2013年12月29日 大人と子供の礼拝説教
  聖  書  ヨハネによる福音書1章18〜19節
  説教者  山岡 創

「神を見た者」

 クリスマスのシーズンが終わりました。と言っても、本当は1月6日までクリスマス・シーズンです。ヨーロッパやアメリカではそうで、年末年始をクリスマス休暇として過ごします。でも、日本ではお正月に備える、という雰囲気になりますね。
 今年のクリスマスは、たくさんの人と祝うことができました。先週のクリスマス礼拝は76名が出席しました。今まででいちばん大人数の礼拝だったかも知れません。お昼の愛餐会(あいさんかい)もご馳走がいっぱいで、夜のキャロリングまで楽しく過ごしました。子どものクリスマス会も、月曜日でしたけれど、子どもと大人で72名も集まり、小学生が〈クリスマス・キャロル〉を熱演しました。また、クリスマス・イブのキャンドル・サービスは、礼拝堂に響き渡る、すばらしい賛美の大合唱でした。

 ところで、今年のクリスマスですが、皆さんのところにサンタ・クロースは来ましたか?“来たよ、来たよ、ぼくは(わたしは)見た!”という人はいますか?残念ながら、私は見ませんでした。サンタのふりした泥棒(に扮した人)なら見ました。毎年来てくれる“た”の付くサンタは見ました。でも、本当のサンタ・クロースは見ていません。では、サンタ・クロースはいないのでしょうか?私は、サンタ・クロースはいる、と信じています。
サン・ティグ・ジュベリという人が書いた『星の王子さま』という本の中で、王子さまが、“大切なものは目には見えない”と言いました。私も同感です。でも、確かに“いる”“ある”と信じられます。
では、質問を変えましょう。“私は、神さまを見たことがある”という人はいますか?たぶんいませんね。でも、私たちはイエス・キリストの父である神さまを信じています。
今日の聖書の御(み)言葉に、「いまだかつて、神を見た者はいない」(18節)とありました。聖書の中に出てくるユダヤの人々は、人間は神さまを見ることはできないと考えていました。いや、神さまを見たら死ぬ、と思っていました。罪と欲にまみれた人間が、聖なる神さまを見てしまったら、その清さに耐えられない、と考えたのです。
いまだかつて、神を見た者はいない。でも、聖書の中に、神さまを見た、という人が出てきます。預言者イザヤという人です。と言っても、神さまの全身、神さまの顔を見たわけではありません。イザヤが神殿に入っていった時、神さまが片足をその神殿の中についていて、その足もとの服の“裾(すそ)”を見たのです。でも、その裾を見たとき、イザヤは、自分は神さまを見てしまった。死んでしまうと恐れました。幸い、神さまがイザヤの罪と欲を清めてくださったので、イザヤは死なずに、その後、神さまの言葉を伝える御用をしました。

今日の聖書箇所に、「モーセ」(17節)という名前が出てきます。モーセさんは、「律法(りっぽう)」(17節)と呼ばれる神さまの掟をユダヤ人にもたらした人です。このモーセさんは、神さまを見たわけではありません。雲が覆い、雷が轟くシナイ山に登って行って、その頂上で神さまの声を聞き、神さまの掟を石の板に書き記して、みんなのところに持って降りて来たのです。
モーセさんがもたらした神さまの掟は“良いもの”のはずでした。けれども、その掟を守る人間の心と態度がおかしなことになってしまいました。“おまえ、この決まり、守ってない!”と言って、他人のあら捜しをする人々が出てきました。“守ってないから、おまえは罰だね”と言う人々が出て来ました。そう言う人々は、守れない人たちに、“おまえは守れないから、神さまに見捨てられている。呪われている。もう神さまの祝福は受けられないよ”と非難し、見下し、差別しました。そういう人たちって、なんでかとても強いんだよね。だから、非難され、差別された人たちは悲しみ、希望を失いそうになっていました。
そのような人たちのところにやって来て、「恵みと真理」(17節)をもたらしてくださったのがイエス・キリスト、イエスさまです。「恵みと真理」って難しい言葉だけど何のことでしょう?それは、“あなたたちも神さまに愛されているよ!”という神さまの愛だと思います。
「恵みと真理」が何かを考えるヒントが18節にあります。それは、「父のふところにいる独り子である神」という言葉です。子どもたちは「ふところ」って分かりますか?ふところって、服の中に手を突っ込んだときの、お腹(脇腹)のあたりのことを言います。ふところから物を取り出す、と言ったら、服に手を突っ込んで、お腹のあたりから取り出すことを言います。ふところって、大切なものをしまっておくところです。
イエスさまは、父である神さまの「ふところ」にいる、とありますね。つまり、父なる神さまがイエスさまを大切にして、しまっておいた、ということです。今、K.Mさんが赤ちゃんのTちゃんを連れて教会に来ていますが、お母さんが赤ちゃんを抱っこしている感じ、あれが「ふところ」にいる、ということです。赤ちゃんがお母さんに抱っこされていると、どんなイメージを思い浮かべますか?一言で言うなら、“愛されている”というイメージではないでしょうか。
イエスさまも父である神さまの「ふところ」にいて、“自分は愛されているんだ”と喜びを感じていたに違いありません。だからこそ、おまえは愛されていない、と非難され、苦しんでいた人たちに、“そんなことはないよ。あなたは神さまに愛されている。わたしが愛されているのと同じように愛されているよ”という恵みと真理を届けてくださったのです。
この神さまの愛、恵みと真理によって救われた人たちがどれだけいたか分かりません。神の掟を破り、石打(いしうち)の刑にされそうになっていた女性は、神さまの愛の言葉で処刑をまぬがれました。徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイは、神さまに愛されていることを知って、罪と欲の心を改めました。クリスマス・キャロルのスクルージと同じです。弟子のトマスは、神さまの愛に包まれて、イエスさまに向かって「わたしの主、わたしの神よ」と叫びました。ほかにも数えたら幾人でも挙げることができます。
聖書の時代だけではありません。親の愛を感じることができず、心が荒(すさ)み、たばこやシンナー、不良な行動を繰り返す中学生たちが長崎にいました。そんな彼らが最後に行き着いた場所が教会でした。彼らは、“何でこんなに生きていることが辛いのか?自分たちはなぜ、何のために生まれてきたのか?”と牧師に問いかけました。牧師も簡単には答えられなかったと思います。ところが、その時、教会の中で流れていた曲〈きみは愛されるため生まれた〉というゴスペル・ソングを聞いて、中学生たちは、衝撃(しょうげき)を受けました。きみは愛されるため生まれた。自分は神さまに愛されて生きている。そのことに心の目が開かれたのです。荒れていた中学生たちが、その心に恵みと真理を、喜びと希望を与えられて、彼らはこの歌を、自分たちの学校の友だちに伝え、やがてこの歌は、長崎の町の歌と言えるほど有名になったそうです。

 きみは愛されている。イエス・キリストによって、聖書によって、どんな時でも、あきらめずに、私たちも神さまの愛を信じること。そこに光の道は開かれていきます。


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