2013年4月28日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書12章1〜12節  
  説教者  山岡 創

「イエスの仲間だと言い表す」

 『信徒の友』今月号から〈モーセと行く荒れ野の旅〉というシリーズが始まりました。旧約聖書・出エジプト記を通(とう)して、イスラエルの人々をエジプトの奴隷(どれい)から解放したモーセの姿が、イスラエルの人々を導いて荒れ野を旅し、約束の土地を目指すモーセの信仰が、これから少しずつ説(と)き明(あ)かされていくのだと思います。
 4月号の第1回では、モーセが生まれた当時のエジプトの国内事情が語られます。イスラエルの子孫(しそん)たちは、エジプトにおいていわゆる“移民(いみん)・難民(なんみん)”でした。エジプトの王は、増え広がるイスラエルの人々を見て恐れ、このままでは国を乗っ取られるのではないかと不安を感じます。そこで、イスラエルの人々を弱くするために過酷(かこく)な重労働を課すと共に、生まれた男の子を殺すように王は助産婦(じょさんぷ)に命じます。しかし、その方法がうまく行かないと知るや、次には、生まれた男の子をナイル川に放(ほう)り込めとの命令が出ます。そのような状況の下で生まれたのがモーセでした。
 モーセの母親は、葦(あし)で編んだかごにモーセを入れて川に流します。そのかごは、川に水浴(あび)に来ていたエジプトの王女に拾われることになります。かくてモーセは、奇(く)しくもエジプトの王女の子として育てられることになる‥‥そこまでが4月号の話です。
 さて、先ほど、エジプト王がイスラエルの助産婦に、生まれた男の子を殺すようにと命じた方法はうまく行かなかった、と申しました。どうしてうまく行かなかったのでしょう? 聖書には、こう書かれています。「助産婦はいずれも神を畏(おそ)れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた」(出エジプト記1章17節)。もし助産婦がエジプト王を恐れていたら、命じられたとおり男の子を殺していたでしょう。命令に違反(いはん)したら、どんな罰を受けるか分からない、最悪、自分が命を奪(うば)われることになるかも知れないからです。けれども、助産婦たちは神を畏れていたとあります。自分の判断と行動が、神さまに恥じないものであるか、神さまに申し開きができるのか、それを真っ先に考えたのです。その結果、王を怖れて生まれた男の子を殺すのではなく、神を畏れて男の子を生かす道を助産婦たちは選びました。
 この助産婦たちの判断と行動は、今日の聖書箇所で、主イエスが教えておられることにピタッと合っていると思いました。
「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを怖れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄(じごく)に投げ込む権威(けんい)を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」(4〜5節)。
 人を恐れず、この世を恐れず、神を畏れて生きるところに“活路(かつろ)”がある。何が大切か、それを他人や社会に左右されずに見据(す)えて生きるところに、人間らしい(すこ)やかな生き方がある。そのように主イエスは語りかけておられるように思うのです。

 主イエスの時代、そして主イエスの後の時代、教会は迫害(はくがい)されました。ユダヤ人(イスラエル人)には、律法を重んじるユダヤ教信仰とは違う、神を冒涜(ぼうとく)していると非難(ひなん)され、ユダヤ教の会堂に連れて行かれ、尋問(じんもん)されました。ローマ帝国の権力者からは、ローマ皇帝よりも神を敬(うやま)っていると見なされ、捕(と)らえられ、処刑されることも少なからずありました。そういう状況下で、人を恐れるな、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」と言われても、なかなか厳しいものがあります。人を恐れ、死を恐れて、自分のことを主イエスの仲間だと言い表せない、自分はイエスを神の子、救い主と信じていると証言できない者が少なからずいたのです。
 そこで真っ先に思い出すのがペトロです。主イエスの弟子であったペトロは、主イエスがユダヤ人に捕らえられ、尋問されているとき、主イエスを知らない、仲間ではないと否定しました。主イエスが捕(と)らえられた後、心配になって、こっそり様子を伺(うかが)いに、大祭司(だいさいし)の家までついて行ったのですが、その家の中庭で、女中や人々から、お前も仲間だと責(せ)められ、知らない、関係ないと3度、否定するのです。そのときペトロは、神ではなく、人を恐れ、死を恐れていたでしょう。
 日本でも、太平洋戦争中に、同じような迫害がありました。現人神(あらひとがみ)と言われた天皇(てんのう)よりも、キリストの権威を上としたために、ホーリネスと呼ばれる教会の牧師や信徒が迫害されました。牢獄の中で死んだ人々もいました。
 現代では、信教の自由が認められ、自分はイエス・キリストを信じますと容易(ようい)に告白できるようになりました。迫害される時代ではなくなりました。けれども、私たちは、人を恐れ、人を憚(はばか)り、周りの空気を、社会を恐れ、自分への影響(えいきょう)を考え、損得を計算し、イエス・キリストを信じますと言えない、神を畏れて生きられないことがあるのではないでしょうか。

