2014年2月2日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書16章19〜31節
  説教者  山岡 創

「なぜ陰府に行くのか」

 「モーセと預言者」(29節)、という言葉が29節に出て来ました。モーセとは、その昔、エジプトで奴隷にされていたユダヤ人のご先祖たちをエジプトから脱出させた指導者ですが、その際、モーセを通して神さまから与えられたものが、律法と呼ばれる神の掟です。ここで言う「モーセ」は、律法のシンボルです。一方、預言者とは、モーセよりも後の時代、神さまの言葉を預かってユダヤ人のご先祖たちに伝えた人々です。その預言者たちの言葉が預言書という書物になりました。ここで言う「預言者」は、その預言書のシンボルです。だから、「モーセと預言者」と言えば、律法と預言書のことで、つまり“聖書”を表しています。当時はまだ新約聖書はありませんから、私たちが知っている旧約聖書のことです。
 この聖書、「モーセと預言者」を民衆に教えるために、律法学者と呼ばれる人々は、様々なたとえ話を用いました。その一つに、こんな話があるそうです。
 あるところに金持ちの徴税人(ちょうぜいにん)がいました。同じ町に、貧しい律法学者も住んでいました。この二人が、ほぼ同時に死にました。金持ちの徴税人の葬儀は盛大でしたが、貧しい律法学者の葬式は、わずかな親しい友人が来て、弔うだけでした。その後、この律法学者を弔った友人が一つの夢を見ます。それは、その律法学者が、死後、泉からこんこんと水があふれ流れる楽園で豊かに暮らしている夢です。他方、金持ちの徴税人は、と言えば、彼もまた、その水のほとりにいながら、どうしてもその水にたどり着くことができず、渇きに苦しんでいた‥‥‥という話です。
荒れ野や砂漠に住んで、渇きの苦しみをよく知っているユダヤ人らしい発想です。また、この話には、律法を守り行う者は死後、楽園で豊かに暮らせるが、守らなかった者は苦しむことになる、という因果応報(いんがおうほう)の思想が込められています。律法学者は前者の代表であり、徴税人は後者の典型として軽蔑されていました。
律法を守り行うことによってこの世でも報いられ、祝福される、と考えられていました。だから、金持ちだということは神の祝福であり、神さまから律法を守る者として認められていた、ということになります。実際、金持ちの律法学者も少なからずいたのではないでしょうか。しかし、律法を正直に守るからこそ、世渡り下手で、貧しくなる者もいたようです。だから、律法学者なのに貧しい、神の祝福を受けていないという不名誉を回復するために、死後、祝福を受けるという話が、逆に死後、律法を守らぬ者は苦しむというたとえ話がつくられたのだと思われます。

 この話は、当時のユダヤ人ならだれでも知っていたことでしょう。もちろん主イエスも知っていました。けれども、主イエスはここで、この話をずいぶんアレンジして語り直しています。「ある金持ち」(19節)と「貧しい人」(20節)が出て来ます。しかし、徴税人か律法学者か、ということは言われていません。「ラザロ」(20節)という名前だけが、この貧しい人に付けられています。貧しいラザロは、ぜいたくに遊び暮らす金持ちの門前に置かれていました。貧しい人が金持ちの残飯で生きていくために、よくこういうことがあったようです。やがて、この貧しい人と金持ちとが死にます。貧しい人は、「宴席にいるアブラハムのすぐそばに」「天使たちによって」(22節)連れて行かれます。アブラハムとは、ユダヤ人たちから民族のルーツ、神の祝福のルーツとして「父」(24節)と呼ばれ、尊敬されていた人物です。他方、金持ちは、「陰府(よみ)でさいなまれ」(23節)、「炎の中でもだえ苦しむ」(24節)ことになりました。
この主イエスの話の中では、律法を守る者は神の祝福を受け、そうでない者は呪われるという因果応報の思想、律法主義の信仰は消え失せています。当時、特に律法学者やファリサイ派と呼ばれる人々は、律法を守らないと見なした人々、徴税人や遊女、罪人、病人や障がいを持った人々を差別し、神の祝福から、神の救いから排除しました。律法を守る者だけが救われる。その考えに主イエスは異を唱えているのです。私たちも、信仰的に立派な生活をしなければ、善い行いをしなければ、だめだ、救われないと考えているところがありますが、ちょっと誤解しています。主イエスの教えはそうではない、のです。
さて、このたとえ話が、律法学者が語るたとえ話と大きく変わるのは、この後です。陰府の炎にもだえ苦しむ金持ちが、ふと目を上げると、「宴席でアブラハムとすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに」(23節)見えました。そこで、彼はアブラハムに、ラザロをそこから遣わして、自分の口を水で冷やさせてください、と頼みます。しかし、それはできない、不可能なのだと、アブラハムに断られます。
すると、金持ちは次の願いをアブラハムに訴えます。ラザロを自分の5人の兄弟のところに遣わして、「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(28節)と頼みます。けれども、二つめの願いも、アブラハムの次の言葉で退けられます。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(29節)。わざわざラザロがよみがえって行く必要はない。聖書の言葉に耳を傾ければ分かることだ、と言うのです。
 しかし、金持ちも粘って押し返します。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」(30節)。
 確かにそうかも知れない、と思わせる、切実な訴えです。けれども、この金持ちの言葉には、私たちもそうだと思うだけに、自分の信仰を照らし合わせ、省みる必要があると思われます。
 この金持ちは生前、ユダヤ人でしたから、安息日ごとに会堂に行き、モーセと預言者の言葉を聞いていたでしょう。律法学者から聖書の御(み)言葉の説(と)き明かしを聞いていたでしょう。そして、その通りだと信じてもいたでしょう。けれども、彼は陰府に落ちることになってしまった。どうしてでしょうか?それは、本気で信じて、聞き従っていなかったからではないでしょうか。
 いつも聖書の言葉を聞いている。ユダヤ人だから暗証もしている。けれども、言葉だけでは足りない。本気になれない。しかし、その言葉のとおりになるのだという生き証人、いや“死に証人”がいれば別です。死んだ者の中からだれかがよみがえって、“死んだ後はこういうふうになるんだぞ”と言ってくれれば、本気で信じて従う、と金持ちは言わば本音を漏らしているのです。
 省みて私たちはどうでしょうか?私たちも、“イエス様が自分の目の前に現われて、直接教え、愛してくれたらなあ”と思うことがあります。しかし、それは、「死んだ者の中からだれかが‥‥行ってやれば」という金持ちの気持と一緒です。私たちは、聖書の御言葉に、どれだけ自分を懸けて生きているでしょうか。聖書の御言葉に、どれだけ本気で従って生活しているでしょうか。ほどほどに聞いて、良いところだけ取って、後はまあ、自分の考えで、あるいは常識で考えて、馬鹿を見ないようにやっていこう。そんな思いがどこかにないでしょうか。そう考えると、金持ちの姿は他人事ではなく、私たち自身の姿です。
 アブラハムは言いました。「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)。
 本当にそうだと思います。もしイエス様が自分の目の前に現れたとしても、私たちは自分の価値観とか自分の常識で生きていますから、それが聖書の言葉によって変えられていなければ、結局、復活した主イエスの言葉も本気で受け取らないことになってしまうでしょう。

