2013年9月29日 大人と子供の礼拝説教
  聖  書  コリントの信徒への手紙U12章1〜10節
  説教者  山岡 創

「弱さの中で発揮される力」

 “自分は、こういうところがすごいんだぞ”と、私たちは自分の何かを誇(ほこ)ることがあります。例えば‥‥私は走るのが早い。私はピアノが上手に弾(ひ)ける。私はサッカーがうまい。私は学校の成績が良い。私は料理(りょうり)が得意だ。私は大きな家に住んでいる。私は会社で高い地位に就(つ)いている。私は財産(ざいさん)をたくさん持っている。‥‥他にも色々と自慢(じまん)したくなることがあるかも知れません。
 では、私は自分の「弱(よわ)さ」を誇(ほこ)ります、という人はいますか?‥‥弱さを誇る、という人はなかなかいないと思います。弱さなんて誇りにならない。むしろ、人に知られないように隠(かく)しておきたい。自分の失敗(しっぱい)、恥(はじ)、できないこと、病気‥‥人に知られたら嫌(きら)われるかも知れない、バカにされるかも知れないと思う弱さは、隠しておきたいと思うのが普通(ふつう)です。ところが、今日の聖書の中で、この手紙を書いたパウロさんは、「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(9節)と言っています。どうしてでしょう? 不思議ですね。
 パウロさんにも普通に誇れること、自慢できることがありました。ユダヤ人は神さまの掟(おきて)である律法を守って生きています。この律法を人々に教える人を律法学者と言って、とても尊敬(そんけい)されていました。パウロさんはかつて、優秀(ゆうしゅう)な学校を卒業した律法学者のトップ・エリート(一番の人)でした。でも、パウロさんはそんなことを誇らない。別の手紙の中で、そんなものはゴミのようなものだとさえ言っているのです。
 また、今日の聖書箇所(せいしょかしょ)でも、他の人が味(あじ)わったことのないような経験(けいけん)をした、と書いています。自分の経験ではないように書いていますが、実は自分の経験です。それは、天にまで昇(のぼ)り、神の声を聞いたという経験です。でも、パウロさんはその経験を誇らないのです。その経験を誇ろうとすると、自分は思い上がった人間になってしまう。そう思って、パウロさんは自分を戒(いまし)めているようです。

