2014年3月16日 受難節第2主日・礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書18章9〜14節
  説教者  山岡 創

「 胸を打ちながら祈る 」

 人を見下す。嫌なことです。人は、自分の方が高いと思っている場所から、他人を見下します。自分が“できる”と思っているものがあると、できない人を見下します。勉強でも、運動でも、芸術でも、料理でも、その他、どんなことでも他人より優(まさ)っていると、それは人を見下す種になり得ます。金持ちである。それもまた、貧しい人を見下す種になります。地位や名誉がある。それも、ない人を見下す種になります。人は、そのようにして優越感に浸り、快感を覚えます。優越感を感じることで、自分の値打ちを確かめるようなところがあります。
 よくよく考えてみれば、嫌なことです。嫌なことですが、いつの間にか自分もそこに巻き込まれています。他人を見下している自分がいます。他人事ではありません。
 主イエスは、そのように他人を見下している人の姿を、今日のたとえ話の中に描き出しています。それは、「自分を正しいとうぬぼれて、他人を見下している人々」(9節)の姿でした。“正しさ”もまた人を見下す種になります。その見下しは、批判とか非難という形で現れます。批判や非難は、ともすれば相手を否定するところまで行きます。今、私たちは、主イエスの十字架への歩みとその苦難を心に刻む受難節レントの時を過ごしていますが、主イエスの十字架刑は、主イエスを否定する人々の心が、そういう形になって現われたものだと言うことができます。

 主イエスは、「自分を正しいとうぬぼれて、他人を見下している人々」の例として、「ファリサイ派の人」(10節)を取り上げました。ファリサイ派の人が、神殿で祈る姿をたとえ話の中に描き出しました。彼は、「心の中で」(11節)このように祈ったとあります。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人(ちょうぜいにん)のような者でもないことを感謝します。わたしは週に2度断食し、全収入の十分の一を献げています」(12節)。
 ユダヤ教ファリサイ派は、神の掟である律法を熱心に守り行う人々でした。ユダヤ人であっても律法を守らない人、現実と妥協してほどほどに守ればよいと考える人々の中にあって、熱心に、厳格に律法を守った。律法を守り行うことで、神さまから、正しい人間と認められようと志した、神の国に入れるようになりたいと願った人々です。
 律法の中心として十戒という10個の掟(戒め)がありますが、「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく」という言葉は、十戒の中の「姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。‥‥」(出エジプト記20章13節以下)といった戒めを守っているということです。また、後半の週に2度の断食、十分の一の献金は、神さまを敬う思いの表れです。しかも、それは律法が定めていること以上の熱心な行為でした。
 私たちは、このファリサイ派の人の祈りを、嫌な祈りだと感じるでしょう。他人を見下している嫌な祈りだと思うでしょう。でも、私たちも、この祈りと同じような気持になることがあるのではないでしょうか。もちろん、こんなふうに他人を見下して、自分を誇りはしないかも知れません。けれども、私たちは何かに熱心であればあるほど、他人に対して“どうしてこの人はやらないのだろう”と非難めいた気持になります。信仰に、教会に熱心であればあるほど、他の信徒を見て、ともすれば“どうしてこの人は‥”という気持が湧いて来ます。他人を見下して自分を誇る気持が裏返ったら、“どうしてこの人は”という非難に変わります。だから、この二つは同じことなのです。だから、私たちも、ファリサイ派の人と同じく嫌なことをしていることがあるのです。でも、自分は熱心であるという意識が邪魔をして、そのことに気づかないことが少なからずあるのではないでしょうか。
 ファリサイ派の人の心の中の祈りは、嫌な祈りでした。けれども、彼の表面的な信仰生活の行為を、当時の人々はとても高く評価しました。奪い取らない。不正をしない。姦通を犯さない。週に2度断食する。全収入の十分の一を献げる。それは、神の掟に従う、とても熱心な信仰生活として、神に喜ばれ、認められ、神の国に入ることができる、正しい信仰生活だと賞賛されたのです。
 もし私たちの教会にも、このファリサイ派の人のような信徒がいたら、どうでしょうか。礼拝を休まない。献金をたくさん献げる。色んな奉仕をする。そんな信徒がいたら、私たちも“すばらしい信仰だ”と、その人をほめるのではないでしょうか。けれども、主イエスが私たちの信仰を見る目は表面的ではない、そんなに単純ではないのです。
 もちろん、表面的な信仰生活よりも信仰の中身が大事だからと言って、開き直って、礼拝や献金や奉仕をおろそかにしても良いということではありません。けれども、信仰の行い以上に、信仰の中身が大切であることを主イエスは教えています。私たちの信仰の中身が神さまに喜ばれて初めて、信仰の生活、行いも神さまに喜ばれるものになるのです。
 もう皆さんも、ファリサイ派の人の信仰の問題にお気づきのことでしょう。彼の信仰の問題は、自分と他人を比べているところにあります。神殿とは、神さまと向かい合う場所でありましょう。けれども、彼は神さまと向かい合っていません。「神様」と呼びかけながら、その心は神さまに向いておらず、「ほかの人たち」に、「徴税人」に向いています。神さまと自分という関係の中で、自分を見つめ、恵みに感謝し、悔い改めるのではなく、他人と自分を比較して、見下し、優越感に浸り、自分は正しいとうぬぼれている。そこにファリサイ派の人の信仰の問題がありました。どんなに信仰生活が熱心であっても、それでは神さまに喜ばれないのです。
 私たちが気を付けなければならないのは、逆もまた同じ、ということです。見下し、優越感に浸るだけではなく、嫉妬したり、劣等感を感じることも、自分と他人を比べていることになります。人と比べず、神さまと向かい合う。そういう信仰に、主イエスは私たちを招いておられます。