 俗(ぞく)な話で恐縮(きょうしゅく)ですが、今、毎週土曜日の夜に〈35歳の高校生〉というドラマが放映されています。女優の米倉亮子が演じる35歳の女性が、なぜかは分かりませんが、もう1度、ある高校に生徒となって通うことになった。その教室で繰り広げられる人間模様(もよう)、一言で言えば“いじめ”を、35歳の高校生が解決していく。簡単に言えば、そういうドラマです。けれども、水戸黄門のように単純な勧善懲悪(かんぜんちょうあく)、痛快(つうかい)、爽快(そうかい)という感じの展開(てんかい)ではありません。人間関係がもっと複雑で、ドロドロしている。問題がかなり強調(きょうちょう)されて脚本(きゃくほん)されているとは思いますが、今時の高校生はこんなに大変なんだろうか、と思ってしまいます。学校に、教室に、“スクール・カースト”と呼ばれる上下関係がある。その力関係の中で、生徒たちは、自分よりも強い生徒に従って、その場の空気を壊(こわ)さないように、乱(みだ)さないように、媚(こ)び、へつらって生きている。みんなから無視されて、一緒にお弁当を食べる友達がいないのに、そういう人間だと思われたくない、自分でも認めたくないために、トイレにこもって弁当を食べる生徒がいます。“便所飯(べんじょめし)”と言うのだそうです。使いっ走(ぱし)りにされ、カラオケの料金を払わされ、好いようにいじめられているのに、“自分はいじめられているんじゃない。いじられてあげているんだ”と必死に笑顔をつくる生徒がいます。教室の空気を支配している生徒から、仲良しの関係を引き裂(さ)かれ、仲良しだった相手をいじめるように強要(きょうよう)される生徒がいます。みんな、人を恐れて生きている、そういうふうにしか生きられない空気、人間関係があります。そういう空気を切り裂き、そんな人間関係を打ち破る言葉を、行動を、35歳の高校生に期待(きたい)しながら番組を見ている自分がいます。
 もちろん、現実はドラマのように簡単ではないと思います。“人の気も知らないで”と叫ばずにはいられない苦しさ、身動きのできないような縛(しば)りがあるでしょう。学校だけではなく、職場も、サークルも、近所の人間関係も、いや家族・家庭でさえも、そうかも知れない。敢(あ)えて言えば、ともすれば教会でさえも、そういうことが起こるかも知れない。それでも、人を恐れず、空気を恐れず、自分の不利益を恐れずに、大切な何かを見つめて、伸びやかに生きていく。キリストの御言葉には、私たちの信仰には、それを可能にする力があると、私は信じています。

