2013年12月22日 待降節第4主日・礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書2章8~20節
  説教者  山岡 創

「神を賛美するクリスマス」

 「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御(み)心に適う人にあれ」(14節)。
 このように天使の大群が夜空で賛美する光景はいったいどんなものだったのでしょうか。きっと焚火(たきび)以外に光もなく、真っ暗で、しかも開(ひら)けた野原での光景ですから、夜空の星が鮮やかに、たくさん見えていたことでしょう。その星の数よりも多く、そして星の光よりも強く、天使たちが輝いて夜空を埋め尽くしたのだとすれば、それは人の想像を絶する光景、まさに神の栄光を表わす光景であったに違いありません。
 けれども、羊飼いたちは、想像を絶する、言葉では言い表せないようなその光景に、“救いのしるし”を見つけたのではありませんでした。そうではなくて、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(12節)の姿に、救いのしるしを見つけたのです。   
救いとはどこで見つけるものでしょうか?それは、普段はあり得ないような、私たちの想像を超えるような、何か奇跡的な、すばらしい出来事の中に見つけるものではありません。そうではなくて、毎日の生活の中で目にする、ごく日常的な光景、出来事の中に見つけるもの。それが、今日の聖書の御(み)言葉から教えられた1つ目のことです。

 では、羊飼いたちは、なぜ、日常的な、当たり前の出来事の中に、救いのしるしを見つけることができたのでしょうか?生まれたばかりの赤ちゃんが、飼い葉桶の中に寝かされているというのは変わっています。しかしそれは、直前の聖書箇所に書かれているとおり、住民登録のためにベツレヘムにやって来たヨセフとマリアが、同じようにやって来た多くの旅行者たちのため、泊まる宿がなく、マリアの陣痛が始まったために、仕方なく家畜小屋に入り、そこで出産をしたからなのです。天使の大群と賛美のように、あり得ない出来事、理解できない出来事、想像を絶する出来事ではありません。
 では、なぜ、そのような生活レベルでの出来事の中に、神の救いのしるしを見つけることが出来たのでしょうか?
 それは、天使から、そのように告げられたからです。天使を通して、神さまのお告げがあったからです。つまり、神の言葉を聞いたからです。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(11〜12節)。
 このように、神のお告げ、神の言葉を聞いたからです。そこで、本当にそのとおりだろうか、と探しに行ったところ、果たしてその言葉どおり、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を見つけたのです。だから羊飼いたちは、ここに神の救いがあると信じたのです。つまり、羊飼いたちは、「見聞きしたことがすべて天使の話した通りだった」(20節)という体験をしたのです。神の言葉がそのとおりに実現するという出来事を、生活の中で味わったのです。だから、そこに救いがあると信じたのです。
 神の言葉を聞き、その言葉どおりの恵みが、自分の生活の中で起こる時、私たちは、そこに救いがある、救いの出来事が起こったと確信することができます。これが、今日の御言葉から教えられた2つ目のことです。