 聖書の語る御言葉に、本気で耳を傾けなさい。それが、このたとえ話の中で、主イエスが語り聞かせようとしている肝心なところです。
 では、聖書の御言葉に本気で耳を傾けるとは、どんなことを本気で聞き、生きることでしょうか。聖書の中には、貧しい人を顧みなさい、施しなさい、隣人を自分のように愛しなさい、といった御言葉が多々あります。あの金持ちは、貧しいラザロに、もっと施して食べ物を与えれば良かったのでしょうか?もっと言えば、彼の病気を治療し、住むための小さな家でも建ててあげれば、金持ちもまたアブラハムの宴席に迎えられたのでしょうか?そうではないと思うのです。
 確かに、隣人を自分のように愛することは、律法の中で、主イエスが最も重要な掟、律法の真髄として教えられたことです。その教えを汲んで、私たちも具体的に、人を愛する生活を心がけること、必要な人には一欠けらでも援助する行いが大切なのは言うまでもありません。けれども、それをしたから死後、アブラハムの宴席に、天国に入れるというのでは、律法学者が教えた、律法を守る者が祝福されるという因果応報の考えと変わらなくなります。
 加藤常昭氏という、既に隠退された牧師がいます。私も東京神学大学で学んでいた頃、説教学を教えていただいた先生です。その加藤先生が、著わされた説教集の中で、今日の聖書箇所について、ドイツに留学していた頃の経験を書いておられます。
 ドイツの教会の人たちは、この聖書の御言葉を読むと、自分たちは金持ちだ、豊かな人間だと理解する。一方、貧しい人はアジアやアフリカの人々だと考える。そして、自分たちはぜいたくに暮らしているから、このままでは陰府に落ちてしまう。だから、貧しいアジアやアフリカの人々のために献金しよう、という発想になるのだそうです。
 その考えに対し、加藤先生は問いかけた。あなたがたは金持ちで、アジアやアフリカの人は貧しいと思い込んでいるが、その通りですか?あなたがたが本気で、自分たちは金持ちだから地獄に落ちると思っているなら、金持ちであることをやめられますか?自分の生活には少しも変化が起こらないような献金だけをして、ことが変わると思いますか?ただ憐れみの施しをするだけで、あなたがたは天国に行ける権利を得られると思っているのですか?
 鋭い、そして厳しい問いかけだと思います。もちろん、現実に経済的に貧しい人々のことを考えて、愛の寄付をすることは決して悪いことではありません。けれども、それでアブラハムの宴席か、炎の陰府かが決まるのではありません。逆に言えば、ラザロは貧しいなりにも、仲間を愛し、助け合ったから、アブラハムの宴席に迎えられたとは書かれていないのです。そういうことではありません。
 今日のたとえ話は、主イエスのたとえにしては珍しく、登場人物に名前が付けられていました。「ラザロ」です。この名前は“神は助ける”という意味だそうです。もっと言えば、“神の助けに依り頼む者”ということです。ラザロは、その名のとおり、力もなく、貧しいが故に、神さまの助けに依り頼む以外に、神さまにおゆだねする以外に、生きる道はなかったのです。金持ちの残飯で生きていたかも知れない。けれども、そういう生活の中で、神さまを本気で信じて生き、そして死んでいったのだと思います。
 そしてそれは、金持ちであっても本来、神さまの前には同じではないでしょうか。金持ちだろうと、権力があろうと、地位があろうと、学力が優秀であろうと、色々なことができようと、また人格的に非の打ちどころがなかろうと、神さまに命を与えられ、生かされ、やがて召されていく者として、自分の力ではなく神さまを信じて依り頼み、ゆだねて生きることこそアブラハムの宴席へとつながる道だと、聖書は語っているのです。
 聖書の御言葉に本気で耳を傾けるとは、自分が神の助けなしには生きられない者、神によって生かされ、愛されて在る者だと、どんなときも心に刻んでいることです。神さまの愛と助けの中を、信じて歩みましょう。


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