2013年5月5日 礼拝説教(教会総会日)
  聖  書  コリントの信徒への手紙(一)12章12〜27節
  説教者  山岡 創

「坂戸いずみ教会の一致」

〈坂戸いずみ教会の“理念と指針”をつくろう〉。私たちの教会の今年度の標語は、これです。そして、この標語の下に選んだ御(み)言葉、神さまから与えられた御言葉が、コリントの信徒への手紙(一)12章27節でした。
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)。
 理念と指針、ちょっと難しい言葉です。けれども、簡単に言えば、私たちが、どういう教会を目指し、造っていきたいか、ということです。例えば、神の愛を伝える教会になりたい、と考えたとします。すると、〈神の愛を伝える教会〉という言葉が理念になります。では、神の愛を伝える教会になるためには、どうしたら良いか。伝道しよう、礼拝を守ろう、交わりを持とう。そういった指針が定められ、具体的な方策や目標が立てられます。例えば、理念と指針とはこういったことです。このように、私たちの教会の理念と指針を、まず1年間、一緒に考えて、これから定めていきましょう。というのが、今年度の私たちの教会の目標だということです。

 坂戸いずみ教会は、1992年4月にスタートしました。今年度で22年目を迎えました。川越市の初雁教会によって生み出され、最初は“伝道所”と呼ばれる集まりからスタートして、人数も少なく、経済的にも独立していませんでした。最初は、ともかく礼拝をはじめ、教会らしい活動をこなすことに専念しました。そのような活動が落ち着いて数年、伝道所から〈第2種教会〉になろうという目標ができました。教会員20名と、経済的に自立することが、第2種教会の条件でした。2002年に第2種教会になることができました。そろそろ、中古の家を改造した会堂が手狭になって来ました。新しい会堂を建てよう、という目標が生まれました。2004年にこの土地を買いました。2005年にこの会堂が完成しました。会堂建築と並行して、初雁教会の保護の下から自主独立し、社会的に宗教団体として認められるために、宗教法人を目指しました。そして、2007年に宗教法人として認可されました。
 それまで、教会として外側、形態を造り上げてくることに一生懸命でした。みんながその目標に集中し、一つになりました。教会の理念とか指針のようなものを全く考えていなかったわけではありませんが、そちらに精一杯でした。けれども、第2種教会となり、会堂を建築し、宗教法人となって数年、試行錯誤の歩みの中で、今、坂戸いずみ教会の理念と指針が必要だと強く思うようになりました。21年の歩みの中で、新しい方々が加わり、教会員が増えました。嬉しいことです。同時に、信徒が増えれば、それだけ色々な信仰的な考えがあり、信仰生活の背景の違いも出て来ます。そのような現状において、私たちの教会が一つになるために、みんなで目指し、造り上げていく共通の教会像が必要だと考えるようになったのです。そこで、〈坂戸いずみ教会の“理念と指針”をつくろう〉という今年度の標語が立てられたわけです。

