2013年4月7日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書11章45〜54節
  説教者  山岡 創

「重荷を共に負う者、負わない者」

 色々なことをよく知っている人のことを“生き字引”というたとえで表すことがあります。英語で言えば、Walking Dictionary(ウォーキング ディクショナリ)。生きている辞典(じてん)、歩いている辞典、まるでその人が辞典そのものでもあるかのように、何でもよく知っている人のことです。
 そういう言葉で言うと、今日の聖書箇所(かしょ)に出て来る「律法(りっぽう)の専門家」(46節)というのは、さながら“生きている律法”“歩いている律法”とたとえても良いかも知れません。神の掟(おきて)である律法をよく知っている。律法の巻物を開かなくても、律法の専門家に聞けば、すぐに分かる。否(いな)、ただ単に律法の内容をよく知っているというだけではない。この律法の内容は、今の時代、こういうふうに生活に適用(てきよう)すると良い、ということまで研究し、人に教えることができた人々です。
 律法とは、神がユダヤ人に与えた掟です。ユダヤ人の先祖たちが、モーセに導かれてエジプトの国から、奴隷(どれい)の重荷から脱出した際、荒れ野にそびえるシナイ山で、モーセを通して与えられた「戒(いまし)めと掟と法」(申命記6章1節)です。旧約聖書の申命記(しんめいき)において、モーセが改めて律法をユダヤ人の先祖たちに教えたとき、こう前置きしています。「イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖(ふそ)の神、主が約束されたとおり、乳(ちち)と蜜(みつ)の流れる土地で大いに増える」(申命記6章3節)
 律法の言葉をよく聞いて、忠実に行うことによって幸いを得る、と約束されています。「乳と蜜の流れる土地」と呼ばれる豊かな土地を獲得(かくとく)し、そこで増え、繁栄(はんえい)すると言われています。
 ところが、幸いを約束する律法を研究し、教える専門家たちが、「不幸だ」と主イエスから非難(ひなん)されています。いったいどうしてでしょうか?


 46節以下に、不幸の理由が3つ挙(あ)げられています。一つは、「人に背負(せお)いきれない重荷(おもに)を負わせ」(46節)ること、二つ目は「自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てている」(47節)こと、三つ目は「知識の鍵(かぎ)を取り上げ」(52節)ること、です。
 律法の専門家は、律法を研究し、生活にどのように適用するかを人々に教える教師だと言いました。では、教えられた人々は「幸(さいわ)い」を感じていたでしょうか。神さまの教えを自分の生活に生かすことができて幸せ、と思っていたでしょうか。そうではなかったのです。人々はむしろ、その教えに「重荷」を感じていました。
 当時、律法には613もの細かい適用規定(てきようきてい)があったと言います。律法を具体的にどのように守り行うか、専門家たちが考え出した規定です。例えば、安息日を聖別(せいべつ)し、仕事をしてはならない、という律法があります。では、仕事をしないとはいかなることか? 普段の仕事、労働をしないのはもちろんですが、火を使って料理をしてはいけないとか、何歩以上歩いてはいけないとか、そういったことまで定められていました。
 そのように細かいことまで定められると、人々は、律法を行うことができるという喜びよりも、行えないという負担感、息苦しさの方が大きくなります。そして、この律法も行えなかった、あの律法も守れなかった、という“罪の重荷”が人々の心の中で増え広がり、重くなっていくのです。
 その結果、三つ目のことと関係しますが、律法の専門家たちは、人々から「知識の鍵」を取り上げることになるのだと思います。鍵というのは、どこかの扉を開けるのに必要な道具(アイテム)です。その扉を鍵で開けて中に入るのです。けれども、52節には、どこに入るとは書かれていません。私は“どこに入るんだろう?”と不思議に思っていたのですが、“どうやら、これは天国のことだ”と思い到りました。天国、神の国と言い換えても良い。けれども、それは死んだ後に入る世界とか、場所や空間のことではありません。神の掟を守り行うことで神と共に生きる喜びと平安そのものだと言って良いでしょう。
 ところが、律法の専門家は、喜びと平安な人生への扉を開く鍵を取り上げてしまう。律法の中には、神と共に生きる喜びと平安という幸いを、どうしたら得ることができるかという「知識」が詰まっているのに、その肝心の知識を教えない。自分自身も見損(みそこ)なって、見失っているのです。そして、いつの間にか“あなたはこの律法ができていませんよ、あの律法も守れていませんよ”と指摘(してき)し、“だからあなたは天国に入れませんよ、神の国に入れませんよ”と裁(さば)く存在になってしまっていたのです。律法の専門家という存在が、幸いに入れるための「知識の鍵」ではなく、入れないための“裁きの鍵”になってしまった。彼ら自身が、人々の罪を映し出す“鏡”のように、人々の罪を裁く“基準”のようになってしまったのです。
 そして、自分が罪を映し出す鏡、罪を裁く基準であれば、名もなき一般の人々だけではなく、当然「預言者」と呼ばれる人々を裁いて来たのです。預言者とは、神の言葉を神さまから預かり、語り伝える人のことです。ところが、その預言者が殺されてしまう。預言者の語り伝える言葉が否定(ひてい)されてしまうのです。それは、自分自身が“基準(きじゅん)”になっているからです。自分を基準にして、あの預言者の語っていることは間違っている、律法に反している、神を冒涜(ぼうとく)していると勝手に判断し、裁くからです。そのようにしてユダヤ人は歴史上、多くの預言者を殺して来た。そして「今の時代」(50節)、律法の専門家に代表されるユダヤ人たちが、主イエスを裁いて殺すのです。今の時代の預言者を、否、預言者以上の神の子を、“生きている神”“歩いている神”を否定し、十字架に架けて殺すのです。
 私は、律法の専門家の不幸は、自分が律法になってしまったところにあると思います。自分も律法に、神の言葉に聴(き)くべき人間の一人のはずなのに、自分がルールになってしまった、基準になってしまった、正義になってしまった。そして、相手の言葉と心を聞かずに、自分を基準にして語り、裁くことになってしまったところにあると思います。それが律法の専門家の不幸です。罪です。


