2013年10月20日信徒証し礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書15章8〜10節
  説教者  山岡 創

「友だちを呼び集めて」

 私たちの教会が属している日本基督(キリスト)教団は、今日から始まる1週間を〈信徒伝道週間〉と定めています。信徒が伝道する、そのことを意識して実践する1週間です。その一環として、坂戸いずみ教会では〈信徒証し礼拝〉を行います。本日は、Sさんに、信仰生活の恵みを証しし、伝えていただきました。
信徒が伝道する。以前にこの教会に研修会の講師として来てくださったN牧師やH牧師が、“羊を生むのは羊飼いではなく羊である”という言葉を言われました。確かにその通りだと思います。ここで羊にたとえられているのは信徒です。羊飼いにたとえられる牧師よりも、ある意味で、信徒の方が伝道する力、新たな羊を生み出す力を持っているのです。そのことを意識し、実践しようというのが今週です。もちろん、信徒が伝道するのは1年に1週間だけで良い、ということではありません。改めて、ここで信徒が伝道するということの意義を考える機会にしよう、ということです。

 伝道するとは、どういうことでしょうか。伝道とは、道を伝える、と書きます。信仰の道、キリストによる救いの道を伝えるのです。けれども、藤木正三牧師という方が、伝道というのは、道を伝えて信仰に導くことではありません。道は、伝えるものではなくて生きるものだからです。‥‥
と、ある本(『灰色の断想』伝道)の中で書いておられました。
 『信徒の友』今月号の特集は〈伝道への模索〉というテーマでしたが、そこにも次のようなことが書かれていました。
 私たちはよく。「私を見ないで神さまを見てください」と言います。牧師も講壇からそう語ります。確かに欠けばかりのじぶんを見てもらっては困るというのは真実ですし、自分の姿を見て福音(ふくいん)の価値を判断されては困るという気持もその通りです。しかし他方、それで信仰の力を本当に発揮できるかと問わなければいけないとも思います。何を語るかも大切ですが、語る私たちがどう生きているか、その方が大切です。‥‥
  ‥‥この信仰を持つ価値があるかどうかを判断するのに、人は、その信仰がどういう人を造り上げているかを見ます。語る内容ではないのです。生き方と結びついていないで立派なことだけ言っても、人々を説得することはできません。‥‥
 まさにその通り、と思います。しかし、同時にこれは大変なことだとも思います。大変だ、できない、と思うから、私たちは“私を見ないで神さまを見てください”という気持になるのです。
 けれども、その後で、このようにも書かれていました。
 とはいえ、決して聖人君子のように、また敬虔(けいけん)を絵に描いたようなクリスチャンになれと言っているのではありません。未熟でもいいから、信じていることに真剣に生きようとする、そんなクリスチャンにならせてくださいと祈ろう、伝道とはまずそこから始まるのだと言いたいのです。‥‥
 その通りです。未熟でも真剣、そういう信仰生活から、聖書の御(み)言葉が分かって来ます。自分の罪と、その罪人(つみびと)である自分を救う神の恵みに気づくようになります。そこから私たちの生きる姿の中に生まれてくるものは何でしょうか。感謝です。謙遜です。愛です。そして喜びです。

 今日の聖書の御言葉〈無くした銀貨のたとえ〉は、先週の礼拝でお話した〈見失った羊のたとえ〉と、ほぼ同じ内容を語っています。大切にしていた10枚の銀貨のうち1枚を無くした女が、懸命に、念入りに捜して、見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて大喜びをする。それと同じように、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(10節)と言うのです。神さまが、失われていた罪人を捜し当てる。言い換えれば、そういう神の恵みに人が気づいて、信じて生きていくようになる。その時、神さまは大喜びして、天使たちまで呼び集めて喜ぶ、と言うのです。
 私は、このたとえの本来の意味とはちょっとズレますが、伝道ということを考えながら、この御言葉を黙想しておりましたら、「見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて」(9節)という御言葉が心に響いて来ました。“そうだ、救いを見つけた、恵みを見つけたという喜びがあるから、その喜びを友だちや近所の人たちに伝えたくなるんだ。それが伝道だ”と思ったのです。
 喜びは、私たちを突き動かします。今、この教会の子どもチャペルでは、地域(泉小学校)の6年生が驚くほど増えています。今年度のはじめは女の子が5名ぐらいでした。その来ている子たちが友だちを誘い、誘われた子どもが、また別の友だちを誘うという形で、夏のキャンプの1ヶ月前ぐらいから次第に増え始めました。女の子が10名以上になり、最近では男の子たちまで来るようになりました。昨日のチャペルクラブには、初めて来た4人も含めて、泉小の6年生だけで21名もいました。対応に戸惑うほどです。教会のトイレの前に掛けてある子どもたちの名札と顔写真がずいぶん増えていますので、後でご覧になってください。
 子どもたちの中で何が起こっているのでしょう?実は、何も特別なことではないのかも知れません。子どもたちはたぶん、教会が楽しいから、別の友だちを誘って連れて来るのです。誘われる方にも興味があって来ることもあるでしょう。そして友だちと一緒に集まって、遊んで、楽しいということもあるでしょう。でも、私はそれだけではないと思います。子どもたちの社会、人間関係にもなかなか厳しいものがあります。しかし、ここに来ると、自分がいじめられない、攻撃されない、受け入れられるということが、何となく肌で分かるからではないでしょうか。そういう安心が教会にはある。そういう空気を教会は持っているのです。そして、長らく教会に来ている子どもたちの中には、それが聖書の教えから、信仰から生まれてくるものだと、もう既に分かっている子が何人かいます。それは、子どもたちにとって“喜び”に違いありません。

 信仰の恵みを生きる。その生きる喜びが伝わる。私たち大人は、救いの恵みを喜んで生きてはいても、子どもたちのように単純にはいかないかもしれません。ストレートに誘えないかも知れません。けれども、私たちが聖書の教えを喜んで生きている。礼拝を喜んで守っている。教会の交わりを楽しんでいる。そういう喜びが私たちの教会にあるなら、信仰の道はきっと、自然に伝わっていくでしょう。未熟でも真剣に!、そこから信仰は生まれ、喜びが生まれて来ます。



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