2014年1月5日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書16章1〜13節
  説教者  山岡 創

「やり直す」

 ルカによる福音書には、金持(かねも)ちの話が少なからず出て来ます。いつの時代(じだい)でもそうかも知れませんが、聖書の舞台(ぶたい)となった当時のユダヤでも、日雇い労働(ひやといろうどう)でその日の生活費(せいかつひ)1デナリオンをかせぐ者がいるかと思えば、管理人(かんりにん)に財産(ざいさん)を任(まか)せるような金持ちもいました。特に、不在地主(ふざいじぬし)と言って、自分の家から離(はな)れたところに広い土地を持っている人々がいました。簡単(かんたん)に行ける距離(きょり)ではありません。場合(ばあい)によっては何百キロ、何千キロと離(はな)れている場合もあります。そこで、自分で管理することができないので、その土地とそこからとれる穀物(こくもつ)と売買(ばいばい)した金銭(きんせん)の管理を、管理人に任せるケースがしばしばあったようです。
そのような現実(げんじつ)を背景(はいけい)にして、主イエスは、ある金持ちの雇(やと)った管理人が、主人の財産を横領(おうりょう)しているというたとえ話を始めます。ありそうな話です。現代日本の社会でも、会社の経理(けいり)を担当(たんとう)していた人が、会社のお金を横領したなんていうニュースは、少なからず耳にします。先日(せんじつ)も、ある年金機構(ねんきんきこう)の掛け金(かけきん)を、管理者が横領したという事件(じけん)がありました。
新約聖書の中で、お金のことを“マモン”と言い、お金の持つ悪魔的(あくまてき)な魅力(みりょく)を表(あらわ)します。お金の持つ魔力(まりょく)のような力、お金に潜(ひそ)む悪魔(あくま)に魅入(みい)られて、お金を得るために罪を犯(おか)してしまう。自分が莫大(ばくだい)なお金を得(え)た主人のようで、その実(じつ)、お金が主人のようになってしまう。そんなお金の力をマモンと言うのです。

 今日のたとえ話の中に出て来る「管理人」(1節)も、お金の魔力に取りつかれた人間の一人です。「無駄遣い」(1節)とありますが、おそらく彼は主人の財産を横領しました。その罪が露見(ろけん)し、主人の知るところとなったのです。彼は主人に呼び出(よびだ)され、解雇(かいこ)されることになりました。ただし、最後の仕事として、「会計の報告」(2節)を提出(ていしゅつ)するように求(もと)められます。そのために行き詰(ゆきづ)まった管理人は、苦肉(くにく)の策を講(こう)じます。管理人の立場(たちば)を利用(りよう)し、主人に借金借財(しゃっきんしゃくざい)のある人々の証文(しょうもん)を書き換(かきか)えて、それらの人々に恩(おん)を売(う)ろうとしたのです。油100バトス(1バトス=23ℓ)借りのある人には、50バトスと書き換えさせ、小麦100コル(1コル=230ℓ)借りのある人には、80コル書き直(なお)させたのです。つまり、この管理人は主人の財産を横領した上に、更(さら)に証文の書き換えを行って、主人に対して、損害(そんがい)の上に更(さら)に損害を与(あた)えたわけです。すべて自分のためです。
 ところが、この主人は怒(おこ)るどころか、この管理人のやり方を、抜け目(ぬけめ)がないと言って、ほめたというのですから、驚(おどろ)きです。ここが、この話の分からないところだと思います。どう考えてもおかしいのです。正直(しょうじき)、今日の話は分かりづらい。
 もちろん、聖書が、現実的に抜け目のない不正(ふせい)を行って、この世を賢(かしこ)く渡って行けと勧(すす)めているわけではないのは間違いありません。だとすればこの話、いったい何を私たちに訴(うった)えようとしているのでしょうか?

