2013年6月2日 礼拝説教
  聖  書   ルカによる福音書12章22〜34節
  説教者  山岡 創

「富を天に積みなさい」

 多くの方が既にご存知ですが、私は、教会のそばの高麗(こま)川の川向こうで畑を借りて、家庭菜園をしています。今は夏物の野菜が、梅雨の雨と晴れ間の太陽の光を受けて、ぐんぐん成長しています。
 先週、ちょっと遅まきながら、カボチャの苗を4つ植えました。見た目、とても良い苗です。その後、雨が降ったので水やりの心配がなかったため、1日空いて、2日後に畑に行ってみました。そうしたら、カボチャの葉がかなり食い荒らされていました。てんとう虫ぐらいの大きさのオレンジ色の虫で、キュウリの葉をよく食うので、私は“キュウリ虫”と呼んでいますが、そのキュウリ虫が数匹、カボチャの葉にたかっていました。一昨年はメロンの葉を無残に食い荒らされ、楽しみにしていたメロンはすっかり駄目になりました。それが、“今年はカボチャに来たか!”と腹が立ちまして、すぐに追い払い、つぶしたりして、その後、虫が近づけないようにネットをかけました。花が咲いて、授粉の時期が来るまでは、しばらくネットを掛けておこうと思っています。農薬を使わずに有機農法で楽しむ家庭菜園は、虫との戦いです。
 今日の聖書箇所に、「そこは盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」(33節)という御(み)言葉がありました。虫が食い荒らさない畑があればいいなあ、と思ったりしますが、この御言葉は地上のことではありません。天上のことです。主イエスは、「擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」(33節)と私たちにお教えになります。地上の富は失われたり、尽きて無くなったり、盗まれたり虫に食われたりするものです。けれども、天に積む富はセキュリティーがしっかりしている。何と言っても管理なさっているのが神さまだからです。言わば、この“天国銀行”に貯蓄する心で、地上の生活を送りなさい、ということでしょう。それは、私たちがどのような心構えで、どのように生活することでしょうか。

 今日の聖書箇所のはじめで、主イエスは次のように弟子たちに言われました。
「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」(22〜23節)。
何を食べようか、何を着ようか。まさに毎日の生活の問題です。衣食住は、私たちの生活そのものです。余程の財産でもあれば思い悩みはしないのでしょうが、そうでなければ、何を食べようか、何を着ようかと財布と相談しながら考え、日々の生活の心配をするのは、私たちの止むに止まれぬ心情でありましょう。けれども、そういう生き方は、自分の命のことを、自分の体のことを、本当の意味で考えてはいないのだ、と主イエスは言われるのです。どうしてでしょう。私たちは、衣食住を考えることで、自分の命のこと、体のことを考えているつもりです。けれども、主イエスに言わせれば、それは命よりも食べ物のことを考えている。体よりも衣服のことを考えている。命と体よりも食べ物と衣服を大切にしている、ということになるようです。命のために考えなければならないことは、もっと別にあると主イエスは言われるのです。
 主イエスは、「だから、言っておく」と言われました。「だから」ということは、今日の話の前提として、それ以前の話に理由がある、ということです。その前提、理由というのが、直前にある〈愚かな金持ちのたとえ〉です。
 ある金持ちの畑が豊作でした。これだけの富を蓄えるためにどうしようかと考えた金持ちは、新しい大きな倉を作ります。そして、安心して、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(19節)と、ほくそ笑んだのです。もはや何を食べようか、何を着ようかと思い悩む必要がなくなったのです。ところが、その夜、神は彼に宣告します。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」(20節)。
 このたとえ話を語ったとき、主イエスは最初に、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(15節)と言ってから、このたとえ話をなさいました。人の命は財産によってどうすることもできない。それは、言い換えれば、人の命は食べ物によって、衣服によってどうすることもできない、ということでしょう。金持ちか、貧しいか、ということは関係ない。金持ちであろうと、貧しかろうと、私たちの命はこの地上から取り去られるのです。いつか神さまに召されて、お返しする時が来るのです。それは今夜かも知れない。その時、どんなに財産があっても、食べ物があっても、衣服があっても、役に立ちはしない。天国には持って行けない。私たちの命はそういう命だということを踏まえて、どのように生きるかを考えなさい、整えなさい、と主イエスは言われます。
 知り合いの牧師から聞いて印象に残った話ですが、その牧師先生のご兄弟が天に召されました。お一人暮らしで、近くの借家に住んでいたので、その牧師先生が後片付けをして、借家を大家さんにお返しすることになりました。ずいぶん多くの物が遺されていたそうです。懸命に整理し、捨てるものは捨て、教会員の方々にも欲しいものを持って行ってもらって、だいぶ処理をした。それでも半分余りは処理しきれず、後は業者に依頼して処理してもらった。その費用もまた、予想外に多くかかったそうです。そういう経験をなさってから、生活というか、考え方が変わったそうです。自分にとって大切なものであっても、自分が死んだ後で、大きな苦労を後の者に遺すことになる。そう考えて、できるだけ取っておかずに、捨てるようになったそうです。捨てるか取っておくか迷ったら、“これは天国に持って行けない”“これも天国に持って行けない”、そう自分に言い聞かせて捨てるようになったとお話してくださいました。私はその話を伺いながら、倉を大きくして貯め込むような生き方をしてはならないんだなあと、12章の話を思い出しました。“断捨離(だんしゃり)”と言いますけれども、断捨離の究極の心は“天国に持って行けない”だと思いました。天国に持って行けない。これもまた、私たちの命の本質を見据えた心構えであり、生き方の一つだと言って良いでしょう。

