2013年9月22日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書14章15〜24節
  説教者  山岡 創

「キャンセルしてはいけない」

 新訳聖書には、「神の国」という言葉が何度も出てきます。イエスさまも、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と言って、伝道活動(でんどうかつどう)を始められました。“信仰によって救(すく)われる”、私たちはよくそう言いますが、救われるということは、聖書的に言えば、“神の国に招(まね)き入れられる”ということです。
 では、「神の国」と言ったら、皆さんはどんなイメージを想像(そうぞう)するでしょうか? 当時のユダヤ人は、「神の国」と言ったら、お祝いの宴(えん)、パーティーの会場を想像(そうぞう)したようです。それは、旧約聖書の預言者イザヤという人が、「万軍の主はこの山で祝宴(しゅくえん)を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供(きょう)される」(イザヤ書25章6節)と語った預言の影響(えいきょう)などもあったようです。
 主イエスはこの時、「ファリサイ派のある議員」(14章1節)が設けた食事の席に招かれていました。その席で、主イエスは、病(やまい)を患(わずら)っている人を癒(いや)し、上席(じょうせき)を好む人々をたしなめ、また「昼食や夕食の会」(12節)には貧(まず)しい人や障(しょう)がいを負っている人々を招くようにとお教えになったことが、14章の前半に記(しる)されています。そして、その教えを、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報(むく)われる」(14節)という言葉で締(し)めくくられました。「正しい者たちが復活するとき」とは、神の国が実現(じつげん)するときです。だから、その席で主イエスの教えを聞いていた客の一人が、食事の席と「復活」という言葉から「神の国」を連想して、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(15節)と言ったものと思われます。

 主イエスも、神の国を祝宴にたとえるイザヤの預言を知っていたでしょう。そこで、「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き‥」(16節)と、神の国を盛大(せいだい)な宴会にたとえた話を始めました。ところが、宴会の用意ができたので、予(あらかじ)め「招いておいた人々」(17節)を呼びに僕(しもべ)を送ったところ、皆、次々に断り始めたと言うのです。「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」(18節)、「牛を2頭ずつ5組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」(19節)、「妻を迎(むか)えたばかりなので、行くことができません」(20節)。一人ひとり、何か事情(じじょう)があって、理由があって、宴会の誘(さそ)いを断(ことわ)りました。だったら、最初(さいしょ)に断れば良いのに、最初の招待は受けておいて、迎えに行ったら断るというのですから、この家の主人が怒るのも無理(むり)はありません。
 話は変わりますが、私の姪(めい)が5月に結婚(けっこん)しました。軽井沢での結婚式に憧(あこが)れていたらしく、軽井沢高原教会という、と言っても“教会”ではなく、いわゆる結婚式場なのですが、憧(あこが)れの場所で結婚式を挙(あ)げました。私たち家族も招待(しょうたい)されました。親族(しんぞく)だけの式でした。ところが、その時間が土曜日の夜8時から、なのです。予約が込んでいて、その日のその時間しか取れなかったようです。土曜日の夜8時から結婚式、そして9時からお祝いの食事‥‥‥私は出席するかどうか、迷(まよ)いました。日曜日の礼拝の務(つと)めを考えたからです。もちろん時間そのものには問題ありませんが、帰った後の疲れや睡眠(すいみん)時間はどうか、準備(じゅんび)はできているか。そんなことを考えました。ぎりぎりまで迷って、結局、欠席と返事をしました。姪には申し訳ないけれど、残念だけれど、牧師という職務(しょくむ)を考えたら当然の判断、致(いた)し方ない判断だと思いました。
 今日の聖書箇所を黙想(もくそう)していたら、その時のことを思い出しまして、しかし、招待を断った人々も、断った事情や理由をやはり当然のことと考えていたのではないだろうか? ふとそんな思いが浮かびました。初めに断るのと、招待を受けてから断るのとでは、だいぶ状況(じょうきょう)が違(ちが)うとは思いますが、彼らは、それを断る理由になり得るものと考えたのは間違(まちが)いありません。
 しかし、それらは断る理由として当然なのだろうか。畑を見に行くにしろ、牛を調べに行くにしろ、妻と過ごすにしろ、招待を受けたのだから、別の日にするとか、一日ぐらい新妻(にいづま)に我慢してもらうことはできなかったのだろうか。そう考えると、彼らの行動(こうどう)が相当(そうとう)に自己本位(じこほんい)であることが推測(すいそく)されます。自分にとって、より価値(かち)のある理由ができると、人はその理由を何とか正当化(せいとうか)して、それ以前(いぜん)に交(か)わした約束や予定をキャンセルしようとします。私にも覚(おぼ)えがあります。自己本位に生きている自分がいます。
 けれども、キャンセルしてはならない約束があります。それは神さまとの約束です。神さまの招待です。神の国への招きです。
 最初に、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」といった人は、自分は当然、神の国に招き入れられて食事ができると思っていたに違いありません。食事の会を催したのがファリサイ派の議員でしたから、招待を受けた客もファリサイ派の人々だったでしょう。自分には神の国に招かれる資格(しかく)がある、と自負(じふ)していたはずです。
 ファリサイ派は、神の掟(おきて)である律法(りっぽう)を熱心(ねっしん)に守る人々でした。律法を守ることで神さまに認(みと)められ、神の国に招き入れられると信じていました。そして、律法を守ることができない徴税人(ちょうぜいにん)や遊女(ゆうじょ)、貧しい人や障がいのある人々を、神の国に招かれない人間として差別(さべつ)しました。そういう人を食事に招待(しょうたい)するなど、絶対(ぜったい)にしませんでした。
 そういう信仰が、彼らの“当然(とうぜん)”だったのです。だから、彼らは主イエスの招きを断りました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔(く)い改めて、福音を信じなさい」という主イエスの招きを断りました。神の掟である律法で、いちばん重要なことは何か。主イエスはそれを“愛”だと汲(く)み取りました。神を愛し、隣人(りんじん)を愛する愛です。その愛を実現するために、主イエスは、安息日(あんそくび)であっても病人や障がいを負っている人々を癒し、徴税人や罪人、貧しい人々と食事を共にしました。愛が実現するところ、神の憐(あわ)れみが実現するところ、そこが「神の国」です。主イエスは、そういう神の国に、そういう信仰の価値観で生きる人生に、すべての人々をお招きになったのです。もちろん、ファリサイ派の人々も、です。
 けれども、ファリサイ派の人々から見れば、主イエスのやっていることは律法違反(りっぽういはん)に見えました。安息日を守り、律法を守り、律法を守れない人々とは付(つ)き合わない。それが、彼らの当然でした。
 当然と思っていることは、時々“本当に当然なのだろうか”と疑(うたが)ってみる必要があるように思います。自分を当然とする思いは、自己本位、独善的(どくぜんてき)な態度(たいど)につながります。事(こと)、信仰に関しては気をつけないと、主イエスの招きを拒(こば)むファリサイ派のようになりかねません。“自分が”という思いを捨て、“神が”何を望んでおられるかという御心を信じ、従うのが、信仰だからです。

