2014年2月9日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書17章1〜10節
  説教者  山岡 創

「からし種一粒の信仰があれば」

 先日4日(火)に、川越市にあるケアハウス主の園でもちつき大会が行われました。以前にはM.TさんやA.Tさん、T.Kさんらがそこに入居しておられ、そこから教会に礼拝においでになっていました。私たちの教会とも関わりの深い施設です。
 このもちつき大会に、坂戸いずみ教会から男性6名、女性3名が奉仕者として参加し、もちつきのお手伝いをしました。もう10年目ぐらいになるでしょうか。今回も職員の方に協力して、4回、もちをついて小分けにし、あんこや黄な粉、納豆や大根おろしにからめて入居者の方々に召し上がっていただきました。
 ところで、私たちの教会でも例年1月中に、子どもチャペルでもちつきを致します。ある方から寄贈していただいた臼(うす)と杵(きね)が当教会にはあります。ご存知かと思いますが、あの臼というやつはなかなか重いです。毎年もちつきをする前日に、私がそこの倉庫から出してきれいにし、水を張っておくのですが、わずかの距離でも運ぶのが大変です。私一人で持ち上げられないこともない。けれども、無理をすると腰を痛めそうなので、段差のないところは、斜めにしながら転がすようにしています。いったい何キロぐらいあるのでしょうか。あの臼は木でできていますが、果たして水に浮くのでしょうか。

 今日の聖書の中に「ひき臼」(2節)という言葉が出て来ました。もちつきの臼と違って、たぶん石でできていて、上の部分を回して小麦粉などをゴリゴリと粉にする道具です。そんなひき臼を首にひもで懸けられて、海に投げ込まれる。想像しただけで恐ろしい気持になります。イエス様も怖いたとえをなさるものです。
 どうしてこんな怖いたとえが出て来るのでしょう?主イエスはここで、“信仰のつまずき”の問題を取り上げておられます。
「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸だ」と言われます。そして、「そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」(1〜2節)と主イエスは言われるのです。
 皆さんの中で、歩いていてつまずいたことのない人はいないと思います。石につまずく。道路の小さな出っ張りや窪(くぼ)みにつまずく。家の中で、敷居(しきい)やちょっとした段差につまずく。階段につまずく。つまり、そこに足を取られる障害があるからです。
 信仰という名の道も、歩いているとつまずくことがあります。イエス様に従って歩く。あるいはイエス様と共に歩く。しかし、足を取られて、スムーズに歩くことができない。そこに信仰をつまずかせる様々な障害があるからです。富や快楽、権力や名誉といったこの世の誘惑があります。ノン・クリスチャンである家族や友人との関係が妨げになる場合もあります。また、自分自身の迷いや疑いがあったり、誤解や勘違いが生じることもあります。時代によっては国や公の権力から迫害されることもあります。「つまずきは避けられない」と主イエスは言われます。つまずかずに歩き続けられる信仰生活などないのです。そう言われると、ある意味、私たちはホッとするところがあるかも知れない。けれども、つまずいてよろめいても、立て直せればいい。しかし、そのまま転んでしまうかも知れない。転んだまま起き上がれないことだってあるかも知れません。つまり、信仰の道を歩けなくなってしまう。信仰を捨て、信仰から離れてしまうこともあり得るのです。悲しいことですが、そういうことが起こります。
 問題は、そのようにつまずき、信仰から離れてしまう原因となる障害を、人がつくってしまう場合、しかも教会の中の人間、教会の中で“信仰の兄弟”として生きているクリスチャン自身がつくってしまう場合です。「それをもたらす者は不幸だ」と主イエスは言われました。そして、ひき臼を懸けられて海に投げ込まれる方がましだと言ったのです。どうしてでしょう?直前の16章の終りに〈金持ちとラザロ〉という話がありました。その話の中で、金持ちは死んだ後で、陰府(よみ・地獄)に落ちて炎の中でもだえ苦しむのです。そのような究極の不幸を受けるよりも、はるかにましだよ、というわけです。
 私たちは普段、自分が教会の中で、他の人を信仰につまずかせているかも知れないということについて、かなり鈍感なのではないでしょうか。気づいていないことが少なからずあるかも知れませんし、気づいても、ひき臼を懸けられて海に投げ込まれる方がまし、とまで、深刻に、真剣に考えたことがあるでしょうか。そのことがまず、私たちに問われています。
 私自身、自分を省みて、思い当たることがあるのです。牧師というのはある意味、“因果な商売”です。信仰について教え導く立場にある。だから、人をつまずかせることも多くなるでしょう。大きな失敗をしたこともありました。ニコニコと笑顔でいることが、人をつまずかせたこともありました。自分のしていることは正しい、問題ないと思って、たぶん皆さんに、“あれ?”と思わせたり、“あっ痛!”と感じさせたような言動も、多々あったことと思います。つまずきは避けられないとイエス様は言われましたが、もしかしたら、つまずかせることも避けられないのかも知れません。

