2013年12月8日 待降節第2主日・礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書1章39〜56節
  説教者  山岡 創

「神は目を留めてくださる」

 
 昨日、里帰りしたKさんが、教会を訪ねてくださいました。7カ月になったCちゃんを連れて、です。私たち夫婦だけでなく、午前中、劇の練習をした子どもたちが5人ほど、午後から遊びに来ていましたので、一緒に遭って、しばらくの間、Cちゃんをあやしていました。一人もう既に“おじさん”になっている(お姉さんに子どもがいる)6年生がいて、さすが抱っこの仕方、あやし方がうまいんですねえ。
 Cちゃんも、“だれだろう?”という顔でみんなを見まわしながら、あやされると、よく笑っていました。笑うだけではなく、足を突っ張ってジャンプするかのように踊っていました。お腹の中にいるときから蹴りが強かったとKさんから聞いていました。たぶんお腹の中でも、足で蹴って、よく踊っていたのでしょう。
「マリアの挨拶(あいさつ)をエリサベトが聞いたとき、その胎内(たいない)の子がおどった」(41節)。
 今日の聖書の御(み)言葉に、そのように書かれています。子どもが胎内でおどる。足で蹴る。母親は“あっ、今動いた”と喜びを感じる瞬間でありましょう。こればかりは、男性が体験することのできない女性だけの喜びです。
 しかし、もしかしたら逆に、母親の喜びが胎内の赤ちゃんに伝わり、赤ちゃんがおどるということもあるかも知れません。“胎教”という言葉がありますけれども、それは何かをするということ以上に、母親が平安に、喜びを感じながら妊娠(にんしん)の時期を過ごしていることが大事なのではないかと思います。
 エリサベトはこのとき、大きな喜びを感じていたことでしょう。その大きな喜びが,お腹の中の赤ちゃんにも伝わる。これ以上の胎教はありません。それで、彼女は「胎内の子は喜んでおどりました」(44節)と言ったのでしょう。
そして、どうして彼女が喜び、胎内の子が喜んでおどったのかと言えば、それは、マリアがエリサベトを訪ね、会いに来てくれたからです。


「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(39節)。
 マリアはエリサベトを訪ねるために出かけました。それは、直前の箇所に書かれているとおり、「あなたの親類エリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのにもう六カ月になっている」(36節)と天使から告げられたことがきっかけでした。
 マリアはガリラヤのナザレの出身です。一方、エリサベトは、エルサレム神殿の祭司を務めていたザカリアの妻ですから、エルサレム郊外のユダの町に住んでいたようです。だから、ナザレからユダの町までは相当な距離があります。地図で見ると100キロぐらいあります。もちろん交通機関などない時代です。もしもマリアが一人で旅をしたのだとしたら、相当ハードな旅であったと想像されます。
 それでも、マリアはどうしてもエリサベトに会いたいと思ったのでしょう。それは、エリサベトと喜びを分かち合いたかったからだと思います。神の恵みによって赤ちゃんを与えられた者同士、その喜びを分かち合いたかったからだと思います。
 それだけではなく、マリアは不安をも分かち合いたかったのではないでしょうか。当時のユダヤ人としては成人しているとは言え、まだ13、14歳の少女が、天使によって、いきなり妊娠を告げられたのです。しかも、ごく普通の、平凡な妊娠ではなく、イスラエルを救う神の子を、人間の営みによってではなく、神の力、聖霊(せいれい)の力によって身ごもる、と言うのですから、不安を感じて当たり前なのです。もちろん、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)と応えています。けれども、それは全く不安のない信仰と確信をもって応えているのだとは思えません。もし100%不安のない信仰があるとしたら、それはもはや私たち“人間”の信仰ではありません。不安を抱えている。でも、その不安の中で神を信じる。だから、信仰は慰(なぐさ)めになるのです。力になるのです。喜びになるのです。
 マリアは、不安の中で信仰によって与えられた喜びを分かち合うために、エリサベトを訪ねました。マリアの訪問は、エリサベトを励まし、彼女を聖霊とその喜びに満たしました。一方、マリアもまた、エリサベトの祝福の言葉によって励まされ、喜びを増し加えられました。
 この二人の交わりを想像すると、聖書の中の二つの御(み)言葉を思い起こします。一つは、ローマの信徒への手紙12章15節です。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。
もう一つは、同じくローマの信徒への手紙1章12節です。
「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」。
 マリアとエリサベトは、信仰の喜びを分かち合い、不安を分かち合い、お互いの信仰によって励まし合ったのです。そして、そこに“賛美”が生まれました。神さまをほめたたえる歌が生まれました。それが〈マリアの賛歌〉です。
 信仰とはなんでしょうか?もちろん、神さまを信じることです。つまり、神さまとの関係です。神さまから御言葉と恵みをいただき、私たちは御言葉を聞いて信じ、神さまに感謝し、喜びたたえる。そういう関係です。
 では、信仰は“神さまと私”という縦の関係だけで成り立つものでしょうか?そうではないのです。そこに、信仰を同じくする仲間、友が必要です。
 私たちは弱く、不安を抱えた人間です。信仰がグラグラと動揺(どうよう)することがある。疑うことも、迷うこともある。信じられなくなって、信仰から、教会から離れそうになることがあるのです。一人で信仰を保つことは容易ではないのです。
 そんなとき、支えてくれるのが信仰の友です。お互いに不安を分かち合い、迷いを分かち合い、弱さを分かち合って、祈り合う。そのような交わりによって、私たちの信仰はお互いに励まされ、支えられ、強められます。その交わりによって、私たちは信仰の喜びを与えられるのです。
 だから、私たちは教会に集まります。礼拝を共にします。集会に集まります。また、個人的な信仰の交わりをします。そのようにして、お互いに励まされ、慰められ、支えられ、強められます。そして、そのような交わりから、喜び歌う賛美が生み出されるのです。