 けれども、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」を、ただ見つけただけでは、羊飼いたちにとって、救いでも何でもなかったと思います。“確かに、言われたとおりだね。でも、それが私と何の関わりがあるの?何の意味があるの?”という話だと思います。だから、救いを見つけるということは、ただ単に「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」を見つけるということではありません。その光景、その出来事が、自分にとってどんな意味があるのか、どんな救いになるのか、それを見つけることです。
 羊飼いたちは、その出来事の中に、天使たちが「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌った“神の御心”を見つけたのだと思います。それは、神が自分たちを愛している、という神の思いです。
 当時のユダヤ社会において、羊飼いというのは、身分が低く、どちらかと言えば蔑(さげす)まれる仕事でした。奴らは神の掟を守らないから、神さまから見放され、神の国に入ることができないと、ユダヤ人の主流派からは見られていました。だから羊飼い自身も、自分たちはそういう人間だ、そういう存在だと認識していたことでしょう。
 ところが、「救い主」と言われる赤ちゃんが、家畜小屋の飼い葉桶の中に生まれた。王家ではなく、祭司の家でもなく、律法学者やファリサイ派といったユダヤ人の上流階級でもなく、身分が低く、疎(うと)んじられ、世間から目も留められないような自分たち羊飼いのすぐそばに生まれてくださった。これは、神さまが自分たち、低く、小さく、弱い者に目を留め、愛してくださるという恵み以外の何であろう。彼らはそのように受け止めたのです。それによって、彼らは心の「平和」すなわち平安を得ました。神さまから見放され、疎んじられ、裁かれるという不安ではなく、神さまに愛されているという平安を得たのです。
 日常の出来事の中で、神の言葉のとおりに、“自分は愛されている”という神の御心を見つけ、魂の平和を得る。それが“救い”です。私たちの日々の生活は、決して楽なこと、楽しいこと、嬉しいことばかりではありません。しかし、困難や行き詰まり、悩み悲しみの中で、それでも、“自分は神さまに愛されている”という恵みを、神の言葉を聞き、味わうことによって見つける。それが救いです。
 そして、上辺(うわべ)ではない本当の救いを見つけるとき、そこに神を崇(あが)め、感謝する賛美の歌声が生まれます。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神を崇め、賛美しながら帰って行った」(20節)と書かれている賛美が、私たちの人生、私たちの生活の中にも生まれて来るのです。

 先週17日(火)に、教会員であるAさんが、肺炎のため天に召されました。86歳のご生涯でした。20日(金)に、ご遺族のお考えなど諸事情があって、教会ではなく坂戸法要殿というところで葬儀告別式を行いました。
 坂戸いずみ教会では、皆さんに、〈わたしの葬儀の希望〉という書面を書いて、私の方まで提出するように勧めています。遺書というほど大げさなものではありません。ただクリスチャンとして人生の最期を迎えた時、葬儀はどんなやり方でするか、会場はどこにするか、式の中で歌ってほしい讃美歌、読んでほしい聖書の御言葉はあるか、飾ってほしいお花はあるか、そんなことを書いていただいています。それを、教会とご家族の双方で持つことにしています。ご家族親類がクリスチャンでなければ、葬儀はともすれば教会で、キリスト教式でできず、仏式になります。そういう意味で、とても大切なことです。
 Aさんも生前、〈わたしの葬儀の希望〉を出してくださっていました。その中で、讃美歌は21・390番、402番、405番を歌ってほしいと書かれていました。これらは葬儀の歌ではなく、特に、402番〈いともとうとき〉、405番〈すべての人にのべつたえよ〉は、いずれも神の救いを宣べ伝える讃美歌です。
 Aさんは晩年、ようやく神さまのことが分かって来たと嬉しそうにお話してくださいました。“神さまは、人を裁き、罰する恐ろしい神ではなく、人を赦し、愛する神さまだと分かるようになりました”と言われました。そして、自宅療養をされている時も、“自分の病気の数を数えるよりも、こんなに罪深い自分でも神さまに愛されていると思うと、嬉しくなってきて、平安のうちに休むことができる”とお話してくださいました。また、入院生活をされている時も、よく神さまの夢を見ると言われました。神さまの“手”が出て来て、その手で包まれる夢、神さまが頭の上から愛をすっぽりとかぶせてくださる夢、そんな夢を見るとお話してくださいました。
 Aさんは、日々の生活の中で、たとえ病の中に伏している時でも、神の言葉によって救いを見つけていたのです。だから、その喜び、感謝が賛美の歌となった。神さまの救いを宣べ伝える賛美を、自分の葬儀で歌ってください、との思いになったのだと思います。
 私たちの賛美は、天使の賛美に比べれば、ちっぽけな、取るに足りないものかも知れません。けれども、賛美は決して上手さや、見た目の壮大さではありません。自分の人生の中に、神の救いを見つけた!その喜び、その感謝が、歌となって現れるのです。私たちも神の救いを見つけ、ちっぽけでも本物の賛美を歌いながら人生を歩んでいきたいと願います。



   ウィンドウを閉じる