 9節に、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」という言葉があります。私はこの御言葉(みことば)から、同じルカによる福音書の19章に出て来る徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイの話を思い起こしました。
 ザアカイという人は、「徴税人の頭で、金持ちであった」と書かれています。それは、ある意味で不正な搾取(さくしゅ)を行っていたからです。当時の徴税(ちょうぜい)は、地中海周辺一帯(ちちゅうかいしゅうへんいったい)を支配していた広大(こうだい)なローマ帝国(ていこく)が、その地域の徴税人に請け負(うけお)わせていました。帝国は、その町、その村の納(おさ)めるべき税額(ぜいがく)のトータル金額(きんがく)を設定(せってい)して、あとは徴税人に任(まか)せて、細(こま)かいことは言いませんでした。と言うことは、一定の税額を帝国に納めさえすれば良いわけですから、人々から税金を取れば取るほど、徴税人の懐(ふところ)に入る取り分(とりぶん)が多くなるわけです。だから、当時の徴税人たちは、できるだけ人々から税金を巻き上(まきあ)げて私腹(しふく)を肥(こ)やしていました。そのために、人々からは軽蔑(けいべつ)され、忌み嫌(いみきら)われ、罪人(つみびと)として神の国に入ることはできない、救われないと非難(ひなん)され、差別(さべつ)されていました。
 ところが、主イエスがザアカイの住むエリコの町にやって来た時、数(かず)ある人々の中から、選(よ)りによってザアカイを指名(しめい)し、「ぜひあなたの家に泊(と)まりたい」と言い出したのです。その主イエスの言葉と振る舞(ま)いに感動(かんどう)したザアカイは、食事の席で、主イエスに向かって宣言(せんげん)しました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19章8節)。その時、主イエスは言われました。「今日、救いがこの家を訪れた」と。
 ザアカイの財産は、自分でも言っていますが、ずいぶんとだまし取ったり、搾取(さくしゅ)して築(きず)き上げたものだったと思われます。つまり、今日の話の9節で言えば、「不正にまみれた富」です。しかし、彼は、その不正(ふせい)にまみれた富を貧(まず)しい人々に施(ほどこ)し、4倍にして返しました。そのことで、彼を見直(みなお)した人もいたでしょうし、好意(こうい)を持つ人や感謝する人もいたのではないでしょうか。ですから、言うなればザアカイは、不正にまみれた富で友達を作ったわけです。
 もちろん、ザアカイがだまし取ったり、搾取したこと自体が認(みと)められるわけではありません。けれども、自分がそのように不正を行って来た過去を帳消(ちょうけ)しにはできません。大切なことは、そういう不正な自分の生き方を罪と認(みと)めて、そこから、どのように生きるか、どのようにやり直して行くか、ではないでしょうか。聖書は、それを悔い改(くいあらた)めと呼びます。そして、不正にまみれた富を、もはや自分のものにせず、貧しい人々に施し、4倍にして返すというザアカイの悔い改めは、主イエスに喜ばれるものとなった、神さまの御心に適(かな)う生き方になったということです。 
 ザアカイだけではなく、当時、だまし取ったり、搾取したりして、富を築き上げた人々が大勢いたことでしょう。そういう人々の中に、主イエスの言葉を聞いて従おうとする人、クリスチャンとなって教会に加わる人が結構いたのではないかと思われます。では、そういう人々は、だまし取り、搾取して築き上げた「不正にまみれた富」を、罪にまみれた過去をどうすれば良いのでしょう? そこで、主イエスは、不正にまみれた富を“浄財(じょうざい)”に変える方法がある、罪にまみれた過去から新しい生き方へと転換(てんかん)する道があることを教えてくださったのです。不正と罪にまみれた過去を背負(せお)っていたら、人生はもう終わり、無意味(むいみ)というのではなく、“やり直す”道があることを教えてくださったのです。そのことが、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」という言葉によって示されているのだと私は思うのです。そして、そのように悔い改めた道を歩む者に、神さまご自身が、「永遠の住まい」を用意してくださる。当時(とうじ)の人々がぜひとも入りたいと願(ねが)った神の国、私たちが天国と信じる、新しい命の国を、神さまは用意してくださるのです。

 もう一つ、今日の御言葉から示されていることがあります。それは、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(10節)との御言葉からです。
 「ごく小さな事」というのは、この世の富、この世の財産のことです。そして、「大きな事」というのは、11節で「本当に価値あるもの」と言われているものです。天に属する富、神さまによって与えられる恵みのことです。
 この世の富、財産の価値を知る者は、それを得るためには不正さえ犯(おか)すほどに、ある意味で忠実(ちゅうじつ)です。もちろん、不正を犯しても良いから、この世の富、財産を築け、と主イエスは言っているのではありません。むしろ、問われていることは、あなたがたクリスチャンは、大きな事に、神さまがくださる恵みに忠実か?ということが問われている。世の人々が、この世の富に対して忠実なほどに、それ以上に、あなたがたは神の恵みに忠実に生きているか?ということが問われているのだと私は思います。
 残念ながら、主イエスは、私たちクリスチャンが、この世の人々がこの世の富に忠実なほどに、天の富、神の恵みに対して忠実だとは思っていないようです。なぜなら、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」(8節)と言っているからです。「光の子ら」とは、クリスチャンたちのことです。
 この世の富は、その力、利益(りえき)、損得(そんとく)が目に見えて分かりやすいので、私たちは忠実に対処(たいしょ)するのです。しかし、天の富、神の恵みは、この世の富よりも大きい、にもかかわらず、その力、利益、損得が分かりにくいために、私たちは、なかなか忠実になれない。本気になれないところがあるのです。クリスチャンとして生活していても、神の恵みの大きさが分からずに、中途半端(ちゅうとはんぱ)に生きているような時もあるのです。
 けれども、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(13節)という、このたとえ話の締(し)めの言葉は真実です。徴税人ザアカイのように、一度、神の恵みの大きさに感動したら、富を施し、4倍にして返すと、つまり富を手放(てばな)してでも、神に仕える生き方を選びたくなるのです。
 富に仕える生き方とは、言わば、この世の何かを第一として、自分の“主人”として生きる生き方の象徴(しょうちょう)です。そのとき、神さまは第二位以下、ベスト5にもベスト10にも入らないかも知れません。
 けれども、主イエス・キリストの御言葉と十字架と復活の御業(みわざ)が証(あか)ししている神の愛に触(ふ)れたら、失敗や欠けの多い自分が認められ、罪を赦(ゆる)され、受け入れられていることを知ったら、もはや神の愛なしでは生きられない、というほどになります。何をおいても、命の恩人、救いの恩人である神さまが第一、神さまが“私の主”になります。
 神の救いの恵みに感動し、神の恵みに忠実に生きる。新しい年も、この信仰の志(こころざし)を胸に抱(だ)いて歩(あゆ)んでいきましょう。


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