 この世の倉ではなく、天の倉に蓄える。地上に富を積むのではなく、天に富を積む。そういう生き方として、主イエスが今日の聖書箇所で、弟子たちに、私たちに具体的に教えてくださっていることは、「自分の持ち物を売り払って施(ほどこ)しなさい」(33節)ということです。これはまた、私たちの生活、私たちの生き方と衝突し、心に葛藤を引き起こす教えではないでしょうか。もちろん、簡単にできることではありません。私たちの心が主イエスとの出会いによって変えられる。聖書の御言葉によって変えられる。そういう恵みを心に感じることで、初めて生き方も変えられていきます。
 私は、33節の御言葉から真っ先に思い出すのは、徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイのことです。12章13〜21節をお話した際にも、ザアカイのことを取り上げました。繰り返しになりますが、ザアカイの話は、同じルカによる福音書19章に出て来ます。彼は「徴税人の頭(かしら)で、金持ちであった」といいます。当時、徴税人は嫌われ、蔑(さげす)まれていました。ユダヤ人を支配し、植民地のようにしているローマ帝国の手先となって、同胞のユダヤ人から税金を取ったからです。しかも巻き上げるように税金を取り、ローマに納税した後の余った分で私腹を肥やしていたからです。
 そんなザアカイが、主イエスと出会います。いちじく桑の木に登って、エリコの町を通る主イエスを見学していたザアカイに、主イエスは、「急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」(19章5節)と声をかけられました。徴税人仲間以外はだれからも認められず、家に泊まることはもちろん、食事さえもだれも一緒にしてしてくれなかったザアカイが、認められ、一人の人間として扱われ、愛された瞬間でした。
 そして、この出会いがザアカイを180度変えます。彼は立ちあがって、主イエスに向かって言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19章8節)。半分を貧しい人々に施したら、残り半分。そして、彼は相当だまし取っていたと思われますから、それを4倍にして返したら、残り半分もほとんどなくなってしまっただろうと思うのです。
 けれども、そうなっても惜しくはないという思いがザアカイの心を満たしていたと思います。今までは財産のために、食べ物のために、衣服のために生きて来た。それが自分にとっていちばん大切なものだった。けれども、ザアカイはもっと大切なものを、主イエスとの出会いによって見つけたのです。それは、愛です。つながりです。自分が神に愛されているという心のつながりです。だから、自分も神を愛する。また、人を愛する。愛し、愛されることで、人ともつながる。その愛と信頼、すなわち信仰こそ、命を生かす宝だということにザアカイは気づいたのです。
 生きていくためには、財産も、食べ物も、衣服も、家も必要です。むやみに施せ、という教えではありません。しかし、地上の富にこだわる貪欲を見直して、自分のことばかり考えず、神の御(み)心を思い、人のことを考えて、愛する生き方、分かち合う生き方を心がけていく。それが、「ただ、神の国を求めなさい」(31節)と主イエスが言われた、神の国を求める生き方です。その時、食べ物や衣服は「加えて与えられる」(31節)と主イエスは約束してくださっています。烏(からす)や野原の花を養ってくださるように、私たちが生きていくために必要なものは備えてくださると約束してくださっています。
 自分の力に頼るのではなく、あるいは逆に、自分の力には頼れないと思い悩むのではなく、養ってくださる神さまを信頼して、どんなときも“よろしくお願いします”とおゆだねし、自分にできる小さな愛を積み上げていく。今日できなくても、明日また人を愛する。それが、尽きることのない富を天に積む私たちの生き方ではないでしょうか。



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