2013年12月15日 待降節第3主日・礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書2章1〜7節
  説教者  山岡 創

「神さまが泊まる場所」

 11月末の月曜日に、NくんとWくんと一緒に、川越観光に出かけました。定番の蔵造りの街並みと時の鐘を見、菓子屋横丁で買い物をしました。お昼はNくんお勧めのラーメン屋で、今までに食べたことのないような細麺の博多ラーメンをいただきました。Nくんも私も川越育ちなので、“川越の案内をしてほしい”という方がおられましたら、どうぞお声かけください。
 その観光の中で、聖公会の川越キリスト教会に立ち寄りました。レンガ造りの外壁に蔦(つた)の絡(から)んだ趣(おもむき)のある教会で、国の文化財、また川越市の景観重要文化財にも指定されている名所の一つです。実は私は、この教会に付属する初雁幼稚園の卒園生です。それで、この教会で礼拝を守り、クリスマス会を行った記憶が残っています。昨年、青年で川越観光をした際にも感じたことですが、礼拝堂が狭く感じました。子どもの頃は、ものすごく広く感じたのですが、大人になって入ってみて、“あぁ、これぐらいの広さだったんだ”と感慨深く思いました。
正面にかなり高い祭壇があります。幼稚園生だった時、この壇の上で、クリスマスの聖誕劇を演じました。私は何の役を演じたかと言えば、宿屋さんでした。宿屋が3人いて、代わる代わるヨセフとマリアに、“もうここには泊まる場所はないよ”といった台詞(せりふ)を言うのです。宿屋の衣装を着て、椅子に腰かけ、腿の間に手を挟んで、恥ずかしそうに演じている写真が1枚残っています。たぶん自分の台詞を間違わずに言うことで精一杯だったのだろうと思います。

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(7節)。
 ルカによる福音書は、そう記(しる)しています。2千年前のベツレヘムの宿屋の主人たちは、ヨセフとマリアに、どんな気持で“もう泊まる場所はない”と言ったのでしょうか。身重(みおも)のマリアを見て、いくらか不憫(ふびん)に思ったのでしょうか。けれども、そう感じたとしても、それは一瞬で、住民登録の旅行者たちでごった返し、猫の手も借りたいような忙しさの中で、宿屋の主人たちは、ヨセフとマリアのことなど、すぐに忘れてしまったでしょう。
 そうです、「救い主」(11節)と記されるイエス・キリストは、誰からも顧(かえり)みられず、目を留められず、人々から忘れ去られたような存在として、ひっそりとお生まれになったのです。
「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(6〜7節)
飼い葉桶というのは、家畜が食べる草を入れる桶です。だから、イエス・キリストは家畜小屋でお生まれになったと推測されます。私たちが想像するような、家の脇に隣接している厩(うまや)のようなところでは、たぶんありません。郊外にある丘に穿(うが)たれた洞窟、そういう洞窟をユダヤ人は家畜小屋にしていたようですが、そこでお生まれになったと考えられます。泊まる宿もなく、どうすればいいのかと途方に暮れていたヨセフとマリアは、当てもなく町外れまでやって来た。もしかしたら陣痛が始まっていたかも知れません。初めての出産で、何の経験もない二人は、手助けしてくれる産婆も知り合いもなく、どんなに不安だったでしょう。そんなとき、目に映ったのが、洞窟の家畜小屋だったのではないでしょうか。そして、もうあそこしかない!と、ヨセフは必死の思いで、マリアを連れて洞窟に駆け込んだのでしょう。そんな不安と慌ただしさの中で、だれからも顧みられず、救い主イエス・キリストは、この世にお生まれになったのです。
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。
 今まで何回となくこの聖書箇所を読み、黙想して来たわけですが、今回、この聖書箇所を黙想しながら、初めてハッと気づいたことがありました。それは、主イエス・キリストには「場所」があった、ということです。何を言うのか、場所はなかったと書いてあるではないか、と思われるかも知れません。確かに、「彼らの泊まる場所」はありませんでした。けれども、救い主が生まれる「場所」がなかったわけではない。生まれる「場所」はあったのです。それが、「飼い葉桶」の中でした。おそらく家畜小屋でした。そこは、世間から忘れ去られた、人々の目に顧みられないような「場所」でした。ヨセフとマリアの気持で言えば、行き詰まり、不安を抱えた「場所」でした。
 そういう「場所」に、主イエス・キリストはお生まれになったのです。そこは、救い主が生まれるべくして生まれた「場所」、父なる神の御(み)心に適った「場所」であったと言うことができると思います。そのような場所に、神さまは救いを届けてくださるのです。
 この聖書箇所の背景となっている「住民登録」(2節)、その登録の勅令(ちょくれい)を出したのは、「皇帝アウグストゥス」(1節)でした。彼の皇帝在位期間中、ローマ帝国では長きに渡って平和が保たれ、皇帝アウグストゥスは“救い主”と讃(たた)えられました。“神”として崇(あが)められることさえありました。
 けれども、皇帝アウグストゥスがもたらしたものは、本当の意味で“平和”であり、“救い”だったのでしょうか。聖書は、そのように見ていません。権力と武力で抑え、支配している住民から過酷な税金を巻き上げるような政治の世界に、神さまはご自分の独り子であり、救い主であるイエス・キリストを生まれさせませんでした。そこには、本当の救いは生まれないからです。
 そうではなく、そのようなこの世の力の世界とは正反対の、人々からは見捨てられたような、行き詰まりと不安を抱えているような、そんな低い「場所」に、救い主イエス・キリストは来てくださいました。生まれてくださいました。それは、そういう場所で生きる人々に、救いをもたらすためでした。そしてそれが、父なる神の御心だと言ってよいでしょう。

