2014年3月23日 受難節第3主日・礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書18章15〜17節
  説教者  山岡 創

「 子供のように受け入れる 」

 先日20日に、I小学校の卒業式がありました。我が家の三女・Aが卒業なので、私たちも夫婦二人で、卒業式に出席しました。57名の卒業生のうち、袴(はかま)を履いてきた女の子が10名いて、とてもきらびやかでした。
 今回の卒業式は、私にとって非常に思い入れのある式でした。と言うのは、三女がいるからというだけではなく、よく知っている子がたくさんいたからです。この1年、私は、三女に頼まれて、この6年生たちと放課後バスケットボールを週に2回、続けて来ました。女の子も男の子も半数以上の子どもたちと関わりました。私にとっても楽しい時間でした。
 それだけではありません。この1年は、教会に6年生がたくさん来るようになった年でした。それまで5,6人だった6年生が、友だちを誘い、その友だちがまた別の友だちを誘って、新しい子どもが増えていきました。もちろん、定着しなかった子もいますが、今では15名ほどの6年生が子どもチャペルに来るようになっています。中には、塾の先生(大学生)まで誘って連れて来た子もいました。1名を除けば皆、I小学校の6年生です。毎週の子どもチャペルだけでなく、キャンプやサムエル・ナイト、クリスマス会の劇の練習、ランチの会の準備等を通して、この子どもたちと非常に親しく過ごしました。その一人ひとりの姿を見ながら、私は卒業式の時間を過ごしました。
 それにしても、この1年、子どもが伝道する時の力には、驚異的なものを感じて来ました。私たち大人はつい、伝道って大変だ、人を教会に誘うのって難しいと尻込みしてしまうところがあります。けれども、子どもはそうではない。もちろん、子どもたちの方が時間にゆとりがあったり、楽しいと感じる要素がたくさんあったり、人生の苦労や垢(あか)にまみれていないといった理由があるかも知れません。しかし、そうだとしても、子どもたちはいとも簡単に教会を受け入れ、教会を広げていきます。その姿に、私は、「子供のように神の国を受け入れる」(17節)とは、こういうことかも知れないと感じています。

 今日の聖書の箇所は、「イエスに触れていただくために、人々は乳(ち)飲み子までも連れて来た」(15節)ということから始まります。
 この教会の会員であるK.Mさんが、里帰りをした時、Tちゃんを連れて礼拝に出席されます。Tちゃんは今、約8ヶ月。まさに乳飲み子です。赤ちゃんが来ると、パッとその場が明るくなります。みんなが優しくなります。きっと主イエスの周りにも、子どもたちや乳飲み子がたくさんいて、その親が、主イエスに手を置いてもらい、祝福をいただこうとして、乳飲み子たちを連れて来ていたのでしょう。
 ところが、「弟子たちは、これを見て叱った」(15節)と言います。お忙しいイエス様のところに、乳飲み子まで連れて来るな。大人のことで手いっぱいだと言うのです。
 この弟子たちの言動に、私たちは腹を立てるかも知れません。弟子たちはおかしいと感じるかも知れません。自分なら弟子たちのようにはしないと思うかも知れません。しかし、果たして本当にそうでしょうか。
 私たちの教会では1ヶ月に1度、またイースター、ペンテコステ、クリスマスに、大人と子どもが共に守る礼拝を行います。その意味は、今日の聖書箇所のように、2千年前の主イエスの周りには、大人から子ども、乳飲み子まで集まって、主イエスの語る言葉に耳を傾ける集まりができていたと思うのです。そういう集まりを実現したい。それが、主イエスのもとに集う礼拝だと思うからです。
 けれども、諸事情や配慮もあって、それ以外の時は、子どもチャペルの礼拝と大人の礼拝とを分けて行っています。けれども、それは大人の礼拝から子どもや乳飲み子を排除するという意味ではありません。
 礼拝堂の後ろに集会室があります。礼拝堂と集会室の間は、ガラス張りになっていて、集会室から礼拝堂が見えるようになっています。こちらの声や音もスピーカーで入ります。それは、礼拝の際、集会室を親子室として、子連れの親がそこで礼拝を守れるようにするためです。けれども、その部屋があるのは、親子連れは必ずその部屋で礼拝を守りなさい、という意味ではありません。
 礼拝は、共に守るものです。幼子や乳飲み子を連れた親も、この礼拝堂で一緒に礼拝を守るのです。そうして良いのです。ただ、乳飲み子がオムツやおっぱいが欲しくて、泣きだすかも知れません。幼子(おさなご)が長時間我慢できなくて、むずがるかも知れません。親としても、それが気になり、周りの人に申し訳ないと感じることもあるでしょう。そういう時の便宜(べんぎ)として、親子室があり、ロビーがあるのです。
 だから、もし私たちが、大人の礼拝の時は、この礼拝堂から、子どもや乳飲み子は出て行きなさい、出て行ってほしいと考えるとしたら、それは、弟子たちが、乳飲み子を連れて来る親を叱り、これを排除しようとしたのと同じではないでしょうか。静かに、落ち着いて礼拝を守りたい。私たちは程度の違いはあれ、そう願うことでしょう。それはよく分かります。けれども、そのことを願うあまり、親子連れの方を礼拝から排除してはならない、礼拝に来づらい思いにさせてはならない。程度の問題もあるでしょうが、多少の泣き声や話し声、チョロッと動き回る姿を、私たちは受け入れて、共に礼拝を守る。それが、主イエスの御(み)心に適うことだと思うのです。

