2014年1月12日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書16章14〜18節
  説教者  山岡 創

「人に尊ばれるものは神に忌み嫌われる」

 「ファリサイ派」(14節)と呼ばれる人々がいました。彼らは、かつてモーセを通(とう)して与えられた神の掟(おきて)である「律法」(16節)を、厳格(げんかく)に、熱心(ねっしん)に守る人々でした。なぜなら、律法には、神さまの御心(みこころ)が表わされている。それを守ることによって、神さまに喜(よろこ)ばれ、祝福(しゅくふく)を受けることができる。彼らは、そのように信じていたからです。
 彼らが望(のぞ)んだ神の祝福とは何でしょうか? それは、自分(たち)の土地を得(え)ることでした。一家が繁盛(はんじょう)し、富み栄(とみさか)えることでした。子孫(しそん)が増(ふ)え広がることでした。つまり、祝福とは、目に見える、極(きわ)めて具体的(ぐたいてき)な現実(げんじつ)でした。逆(ぎゃく)に言えば、土地や富や子孫(しそん)を持っていることが、神さまに祝福されている証拠(しょうこ)だったわけです。
 主イエスの時代、ユダヤ人は国土(こくど)をローマ帝国に奪(うば)われ、支配されていましたから、土地は望(のぞ)むべくもありません。あとは富と子孫です。14節に、ファリサイ派の人々が「金(かね)に執着している」とありますが、土地が望めないからこそ、余計に金にこだわったのかも知れません。70年のユダヤ戦争以後、エルサレムから追われ、流浪(るろう)の民となったユダヤ人が、中世の時代、ヨーロッパで高利貸(こうりが)しなどの金融業(きんゆうぎょう)に走(はし)り、お金に頼ろうとしたことも、土地を持っていないという理由(りゆう)からだったのではないでしょうか。
 もちろんファリサイ派のすべての人々が、意地汚(いじきたな)く金に執着(しゅうちゃく)する人々だとは思いません。ただ、彼らにとって金持(かねも)ちであるということは、神さまに喜ばれる生活をして、それ故(ゆえ)に祝福されているしるしだったのです。反対に、お金がなく貧乏(びんぼう)だということは、神さまから祝福されていないということになり、それは自分の生活が律法に反し、神さまの御心に適(かな)わず、正しくないということを意味するのです。だから、貧乏ということは、彼らにとって恥(はじ)でした。彼らがお金に執着した理由も、そこにあります。
 だから、ファリサイ派の人々は、直前(ちょくぜん)にある、主イエスが語られた〈不正な管理人のたとえ〉をあざ笑いました。自分の財産(ざいさん)に莫大(ばくだい)な被害を与えた管理人を、金持ちの主人がほめるなど、あり得ない。「神と富とに仕えることはできない」(13節)と言うが、神に熱心に仕える者が富をも与えられるのだから、イエスの教えは大間違(おおまちが)いだ。そう思って、彼らは、主イエスのたとえ話をあざ笑ったに違いありません。
 けれども、主イエスは、そのような彼らの信仰とその価値観(かちかん)をひっくり返したのです。日本流に言えば、家内安全(かないあんぜん)、商売繁盛(しょうばいはんじょう)、無病息災(むびょうそくさい)という目に見える現実主義(げんじつしゅぎ)の生き方が、神の祝福ではない、「神の国」(16節)ではないことを示されたのです。