 歌というのは不思議なものですね。最近、小学6年生が増えて、たくさん来ていることは、以前にもお話しました。その子たちが、学校にいる時も讃美歌を鼻歌で歌っているというのです。“主をほめたたえよ”(讃美歌21・21)とか、“ホザナ!”(ゴスペル)と口ずさんでいる、と三女から聞きました。ホザナを、数名で手拍子を入れながら歌ったこともあるというのです。家族もクリスチャンではなく、今まで教会に来たこともなかったような子が、わずか1カ月や2か月で、そんなふうに讃美歌を口ずさんでいるのです。思わず、微笑(ほほえ)ましくなりました。
 昔、銭湯(せんとう)風呂で、いつも讃美歌を歌っている人がいた。それを隣で聞いていた人が教会に行くようになって、やがて洗礼(せんれい)を受けた。そんな話を聞いたことがあります。讃美歌にはそういう力があります。皆さんの中にも、教会に行きたいと思ったきっかけ、行き続けたきっかけは讃美歌だった、という方も少なからずいらっしゃるでしょう。
 歌とはそういうものだと思いますが、讃美歌もまた、私たちを楽しくさせ、喜びを与えます。もっと言えば、感動で心を一杯にし、涙を流させるような力があります。それは、その讃美歌をつくった人の気持が、喜びが、感動が、涙が、私たちにも伝わるからだと思います。
 マリアもエリサベトとの交わりによって、不安が喜びに変えられ、神の恵みに感動し、喜びに震える気持で、この賛歌を歌ったに違いありません。
 もう多くを語る時間はありませんけれども、マリアの喜びが、感動が最も現れていると思われる言葉をお話したいと思います。それは、
「身分の低い、この主のはしためにも目を留(と)めてくださったからです」(48節)
と歌うマリアの言葉です。
 この世の価値観からすれば、だれからも認められず、だれからも目を留めてもらえないような者が、神さまに目を留めていただいた感動、認められた喜び、それがこの言葉に現れています。
 ところで、「身分の低い」とはどういう意味でしょう?普通に受け取れば、社会的に身分が低い、家柄が低いことだと考えます。それも間違いではありません。けれども、ドイツの宗教改革者であったマルチン・ルターは、これを“無に等しい者”と訳したそうです。
 「無に等しい者」、私たちは自分のことを、そんなふうに感じることがあると思います。大きな失敗をした時、人に大きな迷惑をかけたり、深く傷つけた時、挫折(ざせつ)をした時、何もできず、行き詰まり、自分の無力さを感じた時、私たちは自分のことを“なんてダメな奴だ”と落ち込みます。この世の価値観からすれば、とてもそんな自分を認めることはできない。
 けれども、そんな自分に、神さまが目を留めてくださいます。神のまなざしが注がれます。“あなたはだめではないよ。生きることができるよ。わたしがあなたを認めているから”。そんな神さまの目を、神さまの価値観を、神さまの言葉を受け止めて信じるところに喜びが生まれ、歌が生まれます。
 だから、マリアは「わたしの魂は主をあがめ」(47節)と歌います。あがめる、という言葉の元来の意味は、主なる神さまを“大きくする”ということです。大きなお方としてたたえることです。と言うことは、逆に言えば、神さまの前に自分自身を“小さくする”ということでもあります。私たちは、〈主の祈り〉の最初に、“御名があがめられますように”と祈りますが、その心はこれです。神さまを大きく、自分は小さく、という心です。
 自分は無に等しい者と感じるほどに小さい。けれども、その小さな自分を救ってくださる神さまは、神の恵みは大きい。改めてこの信仰と喜びを胸にして、クリスマスへ向かって歩んでいきましょう。



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