2013年6月23日 大人と子供の礼拝説教
  聖  書  使徒言行録7章54〜60節  
  説教者  山岡 創

「イエスさまに見守られて」

 今日の聖書の中に、ステファノさんという人が出て来ました。ステファノさんは、生まれたばかりのエルサレム教会で、とても重要な役割を持っていた人でした。“給食係”何千人もいる教会のメンバーに、差別なく食事を配る“給食係”でした。なんだ、給食係か、と思うかも知れません。でもね、“食い物の恨みは恐ろしい”って言葉があります。学校で給食係をしていると、“私の、少ない”とか文句を言われることがあるでしょう。実際、エルサレム教会でも、給食のことで、あっちは多い、こっちは少ないって文句が出たのです。それを、文句が出ないように、差別が起こらないようにするのは、かなり難しい、そして忍耐力と愛がないとできない役割だったと思います。

 そのステファノさんが、神殿に集まっている人にイエスさまの救いをお話しました。聞いて信じる人もいました。でも、信じない人もいました。神さまは信じても、イエスさまを神の子だ、救い主だとは信じない人もたくさんいました。そういう人々が、ステファノさんに反対しました。でも、ステファノさんを言い負かすことができませんでした。そこで、彼らは悔しがってね、神殿の偉い先生たちに告げ口をしました。“ステファノは、神さまとこの神殿の悪口を言っています”って。その告げ口は嘘なんだよね。
 でも、告げ口を聞いた神殿の偉い先生や長老たちは、ステファノさんを呼んで、みんなの前で確かめようとしました。その場で、ステファノさんは堂々とお話しました。そして、神殿の先生や長老たちに、“あなたがたは神の子であり、救い主であるイエスさまを十字架に架けて殺してしまった。それは、神さまの心に逆らう、間違ったことではありませんか。悔い改めなさい”と、はっきりと言いました。
 人間って、“あなたは間違っている”って言われると、“そんなことない!”と言い返したくなるんだよね。自分は間違っていない、と思い込んでいる。だから、悔しいんだ。ステファノさんから、間違っていると言われた神殿の先生たちや長老たちも、人々も皆、歯ぎしりするほど悔しがったんだ。そして、ステファノさんが言った「天が開いて、人の子(イエスさま)が神の右に立っておられるのが見える」(56節)という言葉を聞いたら、もう我慢できなくなった。そして、“ステファノの奴こそ、神さまに逆らっている。赦(ゆる)されない罪を犯している”と叫んで、ステファノさんを死刑にすることに決めて、みんなで石を投げつけ始めました。ユダヤ人には、石打(いしうち)の刑というのがあったからです。
 みんなの悪口と憎しみを浴びて、石を投げつけられるステファノさん。でも、この時、ステファノさんは何を考えていたと思う。“ちくしょう!あいつら、絶対に赦さないぞ。恨んでやる。いつか仕返ししてやる”。そう思ったかな?そうじゃないんだよね。
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)と祈っていたのです。
自分を殺そうと石を投げつける人々のために、罪を負わせないで、お赦し下さいと神さまに祈る。そんなことができるんだろうか、できないでしょう、と思います。悪口を言われたり、意地悪されたり、ぶたれたりしたら、腹が立つ。悔しいと思う。相手が憎くなる。やり返したくなる。その気持は不思議ではありません。
私も子どもの頃から教会に行っていました。敵を愛しなさい、自分を迫害する人のために祈りなさい、とか、右の頬(ほお)をぶたれたら、左の頬も出しなさい、といった聖書の教えを教えられて、子ども心に“ちょっとかっこいいな”と思いました。悔しくて、腹が立っても、言い返したり、手を出したくなるのを、グッとこらえて我慢したりしました。でも、我慢できなくて3回けんかをして、相手をなぐってしまったことがあります。やり返したい。それが私たちの心だと思います。なかなかステファノさんのようにはなれません。
 だけど、だからこそイエスさまが、私たちのやり返したい心のために、罪の心のために、十字架に架かって死んでくださいました。神殿の先生たちや長老たちや、兵士や、たくさんの人たちに、何の罪もないのに十字架に架けられたとき、イエスさまは何と言ったと思いますか?‥‥。“父なる神さま、彼らをお赦しください”と祈りながら、十字架に架けられたのです。祈りながら死んでいったのです。みんなの罪を背負って、その罪を赦すために、犠牲になって、自分の命を神さまにささげたのです。そのお陰で、私たちの罪の心は、神さまに赦された。ステファノさんも赦されたのです。
 ステファノさんの心にも、やり返したい気持があったと思います。もしステファノさんが、自分に石を投げつける人々を見ていたら、きっと“ちくしょう!”と思ったでしょう。“恨んでやる。いつかやり返してやる”と思ったでしょう。
けれども、ステファノさんの目は、目の前にいる人々、自分を憎み、石を投げる人々を見ていたのではありませんでした。では、何を見ていたのでしょう?‥‥。イエスさまです。「天が開(ひら)いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」とステファノさんは言いましたね。ステファノさんはこの時、天にいるイエスさま、神さまの隣に立っているイエスさまを見ていたのです。そして、イエスさまを見ていたら、憎むのではなく、恨むのでもなく、やり返すのでもなく、赦そう、愛そうという気持に、不思議になれたのではないでしょうか。

 天にいるイエスさまを見つめる。もちろん、この目(肉眼)では見えません。心の目でイエスさまを見つめる。イエスさまの心を見つめる。すると、私たちは変えられます。人を赦せない。愛せない時がいっぱいあります。そんな私たちを、イエスさまは愛してくださいます。そして、私たちも、人を赦し、愛することができるようになるかも知れません。
 ところで、皆さん。自分の隣の人を見てください。‥‥ジッと見ていると、ちょっと恥ずかしくなりますね。それは、自分も見られているからです。自分がだれかを見るということは、自分もその人から見られている、ということでもあります。
 ステファノさんは、天のイエスさまを見つめました。その時、イエスさまも天からステファノさんを見ていたと思います。ハラハラしながら、応援しながら、“何があっても、きみを愛してるよ”という心を込めて、ステファノさんのことを見守ってくださっていたと思います。イエスさまも見ていてくださる。見守っていてくださる。だから、ステファノさんは、みんなから石を投げつけられるような、苦しく辛い中でも、安らかな気持ちになれたのではないかと思います。
 以前に、私と私の家族は北坂戸のアパートに住んでいました。うちの子どもたちがまだ幼かった頃、高麗川(こまがわ)の土手の周(まわ)りをよく散歩しました。子どもは周りにある色々な物に興味があって、トットットと私の前を歩きます。私は後ろからついて行きます。でも、子どもは時々振り返ります。そして、私の顔を見ると、安心したかのように、また歩き始めます。
 私たち一人ひとりと神さまとの関係も、これと同じようなものではないかと思います。神さまが見守ってくれている。そう信じたら、私たちは安心して自分の人生を生きていける。神さまが、イエスさまが、私を見守っていてくださる。信じて、これからも歩いて行きましょう。



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