 さて‥‥“じゃあ、いつやるのか”“今でしょう”。今や大変有名になった東進ハイスクールの講師・林修さんの言葉です。皆さんもどこかで一度ぐらいは聞いたことがあるかと思います。妻の務める幼稚園では、そこに通う幼稚園児までが、先生が言った“いつやるかな?後でやろうかな?”という言葉に反応して、“今でしょう”と答えるぐらい、よく知られた“お約束の決めゼリフ”です。
 私は、「今の時代の者たちはその責任を問われる」(51節)と言われた主イエスの言葉に、思わず、この“今でしょう”を連想してしまいました。自分を基準にして、人を裁いて来た責任が、今問われる。今、律法の専門家たちが問われる、と言うのです。
 しかし、主イエスは今、この責任をだれに問うておられるのでしょうか? ユダヤ人の律法の専門家たちのことだけを考えればよいのではない。このルカによる福音書が書かれた当時の、教会のクリスチャンたちが問われたのだと思うのです。そして今、現代の教会に属する私たち自身が問われているのだと思うのです。あなた(たち)は律法の専門家のようになってはいないか? 自分を基準にして、人を裁き、重荷を負わせていないか?と。私たちは、自分では気づかぬうちに、そうなっていることが少なからずあるのではないでしょうか。
 私は自分自身の失敗をふと思い出します。人の話を聞くことは、“最後にして最大の援助”などと言われたりします。けれども、人の話を聞きながら、自分を基準にし、自分を語っていることが往々にしてあります。
 もうずいぶん前の話になりますが、私は、ある人の悩みを聞いていました。その人の話を聞きながら、私は時々、“でも、こうした方がよかったんじゃない?”とか“あなたもこういう点が悪かったんじゃない?”と言葉を挟(はさ)みました。私は、相手のことを考え、親切で言っているつもりでした。ところが、しばらくしてその人から帰って来た言葉は、“正しいことばかり言われて、私は少しも気持が休まらず、すっきりしない。かえってイライラして悲しくなる”といった内容でした。私は、頭をガーンと殴られたようなショックを覚えました。私は、その相手に安らぎを与えるどころか、かえって重荷を増し加えていたのです。その重荷に指を触れ、手を貸して、相手の重荷を少しでも軽くする手助(てだす)けが、何らできていなかったのです。それが私の現実でした。しかし、そう言ってもらったことで、私は、正しいことを言っても人は救えない。その人を裁き、重荷を加えるだけだ、ということを学びました。それでも、今もなお同じことをやって、後で自分の不幸、自分の罪を思うことが少なからずあります。


 主イエスは、人の言葉を、人の心の声を聴くことの名人でした。ご自分を基準にして正義で裁くのではなく、律法の重荷に苦しみ、あえいでいる人の痛み、悲しみを聞きとって、癒(いや)すこと、救うことのできる方でした。
 人の魂を癒し、救う鍵、人を喜びと平安へと入れる「知識の鍵」、律法の中に込められているその鍵を、主イエスは“正義”ではなく“愛”だと受け取っておられたようです。
「『心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。
(マタイ22章37〜40節)
 その主イエスが、律法の真髄(しんずい)である神の愛を受け止めて、私たち一人ひとりを愛してくださいました。正しいと分かっていてもできない、やめられない。その罪の重荷にあえぐ私たちの魂の声を聞いてくださいました。
 その主イエスが私たちを招かれます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和(にゅうわ)で謙遜(けんそん)な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11章28〜29節)。
 主イエスが、“わたし”のことを分かっていてくださいます。柔和と謙遜によって、私たち一人ひとりの重荷を、共に負ってくださいます。自分を正義の基準として人を裁かない柔和と謙遜、それはまさに“愛”です。
 そして、主イエスに愛されている私たちは遣(つか)わされます。
「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊(れい)”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。‥‥‥互いに重荷を担(にな)いなさい」(ガラテヤ6章1〜2節)。
 主イエスの愛、柔和に応えて、私たちも柔和な心で、互いに重荷を担い合う。そこに幸いが生まれます。安らぎが生まれます。教会が生まれます。




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