 主イエスは、あざ笑うファリサイ派の人々に言われました。
「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」(15節)。
 ファリサイ派の人々は、律法を厳格(げんかく)に、熱心に守る人々だと申しました。それが、正しい生き方であり、神さまに祝福されると信じたからです。けれども、彼らはその正しさを、自分と神さまの間の秘密(ひみつ)として留(とど)めず、人に見せびらかしていたのです。
 マタイによる福音書6章に、彼らが自分の正しさを人に見せびらかしている有り様(ありさま)が出て来ます。彼らは、律法に適った正しい行いとして、施(ほどこ)し、祈り、断食(だんじき)を熱心(ねっしん)に行いました。けれども、彼らは、施しや祈りを会堂や街角(まちかど)など、人目につくところで行いましたし、いかにも断食をしています、という見苦(みぐる)しい顔を人に見せながら生活しました。あなたは正しい、すばらしいとほめられるためです。それもまた、目に見える現実の報(むく)いを望む生き方だと言うことができるでしょう。
しかし、そのような彼らの姿(すがた)を、主イエスは「偽善者」と非難しました。その生き方が、浅(あさ)ましかったからです。だから、だれも見ていない、隠(かく)れたところで行いなさい。そうすれば、神さまだけは見ていて、祝福してくださると教えたのです。
自分の正しさを誇り、見せびらかそうとする心。神さまからの祝福だけでは飽き足(あきた)らず、人からの祝福もむさぼり取ろうとする浅ましい心。そういうあなたたちの心を、神さまはご存じだ。そして、そのような心を、神は忌み嫌(いみきら)われる。そして、そのような心が現れた自分の善い行いを見せびらかして、人の賞賛(しょうさん)を得ようとする生き方、自分の持っている富を誇って、人から敬(うやま)われようとする生き方。それは一見、人からは尊(とうと)ばれるかも知れない。けれども、それは、上辺(うわべ)は正しくとも、神の御心の深いところに届かない生き方として、神さまは忌み嫌われる。そのように主イエスは言われたのです。

 ならば、人にではなく、神に尊ばれるには、どのように生きればよいのでしょうか?主イエスは、新しい福音の到来(とうらい)、新しい時代の到来を告(つ)げています。そこに新しい生き方があります。
「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」(16節)。
 「律法と預言者」というのは、私たちが知っている旧約聖書のことを指しています。しかし、旧約聖書に導かれる時代は終わった。神さまとの古い契約(けいやく)に基(もと)づいて、律法に従う生き方は、ヨハネの時までで終わったのだ、主イエスは宣言(せんげん)します。
ヨハネというのは、ルカによる福音書3章にも出て来た洗礼者ヨハネのことです。ヨハネは、ヨルダン川で、人々に罪の悔い改(くいあらた)めを呼びかけ、悔い改めのしるしとして洗礼を授(さづ)ける運動を行った人物です。主イエスもヨハネから洗礼を受け、一時、ヨハネ・グループに属していた時があったようです。
 けれども、主イエスはヨハネと袂(たもと)を分(わ)かちました。「神の国の福音」に目覚(めざ)めたからです。当時、ユダヤ人のほとんどが神の国を待ち望んでいたと言って良いでしょう。けれども、それは、ローマ帝国から国土を奪(うば)い返し、ユダヤ人の独立国家を回復(かいふく)するという意味での神の国でした。律法を守り行うことで、そのような国家回復を、神さまが祝福として実現してくださると信じていました。その願い自体は決して悪いことだとは思いません。けれども、その願いの陰(かげ)で、自分の正しさを見せびらかして、人に褒(ほ)められようとする上辺だけの生き方がはびこったり、律法を守って生きられない人々を蔑(さげす)み、差別し、神の国にふさわしくない、神の祝福を受けられないと排除(はいじょ)するような動きが、当たり前のように行われていたのです。
 けれども、主イエスは、神の国とはそんなものではないと宣言(せんげん)しました。あなたたちファリサイ派のように、律法を守って生きることができない苦しさ、悲しさ、弱さ、そういう現実を抱えて生きている人々がいる。律法に従って正しく生きられない人々がいる。神の国とは、そういう人々が無償(むしょう)で受け入れられる場所なのだ。律法を守ったから、そのご褒美(ほうび)として入れてもらえるのではなく、神さまが、私たち一人ひとりを憐(あわ)れみ、愛してくださるからこそ入れてもらえる場所なのだ。だから、そういう神さまの広く、深い愛を知って、神の愛に基(もと)づいて生きるところに、目には見えなくとも、たとえ国家国土がなくとも、神の国は到来しているのだ。主イエスはそのように宣べ伝(のべつた)えて、当時ファリサイ派等から差別されていた徴税人(ちょうぜいにん)や遊女(ゆうじょ)、罪人や病人を愛されたのです。彼らもまた、“神の国の市民”、神に愛されている“神の子”である喜びを、人々の心に復活させて歩いたのです。だからこそ、おびただしい人々が、主イエスのもとに集まって来たのです。