 徴税人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)とあります。
 当時ユダヤ人はローマ帝国に支配されていました。その支配の中で、ファリサイ派は、自分たちの信仰を守り、筋を通して生きようとしましたが、徴税人は、ローマの手先となって、同胞のユダヤ人から税金を取り立てて生活をしました。異教徒に媚(こび)を売り、異教徒の中にどっぷりとつかって生活する様は、神の御(み)心に背く、汚れた人間だと見なされました。また、税金の取り立ては、彼らのやり方に任されており、所定の金額をローマ帝国に納めれば良いというものでした。だから、徴税人は、絞り取るように集めて、自分の懐を肥やしたので、貪(むさぼ)り欲してはならないという十戒に違反する罪人と見なされていました。
 だから、この徴税人は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのでしょうか‥‥。そうではないと思うのです。ファリサイ派をはじめ、同胞のユダヤ人からそのように見られているから、彼らは、そのように祈ったのではないと思うのです。
 この後の19章に、徴税人ザアカイという人の話が出て来ます。詳しいことは、また後日お話しますが、そこを読んでみると、ザアカイが自分のことを「罪人」だと感じているとは、とても思えません。むしろ自分のことを見下し、罪人扱いする周りの人々に対して、反発しながら生きているような感さえあります。今日のたとえ話の中に出て来た徴税人も、元々はそうだったのではないかと思うのです。周りの目に反発し、反発することで自分を保とうとしていたのではないでしょうか。
 では、なぜそんな徴税人の彼が、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るに至ったのでしょうか。それは、彼が、自分を見下す周りの人間を見るのではなく、神様と向かい合ったからだと思います。別の言い方をすれば、神さまと出会ったからだと思います。そう祈らずにはいられない、強烈な体験を神さまから与えられたからです。
 私たちは、自分を顧みて、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったことがあるでしょうか?神さまに近づく資格などないと遠くに立って、目も上げられず、胸を打ちながら、祈ったことがあるでしょうか?まだない、という人もいるでしょう。ある人もいるでしょう。が、たとえそういう経験があるとしても、そう多くはないでしょう。私たちが、遠くに立ち、目も上げられず、胸を打つほどに、「罪人のわたしを憐れんでください」と祈るのは、それほどに自分の罪にハッと気づかされる強烈な体験をした時でしょう。人を深く傷つけ、神に背いたと強く感じる出来事があったからです。そこで初めて、私たちは聖書の御(み)言葉を身に染みて感じるのです。聖書がなぜ、私たちのことを罪人と言うかを心で知ることになります。そこで、私たちは神さまと向き合わされる。神さまと強烈に出会うことになるのです。
 旧約聖書の中に、ダビデという王様が出て来ます。名君と謳(うた)われた王です。ところが、ダビデ王は、自分の部下の妻と姦通をしたことがありました。しかも、その女性が妊娠し、動かぬ証拠ができてしまったのです。ダビデ王は、その罪をごまかし、もみ消そうと苦慮し、遂にはその部下を戦場の最前線に送って戦死させ、その後で、未亡人となった彼の妻をめとり、何事もなかったかのように振る舞いました。けれども、預言者ナタンが何気にやって来て、ダビデ王に、貧しい人のたった一匹の羊を奪った裕福な男の話をします。その話に激怒して、ダビデ王が“そんな男は死刑だ”と叫んだとき、ナタンから“それはあなただ”と指摘され、ダビデ王は愕然(がくぜん)として、自分の罪を認め、くず折れたのです。そこでダビデ王は、神さまと出会ったのです。その悔い改めから生まれた祈りが、詩編51編にある「神よ、わたしを憐れんでください」という祈りです。あの徴税人の祈りと同じです。王であろうと徴税人であろうと、人は神さまと出会い、向かい合うとき、心から出て来るものは、この祈りしかないのではないでしょうか。

