2013年9月8日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書14章1〜14節
  説教者  山岡 創

「見返りを求めない」

 “また!?” 今日の聖書箇所(かしょ)を読んだ方で、そのように思った人もあったと思います。“また安息日(あんそくび)のこと!?” 今日の聖書箇所では、主イエスが水腫(すいしゅ)という病(やまい)を患(わずら)っている人を癒(いや)しています。
その日は安息日でした。安息日は土曜日、ユダヤ人にとって、天地をお造りになった神が休まれた日だから、自分たちもそれにならって休む。一切の仕事をしない。そのように定められた日で、非常に重要な掟(おきて)の一つでした。それで、「人々はイエスの様子を伺(うかが)っていた」(1節)のです。
すると、案の定(あんのじょう)と言うか、主イエスは安息日であっても、病を癒す行為を、安息日に禁じられている仕事と見なされる行為を行いました。そして、黙(だま)っている人々に言われました。
「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(6節)。
 当然のことです。自分の子供には愛情がある。自分のものには愛着(あいちゃく)がある。だから、安息日の掟を破ってでも助け出す。ならば、その愛を他人にも適用(てきよう)すべきではないか。いや、神がお造りになって、自分の愛する子だ、自分のものだと見なしている人間を、安息日でも神さまがお助けになるのは当然のことだ。私(主イエス)はその神の心を行っているだけだ。
それでも、彼らは同意(どうい)しませんでした。自分がかたくなであることを認め、折(お)れようとはしませんでした。依然(いぜん)として黙っていました。
 福音書の中には、安息日の出来事(できごと)がしばしば記(しる)されています。直前(ちょくぜん)の13章にも、主イエスが安息日に腰の曲がった婦人を癒した記事があります。その時に比べると、人々の反応(はんのう)がずいぶん固くなっています。13章の時は、主イエスを非難(ひなん)した人々が、主イエスの言葉を聞いて恥(は)じ入り、群衆は主イエスの業を喜(よろこ)んでいました。ところが、今日の箇所では、一切反応がありません。黙っています。もしかしたら、律法の専門家たちやファリサイ派の人々に釘(くぎ)を刺(さ)されていたのかも知れません。“安息日にイエスがすることを喜ぶのは、お前たちにも掟を破る心があるということだぞ!”そんなことを言われて脅(おど)されていたのかも知れません。


 彼らは何を考え、何を求めて生きていたのでしょうか? それは、神の掟である律法(りっぽう)を守ることで、神さまに喜ばれ、認(みと)められ、神の国に入る資格(しかく)と名誉(めいよ)を得(え)ることです。そのために専門家は律法を研究し、ファリサイ派は律法を熱心(ねっしん)に守っていたのです。
 けれども、その生き方の裏(うら)を、ちょっと厳しい目で見てえぐれば、そこには極(きわ)めて人間的な損得(そんとく)の気持、計算があるのではないでしょうか。
 安息日には仕事をしてはならない、という掟を守る。しかし、自分の息子や牛が井戸に落ちれば、安息日でも助ける。それは愛情、愛着があるからだと先ほど言いました。しかし、他人や他人の牛であれば助けない。愛情、愛着がないからです。けれども、よく考えてみると、それは愛の問題だろうか? そうではなくて損得の問題ではないでしょうか? 自分の息子や牛ならば、放(ほお)っておいたら自分が困る。痛む。損(そん)をする。けれども、他人や他人の牛なら自分は損をしない。かえって助けたりすれば、律法違反だと非難(ひなん)されてしまう。その方が損だ。そういう気持、そういう計算が、行動の裏に、生活の中に働(はたら)いているのではないでしょうか。
 この後の7節以下の話は一見、〈安息日に水腫の人をいやす〉話とは関係のない、別の話のように見えます。けれども、人が自分の得を求めて、損得を考えながら生きているということと深くつながっていると読むことができます。


