2013年11月10日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書15章11〜24節
  説教者  山岡 創

「息子を待つ父のように」

 〈見失った羊のたとえ〉、〈無くした銀貨のたとえ〉、主イエスはこの二つのたとえ話を、15章において、続(つづ)けて語りました。この二つのたとえ話に共通(きょうつう)しているものは、一人の罪人(つみびと)が悔(く)い改(あらた)めれば、神さまは大喜(おおよろこ)びされる、という主旨(しゅし)でした。
 そして、今日、聖書から聞いた〈放蕩息子(ほうとうむすこ)のたとえ〉も、同じ主旨で語られています。一人の罪人が悔い改めれば、神さまは大喜びされる。そんな神さまの心が、悔い改めて帰って来た息子を迎えて大喜びし、祝宴(しゅくえん)を開く父親の姿によってよく表わされています。

 ところで、このたとえ話は、一体だれのことをたとえているのでしょうか? 父親は、言うまでもなく神さまのことです。主イエスが“天の父”とお呼(よ)びになった神さまのことです。では、二人の息子とはだれのことか? 特に、今日の聖書箇所で問題になっている「下の息子」(13節)とはだれのことでしょうか?。
 それは、「徴税人や罪人」(1節)のことです。15章のはじめに、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」(1節)とあります。ところが、それを見て、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(2節)が不平(ふへい)を言いました。“なんでイエスはこんな奴(やつ)らを受け入れるんだ!?”というわけです。彼らはユダヤ教徒(きょうと)として、神の掟(おきて)である律法(りっぽう)をしっかり守り、また教える人々でした。そんな彼らから見れば、神の掟を守らず、罪を犯し、神さまから見捨(みす)てられている徴税人や罪人を認めて、受け入れるのはおかしい! と言うのです。
 けれども、主イエスは、一人の罪人が悔い改めれば、神さまは大喜びされることを三つのたとえ話によって語りました。そして、自分の罪を認(みと)めて、こうして主イエスの話を聞こうと集まって来る徴税人や罪人の姿を、神さまは、悔い改めた罪人として喜んでおられるのだ、と主イエスは言っているのです。だから、〈放蕩息子のたとえ〉の中で語られている「下の息子」とは、直接的(ちょくせつてき)には、徴税人や罪人のことです。
 けれども、それだけでしょうか? そうではないと思うのです。「下の息子」とは、徴税人や罪人だけのことを言っているのではなく、別のだれかのことも指(さ)していると思うのです。それは一体だれのことでしょうか?
 これは私の想像(そうぞう)ですけれども、「下の息子」とは主イエスご自身のことではないか? そう思うのです。このたとえ話は非常にリアル(現実的)です。確信的(かくしんてき)な、強烈(きょうれつ)なインパクト(影響力)を持っています。頭の中でイメージするだけでは、ここまでリアルに、確信的に語れないのではないか。まして、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、神の掟を守る者を神さまは喜ばれ、愛されると主張してやまなかった当時です。そういうユダヤ教の空気の中で、ここまで確信的に、全く違う神の救いを語れるのは、きっと“神さまはこういう方だ!”という強烈な、リアルな経験が、主イエスにあったに違いないと思うのです。そして、そのモデルとなったのが、主イエスの父であるヨセフだったのではないか。
