪霊を追い出して癒(いや)しを行っていたら、(おそらく)ファリサイ派の人々が、あいつは悪霊の親玉ベルゼブルの力で下っ端の悪霊を追い出しているだけだ、と非難したという話です。この非難は悪意に満ちています。自分たちと信仰が合わない、生き方が合わないイエスを嫌い、根拠もなくこき下ろそうとしているのです。ユダヤ民衆が主イエスの周りに集まるので、その人気に対する妬(ねた)みだとも言うことができます。
 そう考えると、「強欲」もちょっと見えて来ます。それは、ユダヤ民衆の人気人望を自分たちに引きつけておきたいという強欲だと考えることができます。その強欲さは、主イエスの語る言葉を聞かず、なさることを認めず、自分たちこそ正しいと考えて、自分の内側を省みようとしない思いから生まれています。それは、神さまに聞き従うのではなく、自分たちに神さまを従わせようとする姿勢です。つまり、自分が神のものになっていない。そこで思い出したのがローマの信徒への手紙12章1節の御(み)言葉です。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。ファリサイ派の人々は、あらゆる収入の十分の一は献げても、肝心の“自分自身”は神さまに献げていない。自分のものにしている。自分は正しいと思い込んで、自分を神さまの御(み)心に明け渡さずに生きている。それが、主イエスの指摘されるファリサイ派の「強欲」ではないかと思うのです。


 そのように、ファリサイ派の人々は、自分の内側を見つめず、省みようとせず、ただ外側だけを整えて、形や体裁ばかりを気にして生きている。杯や皿の外側をきれいにしたり、十分の一を献げたりと、様々な律法の決まりに従って生きてはいる。しかし、それは中身のない“空き家”のような生き方だと、主イエスは既に11章24節以下で指摘されました。内側が空っぽなのです。そして、内側が空っぽで、本当の意味での喜びと感謝に、謙遜に、愛と正義に満たされていないから、形の上では熱心にやり、外側を整えている自分を、他人にほめてほしくなるのです。見栄や虚栄心が湧くのです。他人にほめられ、その優越感で空っぽな内側を満たしたくなるのです。「会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好む」(43節)ようになるのです。
 けれども、このような生き方はファリサイ派だけのものでしょうか?そうではありません。主イエスに従っているはずの私たちも陥(おちい)るのです。
 忘れもしません。あれは、15年も前に私が埼玉地区の書記になったときのことです。何度か話したことなので短くしますが、私は選ばれて、ちょっと偉くなった気分でした。そんなある日、埼玉地区のある教会で新任の牧師の就任式があり、出席しました。式後の感謝会で、司会者がスピーチのマイクを回しました。私はどんなことをスピーチしようかと考えて待っていましたが、私の前は素通りされました。“この野郎、おれは埼玉地区の書記さまだぞ!若いと思ってなめやがったな!”そんな気持で腹が立ちました。帰る途中、そんな自分に愕然としました。私はただ、人前で面目を施したかっただけだったのです。上席扱いされたい見栄と虚栄心だったのです。だから、その時の記憶を、私は今も、これからも自分の虚栄心のブレーキにしようと思っています。
 内側を省みず、外側ばかりを整えようとする。ともすれば陥る人間の傾向です。私たちクリスチャンもそうです。だから、私は受洗希望者の準備会をする時、また転入会者にガイダンスをする時、プリントでこういう話をします。
極端に言えば、クリスチャンには外面的クリスチャンと内面的クリスチャンとがいます。前者は、礼拝に出席し、献金も奉仕も祈りもするけれども、信仰が内面的に実っていない、形の上だけでの信仰生活をしている人です。もちろん、本人はそういう自分には気づいておらず、ある意味で熱心なのですが、その信仰(生活)は自己本位になりがちです。なぜなら、神の御言葉をしっかりと聞いて神の御心を考え、自分の誤りにハッと気づかされたり、自分の悩みに光明を示されホッとすることがないからです。それでは、心構えや心境が変わりませんし、心の内が変えられなければ日常の態度や行動、もっと言えば生き方そのものが変わることはありません。神の御言葉と自分を照らし合わせ、御言葉と対話をし、自分を吟味し、内側から変えられていくクリスチャンでありたいと思います。そのためには礼拝に出席するに留まらず、祈祷会やその他の集会に参加し、御言葉を学ぶこと、また日々の生活の中で聖書を読み、聖書を通して神様が自分に何を語りかけ、何を求めているのかを黙想し、その神さまの語りかけに応えて祈る時間を僅かでも設けることです。それが私たちの信仰と生活を内側から変えていきます。

「外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にあるものを人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」(40〜41節)。
 この御言葉で、主イエスが私たちに言おうとしていることは、そういうことだと思うのです。“現代のファリサイ派”に、形式的なクリスチャンに、自分中心なクリスチャンにならないように、御言葉によって自分の内側を掘り下げ、自分という「器」の中を善いもので満たしなさい。そうすれば、神さまに喜ばれる、本当の意味で聖なる者になる、と主イエスは言われるのです。
 私たちは、自分の幸せを、自分の外側に求めるべきではありません。自分が何を持っているかとか(財産、地位名誉、健康、結果等)、何ができるかとか(能力等)、自分の周りの環境とか人間関係等に求めるべきではないのです。もちろん、こういった自分の外側に対する願いはあって当然で、それが度を過ぎなければ良いのでしょうし、変えられるものは変えたら良いと思います。けれども、自分の外側に幸せを求めようとする生き方は、それが自分の都合の良いように変わらなければ、不平不満を抱いたり、絶望やあきらめに陥ったりして、決して幸せになれないのです。
 幸せは、自分の内側に求めるべきものだと思います。御言葉というシャベルを使って、自分の内側を深く掘り下げて行く。憎しみや妬み、強欲や悪意、見栄や虚栄心といった心の汚泥(おでい)を掘り進んで行く。そうして深く、深く掘り下げた心の井戸の底で、本当に清い水を汲むことができると星野富弘さんは言いました。本当にそうだと思います。私たちはきっと、そこで、私たちの罪のために十字架にお架かりになった主イエス・キリストと出会います。神の愛と出会います。こんなにも愛されている自分と出会います。その時、私たちの内側が変えられます。神さまに対する感謝と喜び、謙遜が生まれます。「正義の実行と神への愛」(42節)が生まれます。ファリサイ派のような、律法を行って自分は正しいと思い込んでいるような正義ではなく、隣人を愛する、最も小さい者を愛するという正義です。そして、自分が変われば、自分の外側も変わる。まず外側に対する見方、捉え方が変わりますし、実際に周りが変わっていくこともあるのです。
 神さまは私たちの内側をお造りになります。神さまの手で、御言葉によって、私たちの内側を豊かに造り上げていただきましょう。






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