 しかし、それでも私たちは、キリストは仲間という生き方を、人を恐れず、神を畏れる生き方ができないことが少なからずあります。そんな時、私たちはどうすればいいのか? どうなるのか?
 「しかし、人々のまえでわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」(9節)とあります。厳しい言葉です。自分の信仰と態度(たいど)に問題があるとは言え、キリストを信じることに希望を失ってしまいそうになる言葉ではないでしょうか。
 けれども、私はこの言葉にとても違和感(いわかん)を感じています。仲間だと言ったら、キリストも仲間だと認める。言わなければキリストも仲間だとは認めない。まるっきりギブ・アンド・テイクです。果たしてこれは、主イエス・キリストの本心なのか?キリスト本人の言葉なのか?と思わずにはいられません。と言うのは、主イエスを知らないと否定したペトロが、その後、復活したイエスによって否定されたのではなく、赦(ゆる)されて、もう1度弟子として立てられているからです。
 もちろん、安易な、短絡的(たんらくてき)な赦しだとは思いません。けれども、キリストは、ご自分のことを仲間ではないと否定するような私たちを、赦さずに否定するようなお方ではない。キリストの父なる神は、キリストを否定した者を地獄に投げ込むようなお方ではない。私はそう信じています。「人の子(イエス)の悪口を言う者は皆赦される」(10節)と書かれているとおりです。
 そう信じる根拠(こんきょ)が、6節以下にあります。礼拝で神さまに献(ささ)げるための雀(すずめ)が5羽で2アサリオンで売られている。1アサリオンとは、1日の労働賃金と言われる1デナリオンの16分の1です。つまり、雀は羊やヤギに比べればとても安い、価値のないものと見なされているのです。ところが、価値がない雀、「その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」(6節)と言われています。「それどころか、あなたがたの髪(かみ)の毛まで1本残らず数えられている」(7節)と言われます。私たちの髪の毛って、いったい何本ぐらいあるのでしょうか? 1羽の雀ですら忘れない神さまが、まして、雀よりもはるかに価値のある私たち一人ひとりを忘れるはずがない。髪の毛1本まで、と言うほどに、一人ひとりをしっかりと見て、“わたし”のすべてを知っていてくださる、ということです。それは、人を恐れて主イエスを知らないと言ってしまう私たち、神を恐れずに生きてしまう私たちの弱さも、罪も、苦しみ悩みも、神さまはすべて分かっていてくださる、ということではないでしょうか。その神さまが、私たちを仲間でないと否定し、地獄(じごく)に投げ込むはずがないと私は信じているのです。

 そのように考えると、今日の聖書箇所で最大の疑問な言葉、「しかし、聖霊(せいれい)を冒涜(ぼうとく)する者は赦されない」(10節)という言葉の意味が見えて来ます。イエスの悪口を言っても赦されるのに、聖霊を冒涜すると赦されないとは、どういうことだろうか。とても分かりにくい、難しい言葉です。
 視野を広げて、今日の聖書箇所の前後を少し読んでみると、11章13節に「聖霊」が出て来ます。魚を求める子どもに蛇(へび)を与える父親はいない。卵を求める子どもにさそりを与える子どもはいない。だから、求めなさい。求める者に父なる神は「聖霊を与えてくださる」、と主イエスの教えの箇所です。
 また、後ろを読んでみると、12章32節に「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とありました。ここで言う「神の国」は「聖霊」と同じ意味だと受け取ってよいと思います。命のこと、体のことで思い悩(なや)む者に、父なる神は必要なものをご存じで、悩まずとも与えてくださる。求める者には「神の国」が与えられ、本当に必要なものは満たされるという、やはり主イエスの教えです。
 信じて求める者のところに、「聖霊」は既に来ている。「神の国」は既に来ている。神が共にいて、すべてをご存じで、必要なものを、良い物を与えてくださる。赦しを、勇気を、愛を、希望を、平和を与えてくださる。どんなに口でキリストの悪態(あくたい)をついても、苦しくて、辛くて、心ならずもキリストは仲間ではないと言ってしまうことがあっても、心の底で、聖霊がもう既にあなたのところに来ているこの恵みだけは否定してはならない。神の愛と赦しを否定してはならない。どんなに自分のような人間が、神さまに赦され、愛されるはずがないと思うことがあっても、それでも、神があなたを赦し、愛しておられることを否定しない。信じるのです。神の愛と赦しは、私たちの罪よりもはるかに大きいのです。それが、聖霊を冒涜しない、ということです。
 ローマの信徒への手紙5章3〜5節に、パウロの次の言葉があります。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達(れんたつ)を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺(あざむ)くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注(そそ)がれているからです」。
 聖霊によって神の愛が私たち一人ひとりの心に注がれているのです。この聖霊は、私たちを裏切りません。知らないと言いません。地獄に投げ込みません。私たちのすべてを知り、赦し、愛し、生かします。この聖霊を、神の愛を信じて、信じて生きていくこと、それが本当の意味で、“神を恐(おそ)れる(畏(おそ)れる)”ということなのです。



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