2013年3月24日 礼拝説教(受難週第6)
  聖  書  マタイによる福音書27章45〜56節
  説教者  山岡 創

「わが神、わが神」

 2004年に、映画俳優のメル・ギブソン自身が監督となって作られた〈パッション〉という映画を、DVDで見ました。真夜中、ゲッセマネの園で主イエスが父なる神に祈っているシーンから始まり、そこでの逮捕、裁判、そして十字架に架けられて処刑される出来事を描いた作品です。非常に強烈な印象を受けます。その印象を一言で言うなら、酷(むご)い。私たちは、主イエスの受難を描く福音書の記述を読んでいても、なかなかそこまではリアルに想像できないと思います。捕らえられた主イエスを、ローマの兵士たちが鞭で打ち、茨の冠をかぶらせ、更にその冠の上から殴り続ける。まるで狂気です。嘲(あざ)笑いながら、狂ったように殴り続ける。主イエスは体中、血だらけで腫れ上がっています。どうして人はそこまで酷くなれるのだろう?あまりの酷さに目を背けたくなります。
 そして、十字架に手のひらを釘打たれ、架(か)けられる。十字架に架けられるだけでも地獄の苦しみで、そのために死ぬより先に発狂する人が少なからずいたそうです。

 そのような痛み苦しみに、朝9時から午後3時までさらされた主イエスが、十字架の上で、大声で叫ばれました。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(46節)。
これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(46節)という意味のヘブライ語、後半がアラム語です。あの酷い苦しみを考えれば、無理もない叫びだと思います。
 しかし、そこに居合わせた人々の中には、「この人はエリヤを呼んでいる」(47節)と勘違いした人もいました。「エリ、エリ」という言葉が、エリヤを呼んでいるように聞こえたのでしょう。エリヤは、旧約聖書の列王(れつおう)記上17章以下に登場する預言者で、イスラエルの人々が異教の神バアルに堕(お)ちて行くことに抗して神の言葉を預言した人物です。そして、最期は生きながらに炎の馬車で天に連れ去られたと書き記されています。だから、エリヤは世の終わりの時に天からやって来ると信じられていました。それで、人々の中には、主イエスがエリヤの助けを求めていると思った人がいたのです。
 けれども、それは勘違いでした。主イエスは、エリヤにではなく父なる神に向かって呼びかけておられるのです。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
この主イエスの言葉をどのように受け止めたら良いのでしょうか。
 実は、旧約聖書に、この言葉で始まる詩編があります。詩編22編です。
「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(22編2節)。
そう言ってこの詩編の作者は、自分の苦しみを神に訴えます。しかし、詩編22編は苦しみ悩みの訴えで終わるのではなく、後半は神への信頼と賛美の言葉に変わります。
「主は貧しい人の苦しみを決して侮(あなど)らず、さげすまれません。御(み)顔を隠すことなく、助け求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会で、あなたに賛美をささげ、神を畏(おそ)れる人々の前で満願(まんがん)の献げ物をささげます」(22編25〜26節)。
詩編22編の後半は、このような信頼と賛美の言葉であふれています。
 だから、主イエスは、父なる神に対して「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と疑いと絶望の言葉をぶつけようとしたのではなく、十字架の上で詩編22編を、ご自分の信仰として告白しようとしたのだ、というのです。50節に、「イエスは再び大声で叫んだ」とありますが、その叫びは詩編22編の後半の神への賛美だったかも知れません。そのように46節の叫びは受け止められることがあります。
 けれども、46節は、そのように父なる神への信頼と賛美を告白しようとしたのではない。人となられた主イエスが、この上ない酷い苦しみ痛みを受けている。その様子を、父なる神さまは、まるで傍観(ぼうかん)し、沈黙しているかのように、何もなさらない。答えてくださらない。助けてくださらない。「なぜ」?!と主イエスは本当に絶望し、疑いの叫び声を上げているのだ、と受け止める人もいます。そのようにして、主イエスは、単に天にいます神ではなく、地上に降りて、私たちが味わうのと同じ、否それ以上の痛み苦しみを、そして疑いと絶望を味わってくださったのだ、というのです。
私は、その理解にも、“そうだなあ”とうなずかせられるものがあります。そして、詩編22編の内容と、必ずしも矛盾するわけではないのではないかと思っています。この上ない苦しみ、痛み、悲しみを味わい、絶望し、疑いに心が揺さぶられる。それでも神を賛美する。もはや自分の力ではどうにもならない。あとは神さまに頼る以外に道はない。苦しみ悲しみの現実に追い詰められた人間が、賛美とか信仰告白とか格好良いものではなく、生きるために、希望を失わないために、必死で神さまにすがりついている、そういうことではないかと思うのです。
 そういう意味で私は、46節の「わが神、わが神」という言葉に、ハッとさせられるものを感じます。日本の格言(?)に“苦しい時の神頼み”という言葉があります。調子の良い時は神さまなど見向きもしないのに、苦しくなった時だけ“神さま、神さま”と頼りにする。本来はそういう意味で、あまりポジティブな言葉ではありません。けれども、見方を変えれば、苦しい時に、なお神さまに頼めるのが信仰だと言えるかも知れません。苦しみや悲しみに苛(さいな)まれると、私たちは祈りを失うことがあります。祈れなくなります。そして、ともすれば“もう神も仏もあるものか”と信仰を捨ててしまうことだってあり得るのです。けれども、そのような苦しみ悲しみの中で、“わたしの神さま”と呼べること自体、神さまとの関係を失っていないということです。「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉自体は、疑いと絶望の内容ですが、その思いを神さまにぶつけられるということは、なお神さまとの関係が切れていない、ということに他なりません。どんな時にも神さまとの関係が切れていない。それが信仰ではないでしょうか。疑いをぶつけたっていい。怒りをぶつけたっていい。つながっていることが大事です。「わが神、わが神」という祈りが口から出てこないこともあります。それでも、心の中で“わたしの神さま”と信じる小さな思いを失わないことです。
 十字架の上で、主イエスは、“それが信仰だよ”と身をもって教えてくださっているのではないでしょうか。そして、弱い私たちを、薄い私たちの信仰を受け止めてくださり、御(み)言葉によって、聖霊(せいれい)の働きによって支えてくださるのです。その恵みによって、私たちの内にも「わが神、わが神」と呼べる、小さな信仰が生まれるのです。