 そのような教会の中での人間関係において、今日、主イエスが取り上げておられるのは、赦しの問題です。
「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒(いまし)めなさい。そして、悔い改めれば、赦(ゆる)してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(3〜4節)。
 教会の中で、信仰の兄弟が何か罪を犯したら、神さまの御(み)心を悲しませ、聖書の教えに適わないことをしたら、戒める。何のためか?裁いて断罪し、処罰するためではありません。悔い改めに導くためです。そして、赦すためです。もし裁くばかりで赦す心がなかったら、それは相手をつまずかせる元になると主イエスは言っているのです。
 しかし、一日に七回赦すというのは、途方もないことです。日本の諺(ことわざ)では“仏の顔も三度まで”と申します。慈悲の心で相手の赦すのも3回までだ。それ以上は難しい。こちらの堪忍にも限度がある、というわけです。けれども、主イエスは七回も、しかも一日のうちに赦せ、と言うのです。もちろん、これは回数の問題ではありません。あなたを傷つけたり、迷惑をかけたり、損害を与えたりする相手を、その人が自分の罪に気づいて悔い改めるなら、何度でも赦しなさい。赦し続けなさい。“赦す”という心を失わずにいなさい。それが、教会における信仰の兄弟姉妹の関係だ。腹を立て、裁くばかりで、赦す心を失っていないか、自分に気をつけなさい。主イエスはそう言われるのです。
 そう言われて、弟子たちの取った行動は何だったと思いますか?「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と主イエスに願い求めたのです。人をなかなか赦すことができない。自分に罪を犯されれば、腹を立て、憎み、仕返しをしたくなることもある。七回どころか1回だって難しい。そんな自分たちが一日に七回も赦せるはずがない。赦しの心を失わずにいられるはずがない。それはある意味で“奇跡”の業です。それでも、イエス様が、そうせよ、と言われるならば、もはや自分の力、自分の人格の力だけではできない。あとは神さまに助けていただくしかない。信仰を増していただいて、信仰によって赦しの心を持たせていただく以外にない。弟子たちはそう考えたのです。そして、その願いはまさにそのとおり、それしかないと思うのです。
 そのような切実な弟子たちの訴えに対して、主イエスは答えられました。
「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても言うことを聞くであろう」(6節)。
 ちょうど桑の木がすぐそばにあったのでしょう。ユダヤ人の教師はしばしば、木陰で教えを説きました。主イエスもこの時、桑の木の木陰で教えておられたのかも知れません。桑の木は高さ5〜6mにもなると言われます。地面の下に根はどれほど張っているでしょうか。そんな桑の木でさえも、からし種一粒ほどの信仰があれば動かせると主イエスは言うのです。つまり、一日に七回赦すことは、地下に根を張った5mの桑の木を動かすほどに難しい。しかし、からし種一粒の信仰があれば、それができると言うのです。ちなみに、からし種とは最も小さい種、私たちが知っている胡麻(ごま)の粒の半分ぐらいの大きさです。そんなに小さな信仰でも、それがあれば、不可能を可能にできる。神の力が信仰を通して働くというのです。主イエスがここで弟子たちに伝えたかったのは、信仰が増して大きくなれば、赦せるというわけではない。小さくても本物の信仰、神さまの御心に適う信仰があれば、桑の木は動く。根を張ったように頑(かたく)なな人の心、人を赦せない心は動く、ということだったと思います。

 「からし種一粒ほどの信仰」とは、どんな信仰でしょうか?大きさや量ではなく、小さくてもイエス様が望まれる信仰とはどんな信仰でしょうか?それが7節以下の教えと関係しています。
 そこには、当時の主人と僕(しもべ)の関係が語られています。畑仕事から帰って来た僕は、休む間もなく主人の食事の世話を命じられる。しかし、主人は感謝するわけではない。僕も主人の感謝や報いを求めるようなことはしない。それと同じように、あなたがたも、私が命じたこと、神さまから命じられたことを果たしたら、「わたしどもは取りに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と謙遜になりなさい、と主イエスは教えています。“いやイエス様、赦すって大変なことですよ。大仕事ですよ。ちょっとは喜んで、ほめてくださいな”。私たちは、そんな気持になるかも知れません。
 しかし、10節の「しなければならいないことをしただけです」という言葉、聖書の原文(ギリシア語)に忠実に訳すと、“なすべく負っている負債(借金)を、なすべく返しただけです”という訳文になるそうです。それで、ハッと思い起こした話がありました。皆さんの中にも、“あれだ!”と思った人がいるでしょう。それは、マタイ福音書18章21節以下にある〈仲間を赦さない家来のたとえ〉です。
 一人の家来が、主君である王に1万タラントンという莫大な借金をつくりました。返済の期日が来て、王は、持ち物も、自分も家族も売って(=奴隷になるということ)返すように命じます。家来はひれ伏して、どうか待ってくださいと哀願しました。この家来が、返済する力を持っていないことを知っている王は、その姿を見て憐れに思い、何と!借金を帳消しにしてやったのです。赦された家来は城を出ました。どんな気持ちだったでしょう。ところが、彼は、街で、百デナリオンを貸している仲間に出会いました。待ってくれと頼む仲間の言葉も受け入れず、彼は、その仲間を、借金を返すまでと言って牢屋に放り込みました。百デナリオンは、決して安い金額とは言えませんが、1万タラントンに比べれば、それは6千万分の1の金額でしかありませんでした。この家来の憐れみのない行為を知った王は、彼を、彼が仲間にしたのと同じように牢屋に入れる、という話です。彼は主君である王に、1万タラントンの借金を赦されたことを忘れたか、その恵みの意味が分かっていなかったのです。
 人を赦すこと。赦し続けること。赦しの心を失わずに持ち続けること。それは、自分が神さまから莫大な罪の負債を赦されて、愛されて、生かされて、今こうして生きているということを知る者が持つことのできる心です。人をつまずかせてしまう自分の罪が赦されていることを知る者が持つことのできる心です。その恵みに感謝して、喜びと謙遜に生きる以外にないことを知っている者が、持つことのできる心、否、与えられる心です。だからこそ、その恵みの6千万分の1の赦しなど、「しなければならないことをしただけです」と言えるのです。そしてそれが、からし種一粒ほどの信仰、主イエスが望まれる信仰なのです。
 自分自身が一日に七回、神さまに赦されて生きている。主イエスの十字架の犠牲によって、その命によって贖(あがな)われ、赦されている。イエス様の兄弟、神の家族として受け入れられ、生かされている。この恵み、忘れずに行きましょう。


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