 父と言っても、ヨセフは主イエスの“実(じつ)の父”ではありません。福音書の中で、彼は養父(ようふ)として描(えが)かれています。マタイとルカによる福音書のはじめに主イエスの誕生物語(たんじょうものがたり)が記されていますが、両者とも、主イエスは聖霊(せいれい)によって、つまり神の不思議(ふしぎ)な力で、マリアが身ごもったと伝えています。イエスは神の子であって、普通(ふつう)に生まれた人間の子、ヨセフの子ではないというわけです。その神秘(しんぴ)が、夢を通し、天使を通して、ヨセフにもマリアにも告(つ)げられます。しかし、少なくともヨセフは、自分の知らないうちにマリアが身ごもっていたということにショックを受け、苦悩(くのう)していました。離婚(りこん)することも考えました。神さまからのお告げがあったとは言え、ヨセフは100%納得(なっとく)し、すっきりしたわけではなかったと思うのです。そんなに単純(たんじゅん)な問題ではありません。それでも、ヨセフはマリアを受け入れ、イエスを我が子として受け入れます。そして当時、ヘロデ王が、自分を脅(おびや)かす新しい王の出現(しゅつげん)を恐(おそ)れて、ベツレヘム近辺(きんぺん)の2歳以下の男の子をことごとく虐殺(ぎゃくさつ)した時、ヨセフは命がけでイエスを守り、ユダヤを脱出(だっしゅつ)してエジプトに逃げたのです。それが、福音書が描くヨセフという人物です(マタイ1〜2章)。
 福音書が描いているヨセフの姿はこれだけで、彼が、放蕩して帰って来た主イエスを喜んで受け入れたという記事があるわけではありません。だから、私の想像なのですが、主イエスは若い頃、家を飛び出したことがあったのではないか。自分がヨセフの実の子ではないことを知っていたかも知れない。村の人々も薄々(うすうす)知っていたかも知れない。若い、多感(たかん)な年ごろです。居たたまれなくなって家を飛び出し、村を飛び出しても不思議ではない。そして、洗礼者ヨハネの宣教活動(せんきょうかつどう)、洗礼運動(せんれいうんどう)に身を投(とう)じ、荒野(こうや)にあるヨハネの教団で共同生活をしたかも知れません。しかし、厳(きび)しい掟に疑問を感じたこともあったかも知れない。やがてヨハネの教えに違和感(いわかん)を感じるようになって、そこも飛び出し、自分の存在意義(そんざいいぎ)が分からず、居場所(いばしょ)もなく、迷いながら放浪(ほうろう)し、空腹(くうふく)を抱(かか)え、みすぼらしい姿で、遂(つい)には家に帰って来たのではないでしょうか。それこそ、「下の息子」のように、勝手に家を飛び出したことを悔(く)いながら、「雇い人の一人」(19節)にしてもらおうと帰って来たのかも知れません。ところが、意(い)に反してヨセフが自分のことを暖(あたた)かく迎え入れてくれた。帰って来たことを大喜(おおよろこ)びしてくれた。実際(じっさい)ヨセフは、とぼとぼと歩いている主イエスを見つけて、家を飛び出し、走り寄って、抱(だ)きしめてくれたのかも知れません。そんな強烈(きょうれつ)な体験が主イエスにはあったのではなかろうか。それが、このたとえ話の元になっているのではなかろうか。もしそうだとすれば、これは“主イエスご自身の物語”でもあります。だからこそ、ここまで強烈に語れるのではないかと私は想像してしまうのです。

