2013年6月9日 礼拝説教
  聖  書   ルカによる福音書12章35〜48節  
  説教者  山岡 創

「人生の用意」

駿河湾から四国・九州の南側まで続いている海溝があります。南海トラフと呼ばれています。ユーラシア・プレートの下にフィリピン・プレートが潜り込むことによってできている溝だそうです。
 この南海トラフを震源として、この30年以内に、マグニチュード8〜9クラスの地震が起こると言われています。最悪の場合は、死者30万人に上ると推測されています。
インターネットでは、地域ごとに震度や津波の高さ、到達時間を検索できるホームページがあり、ちなみに坂戸市で検索してみると、最大震度は5強ということでした。津波の心配はありません。
地震はいつ起こるのか。そのタイミングを正確に予測することは不可能だそうで、常に用意をしておくことが必要だということです。用意と言えば、まず水や非常食といったものでしょう。以前は3日分の水や食料を用意しておけばよい、3日後には救援が来ると言われていました。けれども、南海トラフ大地震の場合は、1週間分の用意が必要だと言われています。被災する地域が関東から九州までと非常に広い地域に及ぶことから、救援が3日では間に合わない場合が考えられるからです。
 皆さんのご家庭では、どうでしょうか?我が家でも2〜3日分の水や非常食は用意してありますが、1週間と言われると備え直しを迫られることになる。もう1回見直さないとだなあ、と思っています。しかし正直、呑気(のんき)です。地震は今日明日にも起こるかも知れない、明日は我が身だという切迫感は、良くも悪くも薄いです。

 今日の聖書箇所を黙想しながら、私は最初に、南海トラフ大地震とその備えについて連想しました。いつ起こるか分からない、突然、思いがけない時に起こる出来事に対して用意をしている、ということが、今日の聖書箇所のテーマだからです。
 ところで、地震に対する用意が必要なのはもちろんですが、私たちはクリスチャンとして、常に信仰の用意をしているでしょうか。なぜなら、主イエスは、
「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(40節)
と教えておられるからです。
 「人の子」とは、主イエス・キリスト御自身のことです。主イエスは、私たちの罪を贖(あがな)うために十字架に架けられ、3日目に復活し、弟子たちを諭された後に天に昇られました。その主イエスが、天から再びやって来る時が来る。その時、地上は新しい世界に、神の国に造り変えられて、主はご自分に従う者を呼び集め、神の国に招き入れてくださる。それが当時の教会、クリスチャンたちの大きな希望でした。
 けれども、キリストはいつ天からおいでになるか分からない。だから、いつおいでになっても迎えられるように、その心がけで、用意をして信仰生活をしなさい、と言うのです。そして、そのことを理解させるために、二つのたとえが語られています。
 一つは、婚宴に出席している主人とその僕(しもべ)のたとえです。主人はイエス・キリストを、僕は弟子たち、私たちを指しています。当時の結婚式とそのお祝いの宴は、夜に行われたようです。しかも、現代の私たちが知っているような、時間が2時間、3時間と決まっていて、きっちり終わるような披露宴ではありませんでした。夜中のいつ終わるのか分からない。翌日まで持ち越すこともあります。場合によっては、1週間も続くこともあったようです。そのため、主人が友人知人の婚宴に出席した場合、その家の僕、召使たちは、主人がいつ帰って来るのか分かりません。だから、主人がいつ帰って来ても、迎えられるように、目を覚まして、その用意をしていなさい、というわけです。そのように忠実な姿を、主人に見られる僕は幸いだ。なぜなら、その忠実な仕事振りに報いて、主人がご褒美をくれる。主人が僕となって、逆に給仕してくれる、というのです。
 現実には、たとえ僕が常に忠実に仕えていても、主人が僕に給仕することはありませんでした。だから、そこだけは、現実と神の国では違うということです。神の国では、キリスト御自身が、弟子たちに、クリスチャンたちにサービスしてくださる。そういう報いが神の国では用意されていると、主イエスは教えています。
 もう一つのたとえは、主人とその僕の関係なのですが、特に僕たちの中の管理人の振る舞いが語られています。
「主人が召使たちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実な賢い管理人は、いったいだれであろうか」(42節)。
 私は、この42節を考えながら、これは当時の教会とその指導者のことを指しているのだと思い当たりました。主人はもちろんイエス・キリスト、「召使たち」というのは弟子たちの群れ、つまり教会です。そして、「管理人」は教会の指導者です。
 使徒言行録の前半に、最初の教会、できたばかりのエルサレム教会の様子が記されています。その教会で問題が起こりました。6章の初めに記されている、食べ物の分配の問題です。当時のエルサレム教会は、財産や給与をささげて共有し、共同生活をしていました。そのような生活形態の中で、食べ物の分配について、不平等、差別が起こっているとの声が上がりました。そこで、ペトロらの使徒たちは、7人の分配担当者を選び、この問題に当たらせました。言わば、この7人が、今日の聖書箇所で言う「管理人」に当たります。
 そう考えると、41節以下の話はフィクションではなく、実はノン・フィクションだった。エルサレム教会から派生して生まれた50年後の教会の現実問題だったと思われます。イエス・キリストが再び天からおいでになると約束されてから、もう50年が過ぎたのに、未だキリストはやって来ない。遅い!その遅いという意識が、45節の「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い」という言葉に反映されています。遅い。遅すぎる。イエスさまは本当に来るのか?もう来ないのか?そんな疑いと動揺が起こりました。信じて待つ希望が失われていきました。そうなると、信仰生活なんて無意味だと思い、忠実な管理を捨てて、荒れた信仰生活をするようになる管理者も出て来たのだと思われます。信仰生活が荒(すさ)んではならない。投げやりになってはならない。キリストは、「予想しない日、思いがけない時に帰って来」(46節)るから用意していなさい、と言うのです。

