2014年3月30日 受難節第4主日・礼拝説教
  聖  書  コリントの信徒への手紙(一)11章23〜26節
  説教者  山岡 創

「 キリストの語りべ 」

  先週の水曜日に、中学3年生の卒業レクで、川越観光に行きました。その際、川越のカトリック教会を見学しました。キリスト教は、カトリックとプロテスタントに、大きく二つに分かれます。私たちの教会は、プロテスタント・キリスト教の日本基督(キリスト)教団という宗派・団体に属しています。
 カトリックとプロテスタントでは、少し違うところがあります。例えば、カトリックでは“神父さん”と呼びますが、プロテスタントでは“牧師さん”と呼びます。また、礼拝(れいはい)堂もずいぶん違います。私たちの教会はシンプルですが、カトリックの教会は、十字架に架けられたイエス様の大きな像がありました。聖画と呼ばれる、聖書の中の場面を描いた絵が両脇の壁に何枚も掛けてありました。けれども、ここだけは同じだ、という点があります。それは、聖餐(せいさん)式のテーブルが、礼拝堂の中心にある、ということです。
 私たちの教会も、聖餐式のテーブルが礼拝堂の中心にあります。それは中心ではなく、“前方”じゃないか、と思う人もいるかも知れません。そう言われると、そうかも知れませんが、これは中心に置いているつもりなのです。教会によっては、本当に聖餐式のテーブルを真ん中にして、コの字型に椅子で囲む教会や、テーブルを要(かなめ)にして、扇子(せんす)のように椅子を置いている教会もあります。

 聖餐式のテーブルを礼拝堂の中心に置く。それは、聖餐が礼拝の中で、説教と並んでいちばん重要だからです。礼拝は、イエス様を賛美し、ほめたたえます。それは、イエス様が私たちを救ってくださったからです。十字架に架かり、命を懸けて救ってくださった。そう信じるからです。だから私たちは、イエス様を救い主と信じ、ほめたたえるのです。そして、イエス様が私たちを、十字架に架かり、命を懸けて救ってくださった出来事を、目に見えるように表すものが聖餐式です。
 ここにいる皆さんは、大人はもちろん、子どもたちも聖餐式を見たことがありますね。この前のクリスマス礼拝の時に、ここにいるほとんどの子供たちが聖餐式を見たと思います。パンとグレープジュースの儀式です。
 あのパンとジュースは何だと思いますか?ただのパンとジュースです。でも、教会では、あのパンをイエス様の体、あのジュースをイエス様の血だと信じていただきます。今日読んだ聖書にありましたが、イエス様が、最初の聖餐式を行った時に、お弟子さんたちに、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしを記念してこのように行いなさい」(24節)、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(25節)と言われたからです。だから、イエス様のお弟子さんたちから始まった教会はずっと、これはイエス様の体、これはイエス様の契約の血だと信じて、大切に聖餐式を行って来ました。ここに、イエス様が私(たち)の罪を償(つぐな)い、救ってくださるために、十字架の上で捨てられた体がある、十字架の上で流してくださった血がある。そう信じて、イエス様の体と血を、つまりイエス様の“命”をいただくのです。
 私たちは、食べ物を食べて生きていますね。食べ物を食べるということは、“命”をいただいて生きている、ということです。教わったことがあるでしょう。肉は動物の命です。魚もそうです。お米や野菜や果物だって植物という命です。お菓子だって、元々は植物という命からつくられたものです。私たちの体は、動物や植物の命をいただくことによって生きています。
 では、イエス様の命をいただくのは何のためでしょう?それは、私たちの“心”が生きるためです。私たちの心が栄養不足で死んだようにならずに、生き生きとするためです。イエス様の命をいただくことによって、私は赦(ゆる)されている。私は受け入れられている。私は愛されている。私は救われていると信じ、感じ、確認します。それによって“ああ、よかった”と心が安心します。慰められます。励まされます。勇気が湧いて来ます。元気になります。そういうふうに、私たちの心が生き生きと生きるようになるのです。イエス様の命をいただくということは、言い換えればイエス様の命がけの大きな“愛”を、心いっぱいいただいて、生かされるということですね。

 だから、私たちは礼拝で、聖餐式を大切に行います。そして、聖餐式を行うとき、私たちは「主の死を告げ知らせるのです」(26節)とパウロさんは言っています。
 「告げ知らせる」という言葉で、私は“語り部(べ)”という言葉を連想しました。語り部というのは元々、昔、天皇にお仕えして、日本の神々と天皇のつながりや、日本の国の成り立ちを暗記して語る人を、語り部と言ったのだそうです。今では、例えば戦争の語り部と言えば、自分の戦争の体験を語り、戦争の悲惨さを訴える人のことを言います。
 東日本大震災から3年、先日3月11日のテレビ放送で、震災を体験したある女子高生のことが放映されていました。その子は、大切な人たちをたくさん失い、特に大好きだった恩師の先生を失ったことが、とてもショックだったと言います。そのため、震災後1年余りは、そのショックから立ち上がれず、家に引きこもるような、自分に引きこもるような生活が続いたそうです。けれども、ある時、周りの人に支えられ、助けてもらっているばかりではダメだ、自分には何ができるだろうと考えて、震災体験の語り部になった。それ以来、各地で震災の体験を語り伝えているということです。その際、彼女が最後に必ず伝えるメッセージがあります。それは、自分の親しい人に、いつも“ありがとう”と“大好き”という言葉を告げよう、ということです。彼女は、大切な恩師の先生にそれができなかったことを後悔しました。だからこそ、大切な人に、言葉で“ありがとう”“大好き”といつも告げましょう、と伝えているのです。
 私たちは、聖餐をいただく時、「主の死を告げ知らせる」と言われます。それは言わば、主イエス・キリストの“語り部”になることだと思います。聖餐を受けるとき、“主イエスは私のために死んでくださった。私のために命を捨てて、愛してくださった”“ありがとう”“大好き”、そう思いながら、心の中で告白しながら、聖餐を受けるのです。そして、礼拝を守り、聖餐をいただいて送り出され、おうちや学校、会社で、“主イエスは私のために死んでくださった。私のために命を捨てて、愛してくださった”と告げ知らせるのです。そういう思いで生活するのです。そうすれば、私たちを見た人が、私たちの言葉を聞いた人が、“私も教会に行ってみたい”“私もイエス様を信じてみたい”と思うようになるかも知れません。そんな“イエス様の語り部”になれたらと思います。


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