2013年10月6日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書14章25〜35節
  説教者  山岡 創

「弟子となるには」

 今年度は、坂戸いずみ教会の20年史を発行しようとしています。皆さんにも、原稿を書いていただきました。編集委員会を積み重ねて、ようやく最終段階まで来ました。遅くも年内には皆さんに配布できるのではないかと考えています。
 2002年に10年史を発行しましたので、今回のものは、その後の10年を主に編集されています。私が、この10年を振り返って総括を書きましたが、最も大きかった出来事は、やはり会堂建築であろうと思います。
 高麗川(こまがわ)べりにあった、中古家屋をリフォームした、小さな会堂が、手狭(てぜま)になって来て、新しい会堂を建てようと、みんなで決心しました。2003年度は土地を探して購入し、2004年度前半に会堂の設計を検討し、12月から建築を始めて、2005年4月に移転しました。最初、資金と呼べるものはほとんどありませんでした。会堂を建てようと決心してから、少しづつ献金しましたが、1千万円にも満たなかったと思います。それでも、今後の予約献金や教会債権による借入金、古い会堂・土地の売却代、教団や銀行からの借入など、一生懸命計算をして計画を立てました。当初は、土地と建物を合わせて5千万円台ぐらいの計画ではなかったかなと思います。それが、6500万円ほどに変更され、その後の業者とのすり合わせや、実際の建築の必要上から、更に必要経費は増えて、最終的に7500万円ほどになりました。その都度、神さまに祈りながら、資金計画、返済計画を検討し、変更し、何とかこの会堂を建築することができました。支払いも無事にすることができ、その後の返済も10年計画であったものが、この会堂になってから新たに加わられた方々の献金もあって、7年で完済することができました。
 振り返ってみれば、確かに神さまが導いてくださった恵みであることは、間違いありません。私たちの計算以上のことが次々と起こりました。しかし、最低ラインの計算は、常にしていたように思います。
 今日の聖書の御(み)言葉にもありました。
「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか」(28節)。
 その通りです。会堂建築は信仰の業(わざ)であると同時に、この世の現実の業でもあります。「十分な費用があるかどうか」、十分とは言えないかもしれないけれど、最低限の計算は、常にしていたように思います。

 ところで、主イエスはこのたとえ話を何に当てはめているかと言えば、人が主イエスの弟子となること、弟子となってその道を最後まで歩み通すことの計算のたとえとして語っておられます。けれども、塔を完成させる計算と、主イエスの弟子として完成する計算とでは、ずいぶん違うのではないか、という気がします。ただ、主イエスがこのたとえで言いたいのは、弟子となって主イエスに従って行く生活、人生をよく考えて覚悟をせよ。中途半端な気持や、途中で玉砕(ぎょくさい)、つまりダメになってもいいや、といった投げやりな、無謀(むぼう)な考えではだめだ、ということです。
 では、どういう計算、どういう覚悟が必要なのか。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」(26節)を捨てる。「自分の命」(26節)を捨てる。「自分の持ち物」(33節)を捨てる。その計算と覚悟です。それが、「自分の十字架を背負ってついて来る」(27節)ということです。
 弟子として主イエスについて行くということは、ユダヤ人社会の中で、主イエスと同じように迫害を受ける、ということでした。また、この福音書を書いたルカの時代も、ローマ帝国による迫害の激しい時代でした。財産を没収されることもあったでしょうし、家族と断絶しなければ家族に迷惑がかかったかも知れません。やむを得ず、家族に裏切られ、売られることもあったでしょう。捕らえられ、尋問され、処刑され、命を奪われることもありました。そのような状況の下では、中途半端な気持、覚悟では、キリスト者として歩み抜くことはできなかったのです。実際、一旦は弟子(クリスチャン)となりながら、その後、信仰を捨てた者が少なくなかったでしょう。そのような時代であったために、これほどの決心と覚悟が求められているのです。