 さて、現代のクリスチャンである私たちにとって、この「用意」とはいったい何でしょうか?遅い、と言えば、私たちはルカの教会のクリスチャンたちの比ではありません。私たちにとって、キリストの再臨はもう2千年も遅れていることになります。そういう時代の中で、私たちの用意とは何でしょうか?
 19世紀から20世紀の初めにかけて生きたドイツの牧師・クリストフ・ブルームハルトという人は、牧師館の庭に、常にまだ乗ったことのない馬車と馬を用意していたと言います。それは、イエス・キリストがいつ天からおいでになっても、そこへ駆けつけるための用意だったそうです。
 私は、その信仰の精神は、非常にすばらしいと賞賛します。私たちも、そういう忠実な姿勢でありたいと思う。しかし、具体的な用意や生活の仕方については、違っていいと思います。私たちは、聖書の時代の教会とクリスチャンたちが信じたように、イエス・キリストが人間の姿をとって、天から(雲に乗って)やって来るとは信じ難いものがあります。キリストの再臨はもっと別の形で来る。終わりは別の形で来る。そう考えます。    
ただ、終わりがどんな形で来ようとも、主イエス・キリストの御(み)心に忠実に生きる。それが私たちの用意だと思います。では、キリストの御心とは何でしょうか?直前の31節でこう言われています。「ただ、神の国を求めなさい」と。神の国を求めながら生きること。それが、私たちの用意ではないでしょうか。
 ならば、それはどんな生活になるのか?たとえば、私は今日の説教を準備する時に、まず祈りました。“神さま、疲れを癒(いや)して、説教を準備する思いと時間を与えてくださり感謝します。どうか、私の知恵や力ではなく、聖霊(せいれい)が語るべき言葉を示し、整えてください”。そのように祈って説教を準備することも、神の国を求めること、神がここにいて治(おさ)めることを求めて生きている、ということだと思います。礼拝(れいはい)に出席することも、日常生活の中で聖書の御(み)言葉を読んで考え、祈ることも、神の国を求めて生きることだと思います。そして、毎日の生活の中で、神の御心は何かと考え、神と人のために働いたり、目の前の人に尽くしたり、赦したり、手伝ったり、話をしたりすることも、神の国を求めて生きることだと思います。そういった毎日の生活の中で、イエスさまの御心を思い、かける言葉、とる態度、行う営みこそ、イエスさまを迎えるための用意に、自然となるのだと私は思います。

 もう一つ、キリストの再臨、世の終わりというものを、現代の私たちは、命の終わりの時と受け取って良いのではないかと思います。今日の聖書箇所の直前、12章13節以下に〈愚かな金持ちのたとえ〉という話があります。畑が豊作で、その収穫や財産をすべて大きな倉にしまい込んで、さあ人生を楽しもう!と、ほくそ笑んだ金持ちに、神さまが「今夜、お前の命は取り上げられる」(20節)と言われた話です。命の終わりはいつ来るか分からない。この金持ちにとっては、まさに「思いがけない時」(40、46節)に死を迎えることになりました。そういう意味で、この話と今日の35節以下の話は明らかにつながっている内容があると思うのです。命の終わり、死を迎える時に、どれほど財産の用意をしていても無意味です。それは天国には持って行けない。別の用意が必要です。
 先週も少しお話しましたが、5月の埼玉2区の牧師会で、“もし、あなたの命はあと3日です、と言われたら、何をしますか?”という考えるワークショップをしました。20名弱の牧師たちが集まって、様々な答えが出ました。見られたら困るものを始末する。預金の解約など財産を整理して、だれに何を遺すかを決めておく。電車で好きな旅行に行く。家族と過ごす。自分を支えてくれた妻に感謝の意を表す。迷惑をかけた人に謝罪する。人に会いに行く。普段と特に変わらない生活をする。おかしかった答えは、自分の葬式のプログラムを用意しておく、というものもありました。
 様々な名回答、珍回答が出されて、しみじみしたり、笑いが巻き起こったりする中で、さすがだなあ、と思ったのは、だれもオタオタしている人がいない、ということでした。もちろん、3日後に死ぬというのは仮の話だからということもありますが、それが本当に現実になったとしても、牧師先生方は、それほど大きくは変わらないと思うのです。それは、命の終わり、死に対する心の用意が、それぞれできているからだと思います。
 人生の終わり、命の終わりである死を、どのように迎えるか。どのように受け止めるか。これは、すべての人に課されている人生の大きな課題です。この課題をクリアしておかなければ、命の終わりに際して、オロオロ、オタオタすることになるでしょう。恐れと不安とでしか死を迎えられないことになるでしょう。
 私たちの命と人生は神さまのもの、神さまの手の中にある。だから、生きるも死ぬも、神さまが最善にしてくださる。地上の命を終えても、天国に迎え入れて、永遠の命を与えてくださる。愛する人々とも再会させてくださる。だから、私の命も死も、神さまにおゆだねして生きる。この信仰は、私たちの中で確かでしょうか?これは、大切な人生の用意だと思います。
 もちろん、簡単にできる用意ではありません。御言葉に聴き、実践し、祈り、信仰生活を一日一日積み重ねながら、用意を怠らずに続けていきましょう。



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