 けれども、そのような新しい生き方は、必ずしも古い律法を捨て去った生き方ではありませんでした。律法の時代はヨハネまでで終わったと言いました。けれども、それは律法を丸々捨て去る、という意味ではないようです。主イエスも、「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消え失せる方がやさしい」(17節)とおっしゃっているぐらいです。正確に言えば、律法の教えを誤解し、聖書の御言葉を誤解して、間違った信仰で生きる時代は終わった、ということです。
 ファリサイ派の人々の生き方は律法主義と言って、律法を守る者は救われ、祝福されるが、守らない者は救われないと、律法を救いの条件とし、非難(ひなん)の基準(きじゅん)とし、人々を差別するものでした。ともかく律法に適って、正しく生きていること、それが重要でした。
 けれども、そこに決定的(けっていてき)に欠けているものがありました。それは“愛(あい)”でした。人に自分の正しさを見せびらかして、ほめられ、誇(ほこ)るような生き方には、神への愛が欠けています。律法を守れない者を裁(さば)き、蔑(さげす)み、差別するような生き方には、人への愛が欠けています。そう、ファリサイ派の人々の生き方は正しかったのかも知れませんが、決定的に愛が欠けていました。正しくとも冷たい生き方に陥(おちい)っていました。
 主イエスは、律法の真髄(しんずい)は、言い換(か)えれば神さまの御心は、愛であると汲み取(くみと)ったのです。だから、最も重要な律法の掟として、「心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10章27節)とお教えになったのです。
 神さまの愛の心に倣(なら)って、律法の真髄である愛に生きること。それが新しい生き方であり、そこに神の国が到来(とうらい)していると、主イエスは言っているのです。そして、そのように愛に生きる具体的な生き方の一例として、最後に離縁(りえん)の問題が語られます。

 なぜ、今日の話の流れの最後に、離縁の問題が出て来るのか、その理由はよく分かりません。けれども、社会的ステイタス(身分)もあり、金持ちでもあるファリサイ派の人々は、意外と安易に離縁をしていたのかも知れません。
 誤解をしないでいただきたいのは、主イエスが離縁のすべてを、律法における姦通の罪として、私たちに禁じているのではない、ということです。そうではなくて、ファリサイ派の人々の、愛のない、安易(あんい)な離縁を非難しているのだと思われます。
 律法には、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24章1節)と定められていました。では、「恥(は)ずべきこと」とはどんなことでしょうか? これが、男性の側のかなり身勝手な解釈(かいしゃく)に任(まか)されていたようで、例えば、料理が下手だ、とか、容姿(ようし)に不満がある、とか、そんな理由でさえ正当化(せいとうか)されて、離縁が行われていたようです。それは、上辺は律法の筋は通しているのかも知れませんが、身勝手な考えと行動には、いちばん大切な愛がないのです。
 藤木正三(先生)という牧師が『神の風景』という著書(ちょしょ)の中で、夫婦関係について書いておられる文書が印象(いんしょう)に残っています。〈人間の租界〉という文章です。租界(そかい)とは“逃れ場(のがれば)”という感じの意味でしょう。
  徹底的(てっていてき)に問題を洗い出して解決してゆくのが筋の通った人間関係であるとすれば、どこか馴(な)れ合っているところのある夫婦というものは、決して筋の通った人間関係とは言えません。しかし、それでいいのではないでしょうか。馴れ合いには、筋の通らないことをそのまま受け入れているという意味で、ゆるしの極点(きょくてん)とも言える場合があるわけで、夫婦はまさに人間の諸関係の中で唯一のその場合だからです。夫婦とは、馴れ合ってでもしなければ生きてゆけない人間の租界です。夫婦の間で筋を通し合うほど、愚かなことはありません。
 主イエスは、愛も赦しもなく、身勝手な理由で離縁することを、律法の正しさには筋を通していても、いちばん肝心な愛がないと言って、非難しておられるのです。
 万事がそうなのだと思います。正しくとも冷たい生き方ではなく、多少筋は通らなくとも、愛にあふれた生き方を心がける。寛容(かんよう)と忍耐(にんたい)とを心がけて生きる。神さま御自身が、私たちに対していつも、愛の忍耐と寛容の心で接してくださっています。そこに神の優しさと人の明るさ、すなわち神の国は広がっていくのです。


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