 そして、主イエスは、「義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)と宣言されました。当時の人々にとっては衝撃だったと思います。
 義とされるとは、正しいと認められるということです。自分は正しいとうぬぼれていたファリサイ派の人は、神さまから正しいと認めらず、胸を打ちながら祈った徴税人が正しいと認められました。そこから、私たちが、信仰についてもう一つ、注意しなければならない大切な点が見えて来ます。それは、私たちが、自分の行いや生活によって、神さまから正しいと認められ、救われるのではないということです。自分の力で、私たちは救われるのではない。その間違いに、私たちはいつかどこかで、深く気づく必要があります。ファリサイ派の人は、掟を守る自分の行いで、自分の力で、神さまから正しいと認められようとしました。けれども、人と比べれば、自分の方が正しいと思えても、神さまと本当に向かい合うとき、私たちは、自分を正しい人間だと誇れなくなります。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、自分の力、自分の行い、自分の正しさを誇り、頼ることなどできず、神さまの憐れみにすがる以外になくなります。しかし、それが主イエスの教える「義」なのです。神さまとの正しい関係なのです。自分の力ではどうしようもない自分の罪を、自分の行き詰まりに打ち砕かれて、神さまの憐れみにすがり、神さまに“こんな私をよろしくお願いします”とおゆだねするようになる。そのような信仰の人にこそ、神の憐れみは注がれます。主イエス・キリストの十字架によってはっきりと示される神の憐れみが注がれ、神さまに受け入れられて、その人は生きる者となります。否、生かされる者となります。
 カトリックのシスターである渡辺和子さんが、心の中に“聖所(せいじょ)”を持ちなさい、自分の聖所で神さまと“二人ぼっち”になる時間を大切しなさい、という内容のことを著書に書いておられます。聖所とは「神殿」を言い換えたものです。それは、神さまと向かい合って、自分を見つめ、祈る時間です。神さまと出会う場所です。神さまと向かい合い、自分の罪を知る。自分の弱さを知る。「罪人の私を憐れんでください」と祈る。そのとき、私たちは、自分に注がれる神の憐れみを深く知り、感謝する者となるのです。


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