2014年4月6日 受難節第5主日・礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書18章18〜30節
  説教者  山岡 創

「 あなたに欠けているもの 」

「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(18節)。
このように尋ねる一人の人物が、今日の聖書箇所に登場します。彼は「議員」(18節)でした。当時、ユダヤには最高法院(サンヘドリン)と呼ばれる議会がありました。大祭司を議長とする71名から成り、祭司や長老、律法学者等、社会的に信望のある人々によって構成され、ユダヤ教の律法に基づいて行政と司法を行う議会でした。彼はその議員の一人でした。同じ内容を記したマタイ福音書の記事(並行記事)では、彼は青年であったと記されています。若くして最高法院の議員に選ばれるほど、彼は人望のある人だったようです。
また、彼はユダヤ教の掟を守る人でした。その昔、モーセを通して与えられた律法という掟がユダヤ人にはありました。この掟を守ることで、神さまに祝福されると約束されていました。この掟の中心が、「姦淫(かんいん)するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬(うやま)え」(20節)という内容で知られる十戒でした。彼は、ユダヤ教の掟、その中心である十戒を、「子供の時から守って」(21節)来たといいます。子どもの時から信仰の道をまっすぐに歩いて来たのです。
しかも、彼は「大変な金持ち」(23節)でした。ユダヤ人は神さまの祝福を、とても具体的に考えました。例えば、子どもがたくさん与えられ、子孫が増え広がることは、祝福されているしるしでした。財産をたくさん得て金持ちになることも、神の祝福のしるしでした。
それでいて、彼は謙虚でした。議員であり、掟も守る熱心なユダヤ教徒、かつ大変な金持ちと来たら、思い上がったとしても不思議ではありません。けれども、彼は、それで自分の人生は十分に足りている、極まったとは驕(おご)ってはいないのです。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ね求める求道の心を、謙虚さを持っているのです。
 こう見て来ると、彼は社会的にも、信仰的にも、経済的にも、人格的にも、豊かに恵まれた、非の打ち所のない人物のように思われます。けれども、そんな彼に、イエス様は、「あなたに欠けているものがまだ一つある」(22節)と言われました。彼に「欠けているもの」とは、いったい何でしょうか?

 「あなたに欠けているもの」があると言って、イエス様は、彼にこう言われました。
「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(22節)。
子供の時から掟を守って来た彼に、イエス様は、掟以上の行いをお求めになりました。この求めに対して、彼は「非常に悲しんだ」(23節)とあります。大変な金持ちであったため、持っている財産を手放すことができなかったからです。
 けれども、何もこれは彼に限ったことではないのではないでしょうか。もしも私たちがイエス様から同じように求められたらどうするでしょうか?特に金持ちではなくても、私たちもまた、自分の財産をすべて手放し、施(ほどこ)すことなどできないのではないでしょうか。だから、それができずに非常に悲しむ彼の気持は、他人事ではなく私たちの気持でもあるはずです。信仰と救いを求めるキリスト者である私たちもまた、主イエスのこの要求を突き付けられているのです。

