2013年4月21日 大人と子どもが共に守る礼拝
  聖  書  コリント(一)15章1〜11節  
  説教者  山岡 創

「今、神の恵みによって」

 坂戸いずみ教会の子どもチャペル(日曜学校)では、1年に1度、ミニ運動会を開催します。すぐそこの高麗(こま)川の橋を渡った土手の向こう側の桜ロータリー公園で、工夫を凝(こ)らした、色々な競技をして、最後は子ども対大人対抗の〈泥棒と警察〉ゲームで終わります。
 この運動会でいちばん人気のある競技は何でしょう? 泥棒と警察ゲームを除(のぞ)けば、たぶんリレーではないかと思います。3チームぐらいに分かれて、サランラップの芯(しん)をバトンにして、走るのがあまり好きではない子もいると思いますが、校庭でやるリレーとは違って、公園の草っ原で、ちょっと変わったコースでやるリレーのせいか、みんな真剣に、楽しそうに走り、また応援しているように見えます。(中にはカニのように、横向きで走って笑いを取っている人もいますが)1勝負が終わると、もう1回!と何度もやりたがります。
 学校での運動会で、保護者(ほごしゃ)として見る立場で参加していても、いちばん見ていておもしろいのは、やはりリレーです。応援(おうえん)にも熱が入ります。
 ところで、リレーで、最後にゼッケンを背負(せお)って走る人を、アンカーと言います。大概(たいがい)そのクラス、そのチームでいちばん速い子がアンカーになりますね。アンカーって、格好いいですね。リレーの“主役”“花形”ですね。
 けれども、リレーはリレーでも、決してアンカーになってはならないリレーがあります。どんなリレーか分かりますか? それは“福音(ふくいん)リレー”です。
 今日の聖書の中に出て来ましたが、「福音」って、良い知らせという意味です。何が良い知らせなのか? それは、神さまが私たちを救ってくださった、ということです。神の独(ひと)り子イエスさまの命によって、私たちの罪を赦(ゆる)し、神さまの愛と復活(ふっかつ)の命をいただけるようにしてくださったことです。その良い知らせ、福音が、リレーのバトンのように、人から人へと手渡されてきました。2千年間、人から人へ、教会から教会へと伝えられてきました。だから今、私たちの坂戸いずみ教会も、ここに、こうしてあります。だから、この福音リレーは、皆さんがアンカーになってはならない。皆さんが最後のランナーになったら、福音は途絶(とだ)えます。教会が終わってしまいます。イエスさまが、いつかやがて“ここがゴールだよ”と言ってくださる時まで、私たちは一人ひとり、次のランナーへ、次のランナーへ、福音というバトンをつなげていく使命があります。


 今日読んだコリントの信徒への手紙を書いたパウロさんもそうでした。最初にパウロさんは、「兄弟たち、わたしがあなたがたに告(つ)げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」(1節)と語り始めます。そして、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(3節)と言っています。パウロさんも、自分が受けた福音のバトンを、コリント教会の次の人々に伝えているのです。
 では、この福音のバトンの最も大切なこととはどんなことでしょう? それは、イエスさまが、聖書に書かれているとおり、私たちの罪のために十字架の上で死んでくださったこと。イエスさまが、私たちの罪を赦し、愛と永遠の命をくださるために復活してくださったこと。そして、復活したイエスさまが、ペトロさんをはじめ12人のお弟子さんたちの前に現れたことだと、パウロさんは手紙に書いています。
 イエスさまが私たちの罪のために十字架に架かって死んだこと、復活したこと、現れたこと。でも、その福音のバトンを伝えられても、それを信じなかったら、次の人に手渡すことはできません。回覧板のように、ただ隣の人に回せばよい、というものではないからです。
 では、どうしたら信じて伝えることができるのでしょうか? それは、復活したイエスさまが現れてくださることを、自分も体験することです。
 パウロさんもそうでした。パウロさんは、イエスさまが生きているとき、お会いしたことがありませんでした。それどころか、ペトロさんらお弟子さんたちが“イエスさまは私たちの罪のために死に、復活なさったのです”と福音を伝え始めたら、“そんなふざけた話があるか!”と反対し、“神さまをバカにしている!”と怒って、教会を迫害し始めたのです。そして、たくさんのクリスチャンを捕(つか)まえて、処刑(しょけい)し、殺しました。
 そんなパウロさんが、ダマスコという町に、やはり教会を迫害しに行く途中で、イエスさまはパウロさんに現れました。天から強い光が射して、パウロさんは目が見えなくなります。そして、「パウロ、パウロ、なぜわたしを迫害(はくがい)するのか」(使徒9章4節)というイエスさまの声を聞きます。パウロさんは、目が見えないまま3日間、ダマスコで祈りました。きっと、今まで自分が教会を迫害し、クリスチャンを処刑してきた大きな罪を、たくさんの人を傷つけ、悲しませてきた罪を後悔(こうかい)していたのだと思います。普通なら、こんなに大きな罪は決して赦されません。けれども、イエスさまはパウロさんに現れてくださいました。そして、赦されるはずのない大きな罪を赦し、信じる者としてくださいました。パウロさんは、イエスさまから、大きな大きな恵みをいただいたのです。だから、パウロさんはこう言います。
「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(10節)。
 もしもイエスさまが自分に現れてくださらなかったら、罪を赦してくださらなかったら、今の自分はない。とっくに神さまから見捨(みす)てられ、絶望と滅(ほろ)びの人生を歩いていただろう。ところが、イエスさまは私に現れてくださった。赦してくださった。信じる者としてくださった。そのお陰(かげ)で、今の自分がある。私は今、自分の力で生きているのではない。神さまの恵みによって生かされているのだ。
 パウロさんは、イエスさまが自分に現れて、赦しと命をくださる恵みを体験したのです。だからこそ、信じて福音のバトンを次の人につなぐのです。次の人が「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と信じるようになるように、イエスさまの赦しと命を、喜んで伝えるのです。


 私たちも、パウロさんから、聖書から、そして教会の先輩(せんぱい)たちから、イエスさまの赦しと命の福音を聞いています。そのように聞いたことが、自分にも起こるように、“私にもイエスさまは現れました”と伝えることができるようになってほしいです。
 実は、私にもイエスさまは現れました。私が20歳の時です。私が大学受験に失敗し、何を目指して生きたら良いか分からなくなって、自分はダメ人間だと絶望している時でした。そんな私にイエスさまは現れて、“あなたは生きてよい。生きる値打(ねう)ちがある”と慰(なぐさ)め、励(はげ)ましてくださいました。絶望から希望へ、暗闇(くらやみ)から光へ、180度、人生が変わりました。世界が変わりました。そして、イエスさまは私を、福音を伝える牧師に選んでくださいました。だから、私もパウロさんと同じように喜んで言います。
「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と。
そして、信じて福音のバトンを、次の人に伝えます。
 教会とは言わば、リレーの“バトン・ゾーン”のようなところです。ここで、福音のバトンが、恵みと救いのバトンが、次の人へ、次の人へと手渡されていく。私たちも、自分の信仰生活のコースを信じてしっかりと走り、次のだれかにイエスさまのバトンを伝えましょう。







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