2013年10月27日大人と子供の礼拝説教
  聖  書  使徒言行録15章1〜11節
  説教者  山岡 創

「恵みによって救われる」

 私たちが生きているこの世界には、多くの国があり、たくさんの民族が生きています。私たちは日本人(この礼拝には外国の方々もいますが)、日本の国に生きています。では、ほかにどんな国の人々を知っていますか?‥‥‥○○人、△△人、□□人‥‥‥。では、聖書の中に出て来る人々、神さまに選ばれた民族と言われる人々、イエス様やペトロさん、パウロさん等も属している人々は何人か知っていますか?そう、ユダヤ人です。ユダヤ人はイスラエルという国をつくって住んでいますね。でも、イスラエルだけでなく、色々な国で生活しています。そして、有名な人が結構たくさんいます。相対性理論(そうたいせいりろん)なんていう難しいことを考え出した科学者のアインシュタイン、指揮者であり、作曲家でもあるバーンスタイン、ETやインディ・ジョーンズ等を生み出した映画監督スピルバーグ、テレビ番組でよくコメンテーターで出て来るデーブ・スペクターといった人たちもユダヤ人です。
 ユダヤ人は、私たち日本人よりもずっと長い歴史を持っています。そして、長い歴史の中で、彼らは、“おれたちは神さまに選ばれた民族だ”という誇りを持って生きて来ました。ユダヤ人の先祖のアブラハムさんが、“あなたを祝福の元にする”と神さまから言われて、選ばれたことが旧約聖書・創世記に書かれています。それ以来、神さまに選ばれたという信仰と誇りを、ユダヤ人は何千年も持ち続けて来ました。そして、神さまから“あなたがたは、この掟を守りなさい”と言われた神さまのルール、律法(りっぽう)というルールを一生懸命守って生きて来たのです。
 でも、その誇りが、差別を生むことがありました。ユダヤ人は、ユダヤ人以外の人々を何と呼ぶでしょう?「異邦人」(3節、他)です。聖書の時代、ユダヤ人は、異邦人をバカにし、差別していました。それは、異邦人が神さまに選ばれておらず、神のルールである律法を守らないからです。そして、そういう差別の意識が、教会の中にも起こって来ました。     
最初にイエスさまを信じて教会を生み出したのはユダヤ人でした。最初、教会にはユダヤ人クリスチャンしかいませんでした。けれども、イエス・キリストによる救いが次第に異邦人にも伝えられるようになりました。イエスさまを信じる異邦人クリスチャンが教会に加わるようになって来ました。そうなってきた時、一部のユダヤ人クリスチャンが、“異邦人クリスチャンも律法を守らないと神さまに救われない”と言い出したのです。律法って、とても大切な神さまの教えです。でも、きちんと守るのは結構大変みたいです。例えば、豚肉を食べてはいけない、とかありますね。他にも細かい決まりがいっぱいあって、ユダヤ人の中にも守れない人が少なからずいました。
その律法の最初の基本が、「割礼(かつれい)」(1節、他)を受けることです。割礼とは何でしょう?先日、イギリス王室で生まれたばかりのジョージ王子が洗礼(せんれい)を受けましたね。私たちの教会でも洗礼式を行いますが、ジョージ王子が受けたのは幼児洗礼と言って、まだ神さまや信仰なんて分からない赤ちゃんが、神さまに愛されているしるしとして受けるものです。
ユダヤ人の割礼も似たようなものです。生まれて間もない赤ちゃんのときに、神さまに選ばれたユダヤ人のしるしとして割礼を受けます。割礼は洗礼と違って、体にそのしるしを刻みます。そういう割礼を、大人になっている異邦人にも受けさせろ、受けなければ救われない、と一部のユダヤ人クリスチャンが言い張りました。パウロさんやバルナバさんらは、異邦人にイエスさまを伝える働きをしていましたが、二人はユダヤ人でしたけれど、この考えにはもちろん反対でした。賛成の人、反対の人、二つに分かれて大激論が起こりました。
そのとき、教会のリーダーであるペトロさんが立ち上がって言いました。“神さまは、割礼を受け、律法を守っているから救うとか、割礼を受けず、律法を守っていないから救わないとか、そんな差別はなさいません。ただイエスさまの恵みを信じることによって救ってくださいます。私たちユダヤ人でさえ完全に守れなかった律法という重い荷物を、異邦人クリスチャンに負わせてはなりません”。このペトロさんの発言で、会議は決まりました。律法を守る行いではなく、イエスさまの恵みを信じることで、ユダヤ人も異邦人も皆、救われるという信仰がはっきりしたのです。

 今の時代に、日本人として生きている私たちも同じです。私たちは、自分の良い行いではなく、イエスさまの恵みによって救われます。私たちが良い行いをしたから、神さまは愛してくださるのではなく、私たちが大切だから、神さまは愛してくださいます。でも、その恵みが分からずに、私たちは生きていることがあります。
 良い子にしていないと、お父さんやお母さんは愛してくれない。良い行いをしないと先生は認めてくれない。そんなふうに考える子どもがいます。だから、愛されるために、認められるために、親や先生の顔色をうかがいます。言うことを聞いて、良い子になろうと努力します。良い行いをして、良い成績や結果を出そうとがんばります。そんな自分を演じるのです。でも、本当に自分の思いで、心からそうしているわけではないので疲れます。心に疲れや不満がたまります。やがていつか爆発します。爆発しなければ絶望します。こんなだめな自分では愛してもらえない、と。
 私は、この気持がちょっと分かります。私は、とてもマイ・ペースな性格なので、良い子でいないと親から愛されないとか、先生から認められないとか、考えたことがありませんでした。ところが、そんな私が、神さまに対しては、良い子になろうと考えたのです。20歳ぐらいの頃、本気で神さまを、イエスさまを信じようと思って、聖書を一生懸命読んで、聖書に書かれている神さまの命令を守り、行おうと努力しました。神さまの言うことを聞いて、善い行いをする人を、神さまは認めてくださる、愛してくださると考えたからです。でも、聖書の教えを一つも残さずに守るのは、とても大変なことです。私はそれができなくて絶望しました。神さまの教えを守れない、こんなダメな私のことを、神さまは愛してくださらない、救ってくださらないと落ち込みました。
 でも、聖書を読んでいて、聖書の話を聞いていたら、そうではないということが分かりました。神さまは、私が律法を守り、行うから、認めてくださるのではない。私が良い子で、善い行いをするから、愛してくださるのではない。私が、神さまに命を与えられた神さまの子どもだから、私の命を、イエス様の命と同じ価値のある、大切なものと見てくださるから、愛してくださるのです。だから、神さまの前では“良い子”を演じなくていい。何もできなくたっていい。自分らしく、そのままでいい。そのままで受け入れられています。愛されています。それが、「主イエスの恵み」(11節)です。教会って、そういうところです



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