2014年3月2日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書17章20〜37節
  説教者  山岡 創

「 見えないけど大切なもの 」

  “大切なものは、目には見えない。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ”。サン・テグジュペリが書いた『星の王子さま』の中の、よく知られた言葉です。仲良しだったバラとけんかをして、小さな自分の星を飛び出した王子さまが、やがて地球の砂漠に降り立ちます。そこで出会ったキツネとお別れをする時に、キツネが王子さまに教えてくれたのが、これです。大切なものは、目には見えない。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
 今日の聖書の御(み)言葉を最初に読んだとき、私は、『星の王子さま』の中の、この言葉を思い起こしました。それは、今日の聖書の中に、中心テーマとして出て来る「神の国」について、2回も、それは“見えないものだ”と言われているからです。
「神の国は、見える形では来ない」(20節)。
「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない」(22節)。
 神の国は目には見えない。この世の国のように、見える形をとらない。また、人の子であるイエス・キリスト、神の国の中心であるイエス・キリストも、「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」と言えるような、見えるような存在として、再びやって来るのではない。そのように、今日の御言葉が、主イエスご自身が語っています。
 でも、「神の国はあなたがたの間にある」(21節)のです。でも、人の子イエス・キリストは「現われる」(24節)のです。だとすれば、心で見る以外にない。信仰の目で見るほかはない。そのリアリティー(確かにある!)を信じ、感じ取る以外にありません。

 けれども、「ファリサイ派の人々」(20節)は、それを信じ、感じ取ることができませんでした。神の国は見える形で来る、と思っていたからです。その神の国を、自分の目で見ようとしたからです。
 ファリサイ派というのは、ユダヤ人の中で、信仰にとても熱心で、まじめな人々でした。少なからぬユダヤ人が、ローマ帝国に支配されているという現実と妥協する中で、神さまを信じ、神の国を求め続けた人々でした。神の掟である律法を守れ。そうすれば、神はあなたがたを祝福される。約束の土地を与え、あなたがたを大いなる国民とする。律法の中に、そのように記されている約束を、御言葉を信じて、熱心に律法の掟を守って生活した人々だったのです。半端ではない信仰の真剣さは、私たちも見習うべきところだと思います。
 けれども、彼らは、「神の国」と言うとき、この世の国を求めました。自分たちを支配し、苦しめているローマ帝国に代わるユダヤ人の王国が建てられることを望みました。だから、主イエスが宣べ伝えている「神の国」がよく分からなかったのです。見えなかったのです。お前が“近づいた”と宣べ伝えている神の国はいつ来るのか?今もなおローマ帝国が我々を支配し、苦しめているではないか。そんな現実を目の当たりにして、神の国がやって来た、などとは、とても言えないではないか。ファリサイ派の人々は、主イエスに対して、そのような批判を抱いていたに違いありません。
 その問いかけに対して、主イエスがお答えになったのが、「神の国は、見える形では来ない」というものでした。神の国は、ファリサイ派の人々が考えているような、この世の国家ではない。王様がいて、政治家がいて、権力があって、税金があって、法律があって‥‥‥というような国ではないのです。
 では、どうしたら、それがあると分かるのか?どうしたら見えるのか?主イエスは、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。それは、あなたがたが集まっているところにある、ということです。どうして、そこにあると言えるのか?そこに、主イエス・キリストがおられるからです。人を癒(いや)し、愛し、受け入れる主が、人と人との間に、真ん中におられるからです。ファリサイ派のように、お前は律法を守らない、守れないと言って、多くの人を裁き、差別し、排除したのではなく、罪人も病人も、徴税人(ちょうぜいにん)も遊女(ゆうじょ)も、“あなたは神の子だ”“神に愛されている”と言って、裁かずに、愛して受け入れた主イエス・キリストが、人々の間に、真ん中におられるところ、そこに神の国はあるのです。もう一歩突っ込んで言えば、そのように主イエスによって愛され、受け入れられた人々が、互いに愛し合うところ、そこに神の国はあるのです。