 この世の力や栄華とはかけ離れた、低い場所にお生まれになったイエス・キリストは、そこで生きる人々に、生きる「場所」、救いの「場所」を与えてくださいます。
私は、この聖書箇所を黙想するたびに思うのですが、私たち人間が生きていく上で、「場所」の有無は最も重要な問題です。その「場所」がなかったら、私たちは生きることができない。極端に言えば、死ぬ以外にないぐらい、重要な問題だと思います。私たちにとって、安心して、平和に生きられる「場所」があるということ、それはまさに“救い”なのです。その場所とは、ただ単に空間的な場所があれば良い、ということではありません。ここで言う「場所」というのは、関係のこと、つながりのことです。たとえお城に生まれても、そこでの人間関係が競争と争いであるならば、そこは平和な場所ではありません。家畜小屋に生まれたとしても、そこに愛し愛され、認め合う人間関係があるならば、そこは平和と救いの「場所」なのです。そして、私たちにとって、最も平和な、救いの「場所」は、神さまと関係の中にあります。イエス・キリストとの関係の中にあります。キリストに愛され、神さまに、掛け替えのない大切な存在と認められている。その信頼関係、すなわち信仰のあるところに、私たちの平安と救いの「場所」があります。逆に言えば、そのように神さまを信じる私たちの心の内を「場所」として、イエス・キリストが生まれてくださる、宿ってくださる。それが信仰だということです。
 『こころの友』12月号に、Iさんというクリスチャンが紹介されていました。この方は、エステティシャンをなさっています。小学生のころ、誘われて教会に行くようになり、高校生で洗礼を受けました。けれども、その後、結婚した男性が大の教会嫌いで、その夫に気兼ねして教会から離れてしまった。しかし、後に夫婦間の問題が起こったときに、心の支えだった教会に戻ろう、神さまのもとに帰らなくては、私の本当の幸せはない、と気付かされたと言います。
 そんなIさんは、エステをしながら、お客さんに、“私、クリスチャンなんよ”と話しかけ、自分の信仰体験を証しするエステ伝道をしているということです。そうすると、お客さんの女性たちも、自分のことを色々話し始めるそうです。
  たいていの人は何か心に抱えているものがあるということが分かります。でも塗り固めたメイクではそうしたものを取り除くことはできないんです。心が潤(うるお)わなければ満たされない。エステでちょっと顔色や肌の状態がよくなったりはするものの、最終的には『神さまがあなたを愛していて、いつも一緒にいてくださるんだよ』ということを伝えたいと思っています。満たされた心がその人の本当の美しさを引き出すんですから。
 そんなふうにIさんは語っています。Iさん自身が、イエス・キリストとの関係の中に、神さまの愛の中に、自分の救いの「場所」を見出しています。そして、そういう“心の置き場所”があることを伝えようとなさっています。

 皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録のさ中で起こった救い主イエス・キリストの誕生。それで、ふと思ったのですが、ローマ皇帝は、支配している人民から人頭税を絞り取るために、この住民登録をさせたと言われています。けれども、お生まれになる救い主イエス・キリストは、神の国に、天国に住民登録をしなさいと、人々を、私たちを招くために生まれてくださったのではないかと思ったのです。平和を与えるため、救いの喜びを与えるために、天に登録せよ、と招いてくださっているのです。
 来週のクリスマス礼拝で、高校1年生のNくん(先のNくんとは別人)が洗礼を受けます。それは、神の国に住民登録することだと言っても良いでしょう。神さまに愛される神の子として、神さまとの関係の中で、教会のつながりの中で生きる登録をする、ということです。教会の中に、天国に、確かな自分の「場所」ができる。平和と救いの「場所」ができる、ということです。
 今年のクリスマスも、私たちの心を「飼い葉桶」として、救い主イエス・キリストをお迎えしましょう。そして、自分にとって、救いと平和の「場所」がどこにあるのか、改めて確認させていただきましょう。




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