 けれども、このたとえ話はここまででしょうか? 「下の息子」の正体(しょうたい)は主イエスご自身のことだった、で終わりでしょうか? そうではりません。私たち一人ひとりが、主イエスの物語を“私の物語”にしてこそ、このたとえ話によって表わされている主イエスご自身の感動(かんどう)が、主イエスの心が、私たちの心の内に届(とど)いて来ます。「下の息子」とは、私たちのことなのです。
 私たちにとって、父なる神さまからいただいた「財産」(12節)とは何でしょうか?色んなことが考えられますが、大きく言えば、私たちの命そのもの、私たちの人生そのものが、一人ひとりに授(さず)けられた神の財産だと言って良いでしょう。けれども、下の息子が、「全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして」(13節)とあるように、つまり自分の考えだけで、自分のしたいように生きているときは、授けられた財産だということに気づかない。私たちは現実に、こんな放蕩はしないかも知れませんが、神さまと出会わなければ、言い換えれば自分の命と出会わなければ、自分中心の思いだけで、自分のしたいように生きているのです。そういう生き方を、主イエスは、「財産を無駄使いしてしまった」(13節)と、“命の無駄使い”だと見ているのです。
そして、そういう生き方の問題に気づかされるのは、「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた」(14節)とあるように、そういう生き方に何らかの形で失敗(しっぱい)し、挫折(ざせつ)し、困難(こんなん)を抱えて行き詰まったときです。しかも、下の息子はどん底まで落ちています。彼は、「豚の世話」(15節)をすることになったとあります。ユダヤ人にとって、豚は、律法の掟で汚(けが)れた動物とされています。だから、豚に触(ふ)れること、食べることを彼らは禁じられています。けれども、その禁止を破り、汚れの屈辱(くつじょく)に甘(あま)んじなければ、彼は生きることができなかった。しかし、そこまでしても彼は食べることができなかった。もはやそのままでは生きることができなくなった。自分の知恵(ちえ)や力では、もはやこの行き詰(ず)まりを打開(だかい)することができなくなったのです。そこに至(いた)ってはじめて、自分は何者(なにもの)なのか?ということが問われるのです。
私たち人間は“自分の存在意義(そんざいいぎ)”というものに支えられて生きています。自分は何者なのか? そして自分の人生に意味はあるのか? 価値(かち)はあるのか?という問題です。自分が会社の一員であったり、学校の一員であったり、家族の一員であったりなど、自分が何者かであり、そうであることに意味があり、役(やく)に立ち、価値があると思えるから、私たちは、自分を良(よ)しと肯定(こうてい)して生きていられるのです。
けれども、普段は自分の存在意義なんて意識(いしき)しません。自分の思いで、したいように生きているときは、そしてその生き方が特に大きな失敗や挫折(ざせつ)もなく、うまく行っているときは、人生の意味とか、自分の価値とか考えもしないのです。
しかし、会社をリストラされたり、不登校(ふとうこう)になったり、家族関係にトラブルが起こったり、人間関係に失敗したり、仕事がうまくいかなかったり、受験(じゅけん)に失敗したり、病気になったり歳(とし)をとって今までできたことができなくなったり、何もできずにブラブラ過ごしていたり、そんなことがあると、私たちは、自分は何者なのか、自分の人生に意味はあるのか、自分は生きていていいのか、そんなことを考えさせられ、悩(なや)むのです。
そこで、自分の努力で何とかなったなら、この悩みは忘れ去られます(命の根本的な存在意義にはとどいていませんが‥)。しかし、問題は自分の力でどうにもならない時です。私たちは、自分の力で、自分の存在意義をつくり出して、それによって自分を認めて生きているところがあります。しかし、自分の知恵や力でどうにもならないことに出会ったとき、どうするか? 生き方を変えない限り、待っているのは絶望(ぜつぼう)と不安、自分はだめだという自己否定(じこひてい)です。
けれども、それを味わうとき、「もう息子と呼ばれる資格はありません」(19節)と自分を否定する「下の息子」の気持が分かります。そして、自分を否定する時、言い換えれば、自分の力で生きて来た生き方が打ち壊(こわ)されるとき、このたとえ話において、父親が下の息子にかける大きな憐(あわ)れみの有難(ありがた)さが、ジーンと胸に通る可能性が出て来ます。待っているものが自己否定の絶望と不安ではなく、神さまに認められているという平安と希望、そこから生まれる自己肯定(じここうてい)に変わるチャンスがあるのです。
自分の力ではどうにもならない。このままでは生きられない。それが、「まだ遠く離れていたのに」(20節)という距離感(きょりかん)です。これは、自分の力ではもはやその遠い距離を埋(う)められないということを、自分の存在意義の空白を、溝(みぞ)を埋(う)められないということを表しています。
けれども、その埋められない遠い距離を、父親自らが埋めてくれる。自分ではつくり出せない存在意義を、神さまが新しく与えてくださるのです。私は、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)という御言葉を思うたびに、涙が出そうになります。普通だったら、だれがこんな放蕩息子を受け入れて、大喜びなどしてくれるでしょうか。“それでも”この放蕩息子である自分には、生きる意味がある、価値があるということに、それを教えてくださった神さまの途方もない憐れみに感動するのです。私自身、放蕩息子だったからです。
 “あなたは、わたし(神)の愛する息子(娘)である”。そこに、私たちの新しい存在意義があります。否(いな)、元々、最初からあったのです。私たちが気づかなかっただけです。命という神の財産を与えられた時から、私たちは、自分の知恵と力で自分の値打(ねう)ちをつくり出さなければ生きている意味のない存在なのではなく、神に愛されている者として、無条件に、生きる意味と価値を持つ存在なのです。
その人生の恵みに気づくとき、私たちは「死んでいたのに生き返り」(24節)ます。自分の人生が、神の「祝宴」(24節)の場所になります。このたとえ話が“自分の物語”になります。



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