 話は変わりますが、一昨日の2月28日に、長男の卒業式がありました。長男は、新潟市にあるミッション・スクール、敬和学園高校で、寮生活をしながら教育を受けました。帰りの新幹線の中で、長男は、“この3年間、ネバーランド(夢の国)に行っていたかのようだ”と感想を漏らしました。私も教会からお休みをいただいて、妻と二人で、この卒業式に出席しました。敬和学園の卒業式は、これがまた普通の学校では考えられないような、ユニークな式典でした。
 第一部は卒業礼拝で、讃美歌を歌い、聖書の御言葉と説教を聞く中で、卒業証書授与が行われました。小西校長が、証書を渡しながら、一人ひとりと握手を交わし、一言二言、言葉をかける。しかも、よくは聴き取れませんでしたが、一人ひとりに違う言葉をかけている。200名余りいる卒業生の、その子の特徴、生活、努力、進学先等を知っていて、一人ひとりをほめて、励まして送り出す。それを見ながら、ここは学校なんだけど、“学校”と言うよりは“教会”だなあ、と感じました。卒業生代表の言葉も、元生徒会長がやるのではなく、一人の女子生徒が、自分自身の成長を、かつての自分、敬和で受けたこと、そして自分の変化というような感じで話してくれ、まさに“自分探しの学校”という、この学園の特徴を感じさせてくれる話でした。
 第二部は送別会で、学年ごとに、まず1年生が、続いて2年生が、メッセージとして3年生を送る劇を演じ、感謝の言葉を語り、歌を歌う。手作り感MAXでした。そして、最後に3年生の作った卒業のビデオシーンが映され、1、2年生に、そして先生方に、用務の人たちに言葉を贈り、合唱する。私は、あれほど“ありがとう”という言葉にあふれた卒業式を、今まで見たことがありません。送別会の司会進行を務めた2年生が、感極まって泣き、言葉に詰まっていました。あれほど3年生と1、2年生が深い絆(きずな)で結ばれた卒業式を見たことがありません。最後は、全員のハレルヤ・コーラスで会が閉じました。
 会が終わった後の卒業生の退場がまた、この学校ならではだと思います。会の終了後、お祝いの昼食会があって、しかし、それまでに1時間の間があります。どうしてだろう?、在校生が先に食事をするからかな?と思っていたら、先生方と1,2年生が、3年生が退場する道を作る。その道を3年生がなかなか進んで来ないのです。それこそ普通だったら、拍手の中を卒業生が颯爽(さっそう)と歩いて、10分もかからずに終わるところでしょう。ところが、3年生が先生たちや1、2年生と言葉を交わし、抱き合い、涙して、渋滞し、なかなか進んで来ないのです。でも、それが敬和らしいのだと思います。そういった光景を目の当たりにしながら、すべてに大きな感動と温かさを感じた卒業式でした。
 卒業する子どもたちのほとんどすべての子たちが、この学校で良かった、自分はこの学校で受け入れられ、大切にされ、愛されたという感謝を抱いて卒業していくようです。毎月発行される〈敬和〉というタイトルの学校報があります。その2月号に、卒業文集の中から4名の生徒の文章が掲載されていました。
一人の男の子は、体が小さくて、運動が苦手で、中学の時はテニス部を退部し、自身のない毎日を送っていたと言います。けれども、そんな彼が、授業を一日も休まなかったこと、労作という溝掃除、落ち葉掃き、雪かき、窓ふき、チャペル掃除等の作業をする授業の中で、汚い溝の中に率先して入って掃除をする彼に、ある先生が“労作王”と呼んでくれて、初めて周りから認められて、嬉しかったこと、そういう中で、学年のテーマであるDo for Others(人のためにする)を学んだと書いていました。
 一人の女の子は入学当時、反抗期真っ盛りで、親に無理やり敬和に入れられ、“絶対、私は変わってなんかやらん。そして、お金を無駄にしたと思わせてやる”と誓ったと言います。けれども、自分はどうやら変わってしまったらしい。そして、それが自分でも嬉しいみたいだ。この高校に入れて、今ではとても感謝している、と書かれていました。
 1年留年した男の子は、1歳下のクラスメートに距離を作っていたが、だんだんお互いの心が開かれていって、良いクラスに恵まれたと思うようになった。しかし、それでも授業の出席率が悪く、またもや進級が危ぶまれる状態だった。それなのに、先生たちは“一緒に進級して卒業しよう”と言って、山積みの補習を放課後、たった一人のために自分の時間を割いて、やってくれた。自分だったら学校に来ない奴にそこまでやらない。けれど、その中で一貫して見えて来たものはDo for Others、自分自身のためではなく、誰かのために生きるということに初めて気づけた。そんなふうに書いていました。
 Do for Others、それはまさに“愛”の精神です。その愛を、子どもたちは学校に関わる教師や友だち等、多くの人たちから愛されて、その愛を感じ取ったのです。そして、自分もDo for Others、愛を持って生きようという生き方に変わって来ているのでしょう。
 どうしてそういうことが生徒たちの中に起こったのか。そこに、主イエス・キリストがおられるからだと思います。目には見えないけれど、みんなの真ん中におり、みんなを愛して、その教えが学校の交わりの中に生きて働いているからだと思います。だから、生徒たちにとってはきっと、この学校はまさに「神の国」なのではないでしょうか。


 長男をはじめ、第44回生が敬和学園高校を卒業しました。卒業した生徒は皆、“敬和で本当に良かった”という思いを抱いて卒業していくようです。決して楽しいことや、嬉しいことばかりだったわけではない。特に寮生活をしていれば、辛いことや苦しいこと、やめたいと思うことも、一人ひとりあったに違いありません。けれども、むしろそういうことがあったからこそ、3年間の“自分探し”を終えて、卒業するとき、敬和で良かったと思えるではないでしょうか。
 私たち、クリスチャンの“卒業式”とはいつだろうか?ふとそんなことを考えました。今日の聖書の御言葉の22節以下は、人の子であるイエス・キリストが、排斥(はいせき)され、十字架に架けられて殺されるが、復活して天に昇り、そこからもう一度おいでになるという、簡単に言えばそういう内容です。私たちは、“主の再び来たりたまふを待ち望む”と信仰告白をしますが、その信仰が今日の聖書の御言葉にも示されています。主イエス・キリストが再びおいでになる。と言うことは、そこに神の国が来る。神の国がある。神の国が完成するということです。
 私たちクリスチャンの卒業式とは、この、主イエス・キリストが再びおいでになって、神の国が完成する時なのではないか、そう思うのです。その時まで、私たちは信仰生活という旅を続けます。この旅はある意味で、“自分探しの旅”です。キリストに愛されている自分を見つける旅、神さまとの関係の中に自分を探す、自分のあるべき居場所、喜びと感謝と平安の居場所を探す旅、探し続ける旅だと言って良いでしょう。楽しいこと、嬉しいことばかりではない。人生は、苦しいこと、悲しいこと、やめてしまいたい、死んでしまいたいと思うことも起こります。けれども、イエス様がおいでになる時に、“クリスチャンで、本当に良かった”と感謝して卒業できるような、そんな信仰生活を歩みたいと願います。


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