 ところで、昨日、何の気なしにテレビを付けましたら、芸能人のトーク番組が映りました。その番組の中で、ある女性芸能人が付き合っている男性の話になりまして、その相手の男性は、生活の中で大切にしていることの順位があって、1番が仕事、2番が趣味、3番が友だち、そして4番目が、そのお付き合いしている女性芸能人だと言うのです。当然のように出演者たちの中で笑いが起こりまして、視聴者向けの話だったのかも知れませんが、私はその話を聞きながら、申し訳ないけれど、これは結婚はまだまだだなあ、と思いました。結婚するということは、自分の人生の価値観において、結婚する相手が1番になるということだと思うのです。いや、そんなのは理想であって、現実の結婚関係はもっとシビアだよ、と考える人もいるかも知れません。確かにそうかも知れませんが、結婚するということは、やっぱりどこかで、結婚する相手を1番大切にすること、そのために時には仕事を二の次にし、趣味を捨て、友だちとのつきいを断るということだと思うのです。
 では、主イエスの弟子になるとはどういうことでしょう?そうか、主イエスを自分の生活、自分の人生で1番にすることだ。家族よりも、財産よりも、命よりも、1番大切なものにすることだ。主イエスが4番や5番だったりするのでは、主イエスの弟子であるということはあり得ない。そう気づきました。
 そのように気づいて、さて自分を省みるとどうでしょうか?私は、今日の御言葉を読み、黙想して、正直、言葉に詰まる思いです。自分は中途半端な決心と覚悟で、弟子となり、歩み始めてしまったのではないか。中途半端な決心と覚悟で牧師になったのではないだろうか。中途半端に牧師として働き、中途半端に洗礼と信仰生活を勧(つと)めているのではないだろうか。そんなことを考えて、今日の御言葉から、弟子失格、牧師失格を宣告されているような気持になります。この御言葉から、私は何を語ることができるのだろうか、本当にそう思いました。
 私は家族を憎み、捨てているか?否、私は家族と過ごすのが大好きです。妻を頼りにしています。子どもたちを愛しています。家族は宝物です。
 私は財産を捨てているか?否、私は、生活とお金のことを考え、生活費の支出や貯蓄を計算し、どこかでお金にこだわり、頼っています。
 私は命を捨てているか?否、今は平穏な時代だし、私の家族親族にはキリスト教に反対する者がいないから良いけれど、いざ、迫害の時代になったとしたら、捕らえられ、尋問され、拷問され、処刑されるのは嫌だ。もしかしたら、自分は信仰を捨ててしまうのではないか。
 そんな自分がいます。でも、そういうふうに考えるのは人として当然のことではないか、と言われるかも知れません。確かに、そうかも知れません。もちろん、私たちが生きていくためには、家族も財産も命も必要です。そして、自分の弟子としての、クリスチャンとしての自分の思いと生活はうそではないのです。
 けれども、今日の御言葉を前にして、“私はキリストの弟子です。弟子としてついて行きます”と、迷わずにきっぱりと言えるか?どこかに恥ずかしくて言えない自分がいるのです。イエス様に向かって言えない自分がいるのです。

 カトリックの司祭である井上洋治さんという方が言われた言葉を思い出しました。〈人生で一番大切なこと〉は何か?井上さんは『人はなぜ生きるか』という著書の中で、こんなふうに書いておられました。
  私たちは、健康にしろ財産にしろ友情にしろ家庭にしろ、たくさんそういう大切なものを持って、またそういった大切なものにささえられて生きているわけですけれども、いざそういうものを失ってしまったときに、価値のある大切なものを失って色あせてしまったときに、その色あせ挫折(ざせつ)してしまった自分を受け入れることができる心というもの、それが考えてみれば人生で一番大切なことではないかと思ったのです。
そして、そのような心は、ザックリ言えば、神を信じる信仰によって培われていくと書かれていました。つまり、神さまが、イエス・キリストが、最も頼りになるもの、大切なものだということでしょう。
 けれども、目に見える家族が、財産が、命がある時には、どうしてもそれらに頼る心があります。大切にしようとする思いがあります。しかし、いつかやがて、それらを失う時に、主イエスから、“あなたは私の弟子として生きるか?”と問い直される気がします。そのとき、何が大切かということが、迷わずに分かるかも知れません。自分が何に支えられて生きて来たか、はっきりと分かるのかも知れません。
 そんなふうに考えて来ますと、私は“不肖(ふしょう)の弟子”だと思います。“塩気のなくなった塩”です。「役立たず、外に投げ捨てられる」(35節)ような値打ちしかない存在かも知れません。けれども、その私のために、私たちのために、主イエスが生きてくださいました。家族を捨て、財産を捨て、最後には命を捨てて十字架に架かり、私たちの罪と弱さを背負い、赦(ゆる)し、生かしてくださいました。その恵みによって、私たち「弟子ではありえない」者が、弟子であることを辛うじて許され、歩んでいるのです。その恵みに対する感謝と謙遜を忘れないこと、それが私たちが弟子であることの最低条件であり、私たちの「塩気」ではないでしょうか。



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