 叱りつける弟子たちに対して、主イエスは、乳飲み子を呼び寄せます。マルコによる福音書10章に記されている同じ記事(並行記事)では、主イエスは弟子たちに対して憤(いきどう)りさえした、と書かれています。そして主は言われました。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨(さまた)げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(16〜17節)。
 神の国はだれのものか?弟子たちは、子どものもの、乳飲み子のものではない、と考えたのです。どうしてでしょうか?女性と子どもは数に数えない、一人前の人間として扱わない。そういう男性、大人を中心とする価値観と差別的な見方が、当時のユダヤ人社会にあったからです。弟子たちもその価値観と見方に浸(つ)かっていました。特に、ユダヤ人社会は、神の掟である律法を守ることを大切にする社会です。律法を守る者こそが神の国に入れると考える社会です。その信仰と生き方が、直前の9節以下に描かれているファリサイ派のように、律法を守れない者を蔑(さげす)み、律法を守れる自分を誇る思いさえ生み出していたのです。だから、子どもや乳飲み子は、律法を守れないから価値がない、神の国に入れないと考えたのです。
 ところが、主イエスは、その考え方を逆転させられました。神の国はこのような者たちのものである、と。
 注意すべき点は、主イエスが「このような者たちのもの」と言われていることです。乳飲み子のもの、子供のものと言われたのではなく、子供のような者たちのものと言われた点です。
 では、子供のような者とは、「子供のように神の国を受け入れる」とは、どんなことでしょうか?
 今日の聖書箇所の前後にヒントがあります。直前の9節以下、〈ファリサイ派の人と徴税人のたとえ〉では、義とされて家に帰ったのは、つまり神の国に受け入れられたのは、徴税人(ちょうぜいにん)だと言われています。徴税人は、神殿で、遠くに立ち、目も上げず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)と祈りました。ファリサイ派の人のように、神さまに誇れる行いも何もない。自分にあるのは、ただ罪だけでした。ただ“罪人である自分”を感じていました。だから、彼は神さまの憐れみにすがり、「罪人のわたしを憐れんでください」と祈る以外になかったのです。けれども、その徴税人が、言ってみれば、神の国に入ることができたのです。
 また、直後の18節以下には、〈金持ちの議員〉の話が記(しる)されています。この議員も、おそらくファリサイ派の人ではなかったかと思われます。彼は、子供の時から神の掟を守って生きて来たと言います。子どもの時から既に、ユダヤ人社会の価値観で言えば、価値ある生き方をしてきたのです。けれども、彼は何か物足りない気がして、主イエスのもとに、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるかと、つまり神の国に入れるかと尋ねに来たのです。その彼に、主イエスは、持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に施(ほどこ)して、そしてご自分に従いなさい、と言われました。それを聞いて、彼は悲しみながら立ち去ったとあります。その姿を見送りながら、主イエスは、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(24節)と言われました。
 この前後の話から見えて来るものは、行いにしろ、財産にしろ、何かを持っている人は、神の国に入りづらい、ということです。もっとも、行いを持っていること自体が悪い、財産を持っていること自体が悪いと言うのではありません。もう少し正確に言えば、行いにしろ、財産にしろ、何かしら持っているものを誇り、頼り、価値があると思っていて、それがあるから自分は神さまに価値のある者だと認められ、神の国に入ることができると考えている人は、決して神の国に入ることはできない、ということです。
 言わば、神の国への“入り方”が間違っているのです。自分の力で入れると思っている人は、決して入ることはできないのです。神の国のドアを自分の力で開けて入ろうとしても、そのドアは開かないのです。向こう側から、神さまがドアを開けてくださり、“さあ、お入りなさい”と言って入れてくださる。そのようにして入るのが神の国なのです。
 徴税人は、誇れるもの、頼れるものを何も持っていませんでした。行いも、財産も、自分の力を誇ることも、頼ることもできませんでした。自分の罪だけが、自分の弱さだけが、自分の無力さだけが見えていたことでしょう。だからこそ、神の憐れみにすがって祈りました。その彼が、神の国に受け入れられた、救われたのです。
 私たちは、人と比べれば、自分の何かを誇り、頼ることができるかも知れません。けれども、神さまの前では、それは誇るべき、頼るべき何ものにもならないことを知らなければなりません。そういう意味で、子どもとは、誇るべき、頼るべき力を持っていない者だということです。あの徴税人も、誇るもの、頼るものを持たない、“子どものような大人”でした。そういう人が、神さまの憐れみにすがり、神の力と愛を誇り、頼りにする時、神の国に入ることができるのです。言い換えれば、自分の力ではなく、神の憐れみによって愛され、赦(ゆる)され、生かされて、自分は“ここに、こうして生きている”と受け入れる人が、神の国に受け入れられるのです。
 だから、子供のような人、子供のように神の国を受け入れる人は、感謝する人です。謙虚な人です。徒(いたずら)に自分の正義を主張しない人です。裁かず、愛する優しい人です。受難節(じゅなんせつ)の歩みの中で、十字架の主イエス・キリストの憐れみを思いながら、子どものような信仰で歩んでいきましょう。


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