 この標語の下に、今日の聖書の御言葉、特に27節が年度聖句として選ばれました。
 コリントの町は、当時のローマ帝国において有数の大都市でした。それだけ教会にも色々な人々がいました。ユダヤ人がおり、ギリシア人がいました。自由な身分の者がおり、また奴隷もいました。人数も相当多かったろうと思われます。
 ところが、このコリント教会に「分裂」(25節)が起こりかかっていました。27節で、教会は「キリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と示されています。しかし、キリストの体、一つの体であるはずの教会に、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」(15節)といったひがみが、あるいは「お前はいらない」「お前たちはいらない」(21節)という排除が起こっていました。教会が一つになれず、分裂しかかっていたのです。
 その最たる原因は、霊の賜物(たまもの)の問題でした。イエス・キリストを神の子、救い主と信じ、洗礼を受けると、神さまから聖霊(せいれい)が与えられ、その人の内に聖霊が働くようになります。それは何のためか?13節にこう書かれています。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは‥‥‥皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」。皆一つのキリストの体になるために、聖霊をいただいたのです。
 ところが、本来一つになるための聖霊を、コリント教会の信徒たちは分裂の元にしてしまいました。それは、聖霊を受けた時に神さまから与えられた賜物が、一人ひとり違っていたからです。そして、信徒たちは、どの賜物がいちばん優れているかと比べ始めたのです。その中で、最も優れていると見なされたのは、異言(いげん)を語る賜物です。異言については14章に出て来ます。異言とは、我を忘れた無意識の状態になって、本人も周りも、何をしゃべっているのか分からない言葉を話し始める現象です。それは、天使の言葉を語っていると考えられました。つまり、天使の言葉ですから、神に近いというわけです。そこから、賜物の優劣が定められていきました。中には、洗礼を受けても、ほとんど変わらない、何の賜物も受けていないかのように見える人もいたことでしょう。そのために比較がなされ、優劣の評価がなされ、「体の一部ではない」という劣等感とひがみが、「お前はいらない」という排除が教会の中に生まれてしまったようです。
 コリントの信徒への手紙を書いたパウロは、「イエスは主である」(12章3節)と信じる信仰そのものが聖霊の賜物だと12章のはじめで語っています。そして、「一つの霊によって、わたしたちは‥‥‥皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」と、聖霊の目的を示しました。それなのに、どうして優劣とひがみ、排除による分裂が起こるのか?「体」のことを考えていないからです。教会は一つのキリストの体である、ということを意識していないからです。体全体のことを思わずに、「部分」ばかりを見ているからです。
 体から足が失われたら、耳が失われたら、手が失われたら、どうでしょうか?単純に考えて、痛くて苦しいでしょう。ハンディを負うことになります。健やかに、健常に生きられなくなるのです。本当の体だったら、自分の体だったら、その痛みが分かる。それなのに、キリストの体のことになると、それが分からなくなるのです。部分同士で比べ合い、けんかをし、対立し、私はこの教会に必要ないんだ、とすねてみたり、自分が優れているとうぬぼれて、周りの人を非難したりするのです。自分はいなくてもいい。この人がいなくなればいい。そう考えるのは、体のことを思わない自己中心さ、エゴです。
 私たちがそう考えることによって、いちばん痛い思いをするのは、だれだか分かりますか?それは、体の所有者です。教会はキリストの体、つまりイエス・キリストです。キリストの父なる神です。私たちが、一つになることを思わず、争い、分裂することで、いちばん悲しく、痛い思いをするのは、ほかでもない、神さまなのです。だから、私たちは一つの体、一つの教会となるために、何よりも神さまの御(み)心を意識する必要があります。

 ところで、特に男性の方は、プラモデルやレゴ・ブロック等を作ったことがあるかと思います。買って来た箱の中には、たくさんのパーツが入っています。けれども、パーツがあるだけでは、作ることができません。どうやって作ったら良いのか、分かりません。組み立て、作り上げるためには、設計図、組立図が必要です。その図面に従って作ることで、初めて一つの作品が出来上がる。もしも2人、3人、複数の人間で一つの作品を作るとしたら、設計図、組立図はまさに必要不可欠です。
 さて、教会という作品、一つの体を、設計図、組立図に従って造り上げていくのは、だれでしょうか?一つの答えは、私たち自身です。私たち、体の「部分」が、協力し合って、教会という一つの体を造り上げていきます。
 けれども、同時に忘れてはならないことがあります。私たち一人ひとりを「部分」として、パーツとして、キリストの体である教会を造り上げていくのは、私たちではなく、私たちの内に働く「聖霊」だということを。言い換えれば、神さま御(ご)自身が、教会を造り上げていかれるのだということを、はっきりと心に留める必要があります。神さま御自身が、設計し、組立を考えて、教会を造っておられるのです。一人ひとりの個性を考え、違いを考え、教会の中で活かす方法を考え、役割と居場所を与えてくださる。だれも不必要とはされないのです。「体の中でほかよりも恰好(かっこう)が悪いと思われる部分」(23節)さえも必要とされ、それを引き立たせることで、教会という体が造られていきます。つまりそれは、神の愛が通う教会です。神の愛が通っているがゆえに、「各部分が互いに配慮し合う」(25節)人の愛が通い合う教会となります。そのような愛が通う中で、教会は、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊(とうと)ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(26節)と言われるまでに成長していくのです。
 教会の理念と指針とは、言わば、“教会の設計図・組立図”です。しかし、それは私たちが勝手に考えて、自分たちの好いように立てるものではありません。聖書の御言葉を通じて、神さまのお考えを写し取って立てるべきものです。この1年、御言葉を通して、神さまの御心、神さまの喜びを汲み取りながら、一緒に教会の理念と指針を考え、定めていきましょう。



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