 ところで、パウロさんは自分の体に「一つのとげ」(7節)を持っていました。とげが刺(さ)さると、痛(いた)いですね。つまり、「とげ」というのは、パウロさんにとって、それがあると痛くて、苦(くる)しくて、不都合(ふつごう)なもののことです。パウロさんのとげというのは、たぶん何かの病気、おそらく目の病気だったと想像(そうぞう)されます。
 パウロさんは、この病気に相当苦しめられたようです。イエスさまのことを伝(つた)えに行きたくても、この病気のために動けない、安静(あんせい)にしていなければならないことが、しばしばあったようです。伝道(でんどう)したいのに邪魔(じゃま)をされる。だから、パウロさんはこの病気を「サタンから送られた使い」(7節)だと言いました。サタンがこの病気によって伝道の邪魔をすると思ったからです。
 だから、元気になって、思いっきりイエスさまの救いを伝えられるようになるために、パウロさんはお祈りしました。“神さま、サタンの使いを離れさせてください。とげを抜いてください。この病気を癒(いや)してください”と、熱心(ねっしん)に祈ったに違いありません。
 けれども、神さまは“よろしい。あなたの病気を癒してあげよう”とは言いませんでした。神さまは、パウロさんの目の病気を治(なお)してはくださらなかったのです。
 けれども、そこでパウロさんは、“こんなに祈っているのに聞いてくれないなんて、もう神さまなんか、信じないぞ”とは思いませんでした。パウロさんは、神さまが治してくださらないということは、この病気によって、神さまが私に伝えたい何か意味(いみ)があるのだ、と考えました。それで、神さま、その意味を教えてくださいと、更(さら)に祈り続けたと思います。すると、不思議な答えが神さまから返って来ました。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)
 病気が治ったら恵みは十分、ということではない。病気を抱(かか)えたままで、今のままで、わたしの恵みは十分だと神さまは言われたのです。そして、神の力は、人の弱さの中でこそ、十分に発揮(はっき)されるのだ、と。どういうことでしょうか?
 ここにコップがあります。もし、このコップに半分、水が入っていたら、入れられるのは残り半分です。もしコップにいっぱいまで水が入っていたら、もう何も入れられません。でも、このコップが空(から)っぽだったら、このコップにすべて何かを入れることができます。私たち人間と神さまの関係も同じです。私たちの心コップに、私たちの思いや私たちの力が入っていたら、その分だけ、神さまの力は注(そそ)げなくなります。もし私たちの心がすべて、自分の力で満(み)たされていたら、もはや神さまを必要としなくなるでしょう。でも、私たちが誇れるものを何も持っていない。つまり、弱くて、心のコップが空っぽだと、それだけ神さまの力がワーッと入って来るのです。
 もしパウロさんが、病気もなく、健康(けんこう)で元気だったら、思いきりイエスさまのことを伝道することができたでしょう。でも、もしかしたら“これは、おれの力だ”と思い上がっていたかも知れません。神さまの力だと、あまり思わず、感謝(かんしゃ)しなかったかも知れません。でも、パウロさんが病気で、弱かったからこそ、神さまが支えてくださり、助けてくださり、導いてくださり、力を与えてくださった恵みを感じることができたのです。自分の力ではなく、弱さの中で神の力が働(はたら)くことを実感(じっかん)することができたのです。

 人の弱さの中でこそ、神の力は十分に発揮(はっき)される。この恵みは、頭で考えても分かりません。自分が弱くなったときに、一生懸命にお祈りして、神さまに支えていただいたと理屈抜(りくつぬ)きに感じて、初めて分かることです。
 ところで、2020年にオリンピックが東京で開催(かいさい)されることが決まりました。もしかしたら、この中から東京オリンピックに出場‥‥‥なんていう人が出るかも分かりません。
 マドリードにするか、イスタンブールにするか、東京にするか。開催国(かいさいこく)を決めるために、オリンピック委員たちの前で、自分の国の良さをアピールするプレゼンテーションというのがありました。日本では、滝川クリステルさんが言った“おもてなし”が、世界に知られるようになりましたね。
 私は、佐藤真海さんという人の言葉がとても印象(いんしょう)に残りました。佐藤さんは、障がいを負った人たちが競(きそう)うパラリンピックの走り幅跳(はばと)びの選手です。最初は、健常(けんじょう)な体でした。けれども、19歳の時に骨肉腫(こつにくしゅ)という骨(ほね)の癌(がん)の病気になって、右足のひざから下を切断(せつだん)する手術(しゅじゅつ)をした。スポーツやチア・リーディングをずっと続けて来た佐藤さんは、絶望(ぜつぼう)して、家に引きこもるような生活になってしまったと言います。そんなとき、お母さんが一つの言葉を掛けてくれた。“神さまは、その人が乗り越えられないような試練(しれん)は与えない”。その言葉に、佐藤さんはとても感じるものがあったのでしょう。絶望から立ち上がり、義足(ぎそく)を付けて、走り幅跳びを始めた。そして、パラリンピックに出場するまでになったのです。佐藤さんは、先の言葉を今も、いつも大切にしていると言います。
 右足を失うという弱さの中で、一つの言葉に力を与えられて生きている。私は、今日のパウロさんのお話と重(かさ)なるものを感じました。
 「弱さ」って、できれば無くしたいものですが、でもマイナスばかりではありません。私たちに大切なことを教えてくれます。神の力を教えてくれます。感謝を教えてくれます。



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