2013年5月26日 礼拝説教(大人と子どもが共に守る礼拝)
  聖  書  コリントの信徒への手紙(一)13章1〜13節
  説教者  山岡 創

「愛がなければ」

 先週の日曜日は、聖霊降臨祭(せいれいこうりんさい)ペンテコステでした。イエスさまの使徒たちに聖霊が与えられ、聖霊の助けによって教会が生まれた記念の日です。そこで、私たちは教会の誕生日と、私たちの坂戸いずみ教会の誕生日を合せてお祝いしました。また、大学生になったN.Kくんが洗礼を受け、神さまを信じて生きる者が、私たちの教会に新たに加えられたことを喜び祝いました。
 ところで、聖霊という神さまは、とても律儀(りちぎ)なお方です。“手ぶら”では私たちのところに来ない。いつも“手土産”を持って、“贈り物”を持って私たちのところに来てくださいます。その聖霊の贈り物を、聖書では「賜物(たまもの)」(12章31節、他)と言います。
例えば、最初のペンテコステの日に、聖霊はペトロさんら使徒(しと)たちに、“言葉の賜物”をくださいました。その賜物のお陰で、使徒たちはイエスさまの恵みを、人々に力強く話すことができました。
 けれども、聖霊の贈り物に、私たちが気づかないことがあります。もらったのに気づかないで終わってしまう。あるいはまた、“ください”と求めなければ、聖霊は贈り物を持ち帰ってしまうこともあります。聖霊を信じる信仰と賜物を求める祈りがあって初めて、受け取ることができるものです。

 今日はコリントの信徒への手紙(一)を読みました。これは、パウロさんという使徒の一人が、コリント教会の信徒たちに書き送った手紙です。
 コリント教会の人たちは、聖霊の贈り物をたくさんいただいていました。それを喜んでいました。教会が元気でした。色々な働きをしました。
 けれども、元気のいい、活発な教会の中に問題が起こりました。どんな問題だと思いますか?‥‥‥それは、何ができるかとお互いに比べ始めたことです。そして、“これができるとすごい”とか、反対に“これは大したことがない”と、聖霊の賜物に順位、優劣を付けました。そのために、自慢する人、威張る人が出て来ました。逆に、落ち込んだり、へこむ人も出て来ました。そして、遂には“あなたは大したことができないから、教会に要らない”とまで言うようになってしまいました。現代の子どもたち、若者たちの言葉で言えば、“消えろ”ということでしょう。“使えねえ”ということでしょう。人が神さまの方を見ずに、神さまをまっすぐに見て感謝せずに、お互いを見て、比べ合うようになったら、教会の中にも嫌なことが起こります。

 パウロさんは、そんなコリント教会の人々に、あなたがたは聖霊の贈り物をたくさんいただいているけれども、いちばん大切な贈り物を受け取っていませんよ、と言いました。聖霊のいちばん大切な贈り物、それが「愛」です。どんなにすごいことができても、「愛がなければ」、私たちは無に等しい者、何の益もない者だとパウロさんは言うのです。
 昨日の夕方から半年振りのサムエル・ナイトを開催しました。多くの青年、高校生、子どもたちが参加し、教会に一泊して奉仕と黙想と交わりを共にしました。
 昨日の夜、みんなで今日の聖書の御(み)言葉を読んで考えました。まず、どの御言葉が心にピーンと響いたか、一人ひとりに聞きました。私は2節を挙げました。「あらゆる知識に通じていようとも」ということは、中高生の生活にたとえて言えば、中間テストで5教科で500点満点を取ったとしても、ということだよ。それでも「愛がなければ」、それは無意味だというんだから、愛はすごいねと話しました。「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも」と話そうとしたら、Iくんが、“それほどの信仰を持っているのに、どうして愛がないのか、不思議だ”と言いました。言われてみると、本当にそうですね。でも、どれほど立派な、すばらしい信仰を持っていても、愛がないとういことが私たちにはあり得るのです。
 次に、4〜7節の中で、自分にいちばん足りない、欠けているものは何だろうかと考えてみました。その後で、4〜7節の「愛」という言葉の代わりに、各自自分の名前を入れて読んでみました。“山岡創は忍耐強い。山岡創は情け深い。ねたまない‥‥”といった具合です。“自分の名前を入れて読んでみて、ピッタリだという人はいますか?”シーン‥‥だれもいません。“愛と自分はずいぶん違うなあ、と思った人?”みんなが手を挙げました。それもそのはずです。13章に自分の名前を当てはめて、ピッタリだと言える人は、一人を除いてだれもいないでしょう。否、そのお一人の方も、“私はピッタリだ”なんて、偉そうには言わないはずです。その一人とは‥‥‥イエス・キリストにほかなりません。13章に表されている「愛」はキリストの愛、神の愛だからです。

 新訳聖書は元々ギリシア語で書かれました。ギリシア語には“愛”を意味する言葉が三つあります。一つはエロス。相手の人や物が、美しいとか、使いやすいとか、自分にとって価値がある相手を愛する愛です。恋愛などは、これに当たります。二つ目はフィリア(フィレオー)。これは、“友愛”と訳されます。エロスよりはもう少し純粋な愛です。アメリカにフィラデルフィアという都市がありますが、この名前はフィリア(フィロアデルフォス、兄弟愛)から来ています。三つ目はアガペー。相手に見返りを求めない愛、自分を捨てた愛、無私の愛、無償の愛です。これは人の力では不可能な愛、神さまにしかできない愛でしょう。そして、13章で「愛」と訳されている言葉は、すべてこのアガペーが使われているのです。
 イエスさまは、自分が損をしても、人を愛することをやめませんでした。悪口を言われ、反対され、捕まえられて、殺されることになっても、徴税人(ちょうぜいにん)や遊女(ゆうじょ)、罪人(つみびと)という周りからバカにされ、除者(のけもの)にされている人たちを愛することをやめませんでした。自分を捨てて、十字架の上で自分の命を捨てて、罪人たちを、私たちを愛してくださいました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)とイエスさまが弟子たちに教えた御言葉を思い起こします。
 そういうキリストの愛で、神の愛で、私たちは愛されて、今、ここに、こうして生きている、生かされていると信じるのがクリスチャンです。教会です。そして、イエスさまからいただいたその愛で、私たちも人を愛するのです。だれかを愛するのです。
 サムエルナイトの中で、13章を読んでいて、“無理でしょう”“できないよ”という声が上がりました。その通りです。私たちにはできないのです。
 けれども、問題は“できるか、できないか”ではありません。大切なのは“追い求めるか、求めないか”です。13章が終わった後、14章1節に「愛を追い求めなさい」とありますね。愛は追い求めるものです。今日できなくても、思い直して明日、また追い求めるものです。それは、イエスさまが歩いたのと同じ道を、「最高の道」(12章31節)を私たちも歩くことです。イエスさまと同じようにはできません。けれども、遙(はる)かに前を歩いているイエスさまの背中を見つめながら、私たちも聖霊の助けを求め、愛を追い求めて人と関わり、教会を造り上げていきたいと願います。



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