 さて、そのように考えてみると、もう一つの呼びかけが気になります。百人隊長や一緒に見張りをしていた人々が言った「本当にこの人は神の子だった」(54節)との告白です。言葉そのものは、46節の主イエスの叫びとは反対に、とても信仰的な、ポジティブな内容です。けれども、これは“信仰”だと本当に言えるのだろうか、と疑問が湧きます。なぜなら、恐れから生まれた信仰告白だからです。
 彼らは、「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ」(54節)て、告白したと記(しる)されています。主イエスが息を引き取られたとき、岩が裂けるほどの地震が起こったと言います。神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたと言います。世の終わりに起こると信じられていた聖なる者の復活が起こったと言います。ともかく、そういった様々な出来事を目の当たりにして、百人隊長たちは非常に恐れたのです。そして、“こんなことは神さまにしかできない”と信頼してではなく、“こんなことは神さまにしかできない”と恐れて、「神の子だった」と告白したと言うのです。
 けれども、恐れから生まれる信仰とは何でしょうか?マタイを批判するつもりはありませんけれど、恐れから生まれる信仰は本当の信仰ではないのではないでしょうか。恐れに抑えつけられているだけで、もし恐れるものがなかったら、彼らは信じることをやめるかも知れません。本当の信仰とは、不信仰な自分、弱い自分、だめな自分、罪深い自分は神さまに罰されると恐れて信じるのではなく、不信仰な自分、弱い自分、だめな自分、罪深い自分を、それでも神さまは赦(ゆる)し、愛してくださるという感謝と喜びから生まれるものだと思うのです。
 話は変わりますが、昨日、子どもチャペルの遠足で、高坂にある子ども動物自然公園に行きました。ペンギンやモルモット、ひよこ等、多くの動物と触れ合い、お弁当を食べて、午後は広場で遊びました。その後、公園出口への帰りがけに、恐竜広場へ寄って行くグループと、カピバラの温泉入浴を見て、その後、野外ステージで動物ショーを見るグループに分かれました。私は、恐竜広場に行く子どもたちに同行しましたので、聞いた話なのですが、ステージでは、豚によるショーが行われた、ということでした。豚くんが、人の股の下をくぐったり、ビンとペットボトルを青いかごと白いかごに分別するショーだったと言います。ところが、豚くん、昨日はコンディションが悪かったのか、股くぐりがなかなかうまくできなかったそうです。調教のお姉さんが両足をクロスさせながら歩く股の下は、一緒に歩きながらうまくくぐったのですが、もう一つ、ショーを見ている子どもたちを10人、ステージに呼んで、お姉さんと一列に並んで、その股の下のトンネルをくぐるというのがうまくできなかった。最初のお姉さんの股をくぐった後で、2番目に並んでいる子どもの股をくぐらずに、脇へ逸(そ)れてしまったり、途中で出てきてしまうことが何度も続いたそうです。でも、その度に調教のお姉さんは怒ったり、罰したりせず、“あれっ、ポンくん、うまくいかなかったねー。じゃあ、もう一度やってみよう”と根気よく繰り返したそうです。そして、10回目ぐらいに何とか全員のトンネルをくぐり抜けた。本当はUターンして、股下トンネルを戻って帰って来るはずだったのですが、それはできなかったそうです。その様子を見ていた妻が、子どもを教育するのも同じだなあ、怒って罰して、恐れでやらせるのではなく、忍耐して、根気よく、信頼して、やがてできるようになるまで導くことが大切だなあ、と感じたそうです。
 私たちの信仰もある意味、同じだと思います。罰と恐れは本物の信仰を育てない。愛と信頼によって信仰は生まれ、育(はぐく)まれるのです。愛と信頼によって、イエスを「神の子」と信じる本当の信仰告白が、「わが神、わが神」と呼びかける本当の信仰が、私たちの内に生まれ、養われるのです。
 主イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(51節)た、とあります。これは、十字架の意味を示すたとえです。神殿の垂れ幕の奥には聖所と呼ばれる部屋があります。そこに1年に1度、大祭司だけが入り、イスラエルのすべての民の罪を贖(あがな)う儀式を行います。その垂れ幕が破れたということは、もはや聖所は必要なくなった。大祭司による贖いの儀式は必要なくなったということです。なぜか?神の子イエス・キリストが、十字架の上でご自分の命を犠牲にして、私たちすべての人間の罪を贖い、父なる神さまに愛される者としてくださったからです。たとえ私たちが、不信仰な人間、弱い人間、だめな人間、罪深い人間だとしても、キリストの十字架のお陰で、私たちは父なる神さまに赦され、受け入れられる者となった。愛され、生かされる者となった。その恵みを魂で受け止めるとき、大きな喜びと感謝が生まれます。そしてそこに、「わが神、わが神」と呼びかける、「本当に、この人は神の子だった」と告白する信仰が生まれるのです。



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