 主イエスはこのとき、「食事のためにファリサイ派のある議員(ぎいん)の家にお入りになっ」(1節)ていました。食事に招(まね)かれたからでしょう。同じように「招待(しょうたい)を受けた客」(7節)が何人かいたようです。それらの招待客たちは、食卓の上席(じょうせき)を選んで座っていました。見栄(みえ)と面目(めんぼく)のためです。それに気づいた主イエスは、「婚宴(こんえん)に招待(しょうたい)されたら、上席に着(つ)いてはならない。‥‥‥だれでも高(たか)ぶる者は低(ひく)くされ、へりくだる者は高められる」(8〜11節)とお教えになりました。自分から見栄を張ったり、驕(おご)り高ぶったりせず、末席に座る謙遜(けんそん)の心を忘れないように。そうすれば、家の主人がやって来て、上席に導(みちび)いてくれる。もちろん、それを狙(ねら)って末席に座ったら、謙遜でもなんでもありません。まさに損得計算です。そういうことに関わりなく、自分を低くする謙遜な心を大切にしなさい、と主イエスは言っているのです。実際、上席に連(つ)れて行かれることもあるかも知れません。でも、主イエスがここで話しているのは、神の国の宴席(えんせき)での話です。いつか入れていただく神の国を見上げて、今、地上で謙遜に生きるようにと教えているのです。
 もう一つの教えは、自分が宴会を開くとき、後でお返しのできる人を招待するな、ということです。主イエスが招待されたファリサイ派の人の食卓(しょくたく)には、後でお返しに招待できるような人ばかりが招かれていたのでしょう。「昼食や夕食の会を催(もよお)すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないからあなたは幸いだ。正しい者たちが復活(ふっかつ)するとき、あなたは報(むく)われる」(12〜14節)。
 もちろん、この教えを文字通り実行したら、私たちは変人扱いされるでしょう。家族や親類(しんるい)、近所の人とも親しく付き合うことができなくなります。そういうことではなくて、主イエスが教えようとしているのは、お返しを求めずに、見返(みかえ)りを求めずに行いなさい、生活しなさい、ということです。見返りを求めない世界、それが復活の世界だ。神の国だ。神の国という宴会場だ。だから、そこにいるつもりで、人に見返りを求めずに行いなさい、と主イエスは教えておられるのです。
 見栄を張ることも、見返りを求めることも、その根底(こんてい)には損得の気持、計算があります。人に面目を施(ほどこ)せるという得があるから見栄を張るわけですし、これだけしてあげたのに見返りがなかったら損だと思うから、見返りを求めるのです。主イエスは、神さまを信じて生きる者は、神の国を仰いで生きる者は、見栄を捨てよ、見返りを求める思いを捨てよ、損得の計算を捨てよと教えておられるのです。


 けれども、私たちはそんなに簡単に、見栄や見返りを捨てることができるでしょうか。できないのです。
見返りを求めない人物ということで、私が真っ先に思い起こしたのはマザー・テレサでした。多くの方がご存じでしょうが、マザー・テレサはシスターとしての恵まれた環境(かんきょう)を捨(す)てて、インドのスラム街に赴(おもむ)き、子どもたちの教育を始めました。やがて教え子たちと共に、1950年、神の愛の修道者会を創設(そうせつ)し、死を待つ人の家、平和の家等を通して、インドで最も貧しく、社会から疎外(そがい)された人々に、宗教に関係なく尽(つく)しました。その姿はまさに、見返りを求めない生き方でした。見返りを求めず、無条件の愛を注ぐ。主イエス・キリストを通して、神さまが私たち人間に注いでくださった愛に、マザー・テレサもならって生きたのです。
私は、インターネットで“マザー・テレサ”、“見返り”という言葉でマザー・テレサについて検索しました。そうしたら、興味深いブログを見つけました。
  最近、優(やさ)しさについて悩んでいます。
  他人にやさしく親切に接するのって、結局見返りを求めているわけですよね?
 そういう言葉で始まる、ある人のブログに、優しくすると損をしたり、つけこまれたりする体験が多く、疲れてしまった。他人の相談を親身に聞いてアドバイスしたら、うまくいかなかったと逆恨(さかうら)みされたり、公園で他の子どもたちの相手もしていたら、他の母親たちは私に任(まか)せてほったらかしにするし、もう他人に優しくするのが怖(こわ)い。優しくしたら、自分が困った時に優しくされたい、感謝されたい、評価されたいと思ってしまう自分がいる。どうしたら孤立(こりつ)せず、ほど良く友だちや近所付き合いもしながら生きていけるのでしょう?
 そんな言葉がつづられていました。この気持、私たちにも、だれにでも分かります。ふと自分ばかりが損をしているんじゃないかと思う時があります。優しく、親切にしたら、自分だって時には優しくされたい、親切にされたい、感謝されたい、評価されたいと思うことがあります。それが私たちの人情です。自然な気持です。
 主イエスは、そういう思いをすべて捨てて、見返りを求めずに生活しなさい、他人と接しなさいと求めているわけではないと私は思います。私たちは、神さまにはなれない。完璧(かんぺき)にはなれない。損得を考えるし、見返りを求めたい時だってある。主イエスはそういう私たちの現実(げんじつ)をよくご存知です。
 けれども、そういう思いだけで生きていたら、そういう考えが当然なんだと開き直って生きていたら、私たちの人生は醜(みにく)くなります。冷(つめ)たくなります。人と人との間に愛と平和がなくなります。そのことだけには、しっかりと目を開いていたい。そして、全く自己中心な人間になるのだけは避(さ)けたい。自分の心と行いを省(かえり)みながら生きていきたい。そして、時には見栄を捨て、見返りを求めず、小さな無償(むしょう)の愛をだれかに注ぐ者でありたい。私たちが皆、マザー・テレサのようにできるわけではないけれど、小さな愛を忘れずにいたい。主イエスと、マザーと同じ道を進みたい。そういう信仰と生き方が、私たち、クリスチャンという存在(そんざい)には大切なのではないでしょうか。
 見返りを求めずに生きる。難(むずか)しいことです。でも、御言葉(みことば)を心にとどめて、自分の中で忘れずにいたいと願います。



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