2013年7月28日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書22章39〜47節
  説教者  山岡 創

「わたしの願いと神の御心」

 今日の聖書の中心は、イエスさまの祈りです。このお祈りの後で、イエスさまは、イエスさまを嫌(きら)う人たちにつかまって、有無(うむ)も言わせず裁かれて、十字架に架けられて殺されます。イエスさまは、そういう苦しみの運命が待っていることを、よく知っていました。だから、このお祈りは、毎日が悩みなく、うまくいっている時の祈りではありません。心の中に大きな苦しみ、深い悲しみを抱(かか)えながらのお祈りでした。自分が十字架に架けられる。そういう苦しみを抱えながら、イエスさまはこう祈りました。
「父よ、御心(みこころ)なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)。


 このイエスさまの祈りの言葉を読みながら、祈りって何だろう?と考えさせられます。もっと言えば、神さまを信じるってどういうことだろう?と考えさせられます。祈ることは、神さまを信じることから生まれます。祈りは信じることと一つで、切っても切り離(はな)せないからです。
 イエスさまはまず、「この杯(さかづき)をわたしから取りのけてください」と祈られました。この杯(ワインを入れるグラス)というのは、十字架に架けられる運命を指(さ)しています。つまり、イエスさまは、十字架に架からなければならない苦しみを取り除(のぞ)いてください、なくしてくださいと祈っているのです。
 苦しみや悲しみをなくしてください。とても素直(すなお)な願いです。私たちも、このように祈ったことがあると思います。苦しいことや悲しいことがあったら、神さまを信じている人なら、いや神さまを信じていない人でも、この苦しみ悲しみを取り除いてくださいと祈りたくなります。イエスさまも、自分の心のままの、素直な、ストレートなお祈りをなさったのです。
 けれども、これだけだったら、“祈り”にはならない、“祈り”ではない、と私は思うのです。もう10年以上前になると思いますが、以前に教会に来ていた人から、こんなふうに聞かれたことがありました。“神さまを信じて祈っているのに、苦しみがなくならない。ちっとも良いことがない。どうしてでしょう?”。そう言って、その方は、ご自分の家庭の苦しみ悩みをお話されました。その苦しみのつらさや、それがなくなってほしいと願う気持はよく分かりました。けれども、私は、そのお話に違和感(いわかん)というか、信仰のズレのようなものを感じていました。なぜなら、“こんなに信じて祈っているのだから聞いてくれるのが当然、聞いてくれないのはおかしい”というようなニュアンスを感じたからだと思います。その時の私は、“どうしてでしょう?”という問いかけに答えなかったと思います。答えがなかったからではありません。聖書からお答えしても、たぶん通じないと思ったからです。その答えは、その人自身が、聖書から、神さまから教えられて、受け止める以外にない答えでした。
 取りのけてください。そう祈って、苦しみを取りのけてもらえたら、とても嬉しいし、平安な気持になるのです。しかし、どんなに信じて、熱心に祈っても、苦しみや悲しみが取り除(の)けられないことがあります。それを“どうして?”と言って、神さまはおかしい、聞いてくれない神さまが悪いんだと、神さまを悪者(わるもの)にしたのでは、それは“祈り”ではなく、“自分中心”になってしまいます。
 かと言って、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りだけでも、だめなのです。神さまの御心に従おうとする、とても物分(ものわ)かりの良い祈りのように思われます。けれども、その祈りは、ともすれば“あきらめ”になってしまいます。どうせ祈ったって、その通りにはならないんだ。神さまは叶(かな)えてはくれないんだ。心の中でそのように思いながら、「御心のままに行ってください」と祈っているとしたら、それは、“祈り”ではなく、“あきらめ”以外の何ものでもありません。
 祈りは、自己中心の願いではありませんし、あきらめでもありません。「取りのけてください」、○○してください、という自分のお願いと、「御心のままに行ってください」と現実を受けとめようとする心の、その両方があって初めて“祈り”になるのです。“信仰”になるのです。
 このお祈りの心を、とてもよく表している讃美歌があります。前にもお話したことがありますが、こどもさんびか120番です。
  どんなときでも どんなときでも 苦しみに負けず、くじけてはならない
  イェスさまの イェスさまの 愛を信じて
  どんなときでも どんなときでも 幸せをのぞみ くじけてはならない
  イェスさまの イェスさまの 愛があるから
 この歌は、高橋順子さんという女の子が作詞した讃美歌です。順子さんは骨肉腫(こつにくしゅ)という治(なお)らない病気のために、小学生になって間もなく7歳で亡くなりました。この歌は、順子さんが骨肉腫のために片足を切断(せつだん)する手術(しゅじゅつ)を受ける4日前に作ったのだそうです。小学生になるかならないかという小さな女の子です。治りたい。イエスさま、この病気を取りのけてくださいと、どんなに願ったことでしょう。でも、治らないのです。しかし、それでも神さまの御心を信じているのです。神さまの愛を信じているのです。こんなことになっても、神さまに愛されていることを信じて生きていこうとする。そんな順子さんの信仰が、祈りが、この讃美歌で歌われています。


 では、このような祈りはどうしたらできるでしょう? このような信仰は、どうしたら私たちの中に形づくられるのでしょう? 今日の聖書の最初に、こう記されています。
「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに『誘惑(ゆうわく)に陥(おちい)らないように祈りなさい』と言われた」(39〜40節)。
 気が付いたことがありませんか? 「いつも」という言葉が2回使われています。つまり、イエスさまは、同じ時間に、同じ場所で、「いつも」祈っていたのです。
 私たちも、毎日の生活の中で、いつも祈ること。祈りの習慣を作ること。それが大切だと思います。アーサー・ホーランドという人が、“1日5分、神さまにささげなさい。3分聖書を読み、2分祈りなさい。そうすれば、あなたの生活は必ず変わります”と言いました。本当にそうなのです。いつも祈ることで、段々と神さまの御心が分かってきます。神さまが自分のために考え、自分を愛してくださっていることが分かってきます。そうすれば、祈りがそのまま聞かれない時も、神さまに文句を言ったり、あきらめたりしてしまう誘惑(ゆうわく)から守られるでしょう。
 どんなときにも神さまを信じる祈り。一朝一夕(いっちょういっせき)にはできません。いつも祈り続けることで、少しずつそういう祈りと信仰を造(つく)り上げていきましょう。




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