 さて、最初に招待した人々に断られた主人は、「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」(21節)と僕(しもべ)に命じました。よく読んでみると、これは、直前(ちょくぜん)の箇所(かしょ)で主イエスが昼食や夕食の会に招くべき人として選んだ人々(13節)と同じです。つまり、それは14節にあるように、「お返しができない」人々です。
 神の国に招かれるのは、“お返しができない人々”です。当時のユダヤ人社会では、結果として貧しい人々や障がいを持った人々がお返しのできない人々だったわけですが、神さまは貧しい人や障がいを負った人だけを愛し、選び、神の国へと招かれたのではないと思います。もしそうだとしたら、私たちの中にもだいぶ招かれない者が出るのではないでしょうか。
 けれども、招かれたのは、お返しのできない人です。私は、これを“神さまにお返しのできない人”のことだと思います。そしてそれは、自分は神さまにお返しするような行いも人格(じんかく)も持っていないと、自分を低(ひく)くして、へりくだっている人(11節)のことではないでしょうか。
 ファリサイ派の人々は、自分はお返しができると思っていました。人に対して食事のお返しができるだけでなく、神さまに対しても、お返しができると思っていました。神さまに損(そん)はさせない。自分は律法を熱心に守っているのだから、神さまに選ばれ、招かれるに足(た)る行(おこな)いがある、理由があると自負(じふ)していました。自分の力に自信があったのです。
 けれども、ファリサイ派であろうと徴税人や遊女であろうと、金持ちであろうと貧しい人であろうと、本当に神さまの招きに見合うお返しのできる人など一人もいないのです。神さまの前に立てば、私たち人間は、どんなに立派な生き方をしているように見えても、「神様、罪人のわたしを憐(あわ)れんでください」(ルカ18章13節)と悔い改め、へりくだるほかにはないのではないでしょうか。
 自分には神さまに誇(ほこ)れるような行いがないことを知っている。愛がないことを知っている。罪人であることを知っている。そのような者が、神の憐れみによって神の国に招かれるのです。救いとは、自分の行い、自分の力によって決まるものではなく、神さまの憐れみによって起こる恵みです。当然の結果なのではなく、与えられた恵みのギフト(おくりもの)です。この恵みに気づかせ、信じさせるために、神さまは主イエスをこの世に遣(つか)わされました。主イエスを十字架に架け、その命を犠牲(ぎせい)にして私たちの罪を赦(ゆる)して、私たちを愛する深い憐れみを示されました。この恵みの前に、私たちは、目に見える自分の行いや力や、地位や財産などを誇(ほこ)ってはならないのです。それらを誇る時、私たちは自分の価値観で自己本位になり、憐れみによる神の国への招きを断る者となるのです。

 明日の祝日に、埼玉和光教会で〈障がいを負う人々と共に生きる教会を考える懇談会〉、通称アーモンドの会が開かれます。もう20年近く続いている会です。私もいちばん最初の頃に委員として関わりました。障がいを負う人や貧しい人と教会が共に生きるとは、どういうことでしょうか? どうすることでしょうか? もちろん、実状(じつじょう)に応じた援助(えんじょ)や対応(たいおう)があると思います。しかし、そういった行い以上に大切なものがあります。
 だれもがよく知るシスター、マザー・テレサは、インドのスラム街(がい)で〈神の愛の宣教者会〉を立ち上げました。日本の山谷(さんや)にも、この宣教者会があります。貧しい人々のために献身的(けんしんてき)に働いています。
 あるとき、マザー・テレサが、礼拝と祈りに使う時間を奉仕に使った方が良いのでは?と尋ねられたとき、“いいえ、この時間があるからこそ、私たちは貧しい人々に仕えることができるのです”といった言葉を言われたのを聞いたことがあります。それは、自分が神さまにお返しのできない者であることを知る時間、それゆえに神の憐れみによって生かされ、救われている人間であることを感謝する時間だったでしょう。そして、奉仕する自分たちも、奉仕を受ける貧しい人々も、神の前では同じ人間だということを確認(かくにん)する時間だったでしょう。
 皆、神の憐れみによって生かされ、救われている。この恵(めぐ)みを、まず自分自身が知り、信じることが、すべての人と共に生きる神の国を実現するための、大切な第一歩です。



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