 けれども、この要求によって主イエスは、持っている財産をすべて売り払い、貧しい人々に施すという“行い”をお求めになったのではないと私は思うのです。表面的には、その通りの行いをお求めになっているように見えます。しかし、主イエスの真意は、このような難題を求めることによって、それが“できない”自分に気づいてほしかったのだと思うのです。もう少し丁寧(ていねい)に言えば、できないままで神さまに救われることに気づいてほしかったのだと思います。
 彼は、「何をすれば‥‥」と主イエスに尋ねました。つまり、何かを“する”ことで、永遠の命を受け継ぐことができる、救われると考えているのです。しかも、彼は子供の時から掟を守って来ただけに、それが永遠の命への道だ、救いの道だと、ますます思い込んでいます。その間違いに、主イエスは気づかせようとなさったのです。人の力でする行いには限界がある。どこかで行き詰まる。だから、何かを“する”という生き方、“する”ことに価値を置いた生き方の先には、永遠の命はない。救いはない。そのことに気づかせようとなさっているのです。救いを求める姿勢は謙遜で、熱心であることは間違いありません。けれども、求め方が間違っているのです。その間違いに気づかせるために、主イエスは、あの無理難題を吹っ掛けられたのだと思うのです。
 彼は、自分が“できない”ということに気づきました。だから、悲しんだのです。できないから救われない、と悲しんだのです。けれども、主イエスが求めているものは、そういう悲しみではありません。
 直前の18章9節以下に、〈ファリサイ派の人と徴税人のたとえ〉という内容があります。既にお話しましたが、徴税人(ちょうぜいにん)は、掟を守ることができない、“する”ことができません。だから、彼はそういう自分を悲しんでいます。遠くに立ち、目も上げず、胸を打っています。けれども、徴税人は、掟を守ることができないから救われないと絶望し、諦(あきら)めてはいません。悲しみながら、徴税人は、このように祈り求めています。
「神様、罪人(つみびと)のわたしを憐れんでください」(13節)。
 “する”ことのできない自分に気づき、悲しみながら、しかし、できない自分のままで、神様の憐れみにすがり、祈り求める。それ以外に救いを求める道はないことに気づいてほしい。あの議員にも、そして私たちにも、気づいてほしいと主イエスは願っておられるのです。

 「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか」(24節)と主イエスは言われました。自分の力、自分の財産、自分の行いに頼っているとき、私たちは、神の国へと通じていない、間違った道に踏み込んでいます。自分の力で、私たちは、永遠の命をつかみ取ることはできません。神の国の扉を開けることはできません。では、どうしたらよいのでしょう?
「人間にはできないことも、神にはできる」(27節)
と主イエスは言われました。人間の力では救えなくても、神さまは私たちを救うことがおできになります。神さまには、できない私たちを、そのままに受け入れて、勇気と希望と平安を与え、生きる者とする憐れみ(愛)と力があります。その憐れみと力に、私たちは“こんな私ですが、よろしくお願いします”とおゆだねすればよいのです。神さまの方は、最初からそのつもりなのですから、私たちは子どもが親の懐に飛び込むように、祈り求め、ゆだねればよいのです。その道、その生き方の先に、救いはあります。「あなたに欠けているもの」、それは、ゆだねる信仰です。神の憐れみと救いの力におゆだねする信仰です。
 私事になりますが、私は16歳で洗礼を受けましたが、高校生の時は、何となく信仰生活を過ごしていました。その気になったのは、高校を卒業してから教会学校のスタッフになったことがきかっけでした。教える立場になったのだから、しっかりした信仰を持っていなければならないと思い、聖書を一生懸命に読みました。そして、聖書の中でイエス様が命じておられることを“する”ことで、神さまに認められ、救われるのだと思い込んでいきました。けれども、熱心にやろうとすればするほど、“できない”自分の姿に打ちのめされ、落ち込んでいきました。折も折、大学受験にも失敗し、2浪をしながらも受験に身が入らず、勉強ができない自分に自己嫌悪に陥りました。こんな“できない”“しない”の駄目人間である自分のことなど自分も認められない。まして神さまは認めてくださらない、救ってくださらないと絶望していきました。けれども、そういう中で、できない“私”をそのまま受け入れて救う神と出会いました。できないままで、神さまの憐れみと力にすがり、ゆだねればよいことを知りました。

 とは言え、その時に知った“ゆだねる信仰”は、ともすると私の信仰生活の中で「欠けているもの」になります。ペトロが、「このとおり‥」(28節)と答えたように、自分が何かを“した”から、“する”から神さまに救われるのだ、報われるのだという考えに陥ります。できない自分にイライラしたり、落ち込んだりします。ですから、こう思います。信仰生活というのは、何かを“する”“できる”ことに値打ちがあると思う価値観によって失われ、欠けていく、“できないままで”おゆだねし、平安をいただく心を、求め続け、取り戻し続ける求道の道だ。そう思います。
神さまにおゆだねする信仰、これを欠かさずに信仰の道を歩きたいと願います。


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