2014年4月13日 受難節第6主日・礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書22章39〜46節
  説教者  山岡 創

「 わたしの願い、神の願い 」

 「父よ、御(み)心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)。
 主イエスは、十字架に架けられ処刑される直前の1週間を、エルサレムで過ごされました。過ぎ越しの祭りという、ユダヤ人にとって非常に重要な祭りがエルサレムで行われていたので、ガリラヤ地方からエルサレムに上京しておられたのです。その間、祈りの際にいつも行かれた場所が、エルサレムの郊外にある「オリーブ山」(39節)でした。
 先ほど読みました42節の言葉は、主イエスが、捕らえられ、十字架に架けられる直前の木曜日の夜に祈られた言葉です。今日はこの42節から、〈わたしの願い、神の願い〉という題を付けました。「御心」という言葉が2回出て来ましたが、それは、父なる神さまの願いのことです。神のご計画と言ってもよいでしょう。

 それにしても、イエス様だから‥‥と言ってしまえばそれまでですが、こんなに物分かりの良い、スマートな祈りができるものだろうか、と思います。主イエスは苦しみもだえています。苦しみ悩みを抱えているのです。「この杯」とは苦しみのことです。それを取り除いてほしいと祈っています。
 主イエスの苦しみは、敵対する人々の悪意と陰謀が迫っているということでした。罪をでっち上げられ、十字架に架けられ、処刑されるということでした。それを予感しての苦しみでした。結果的には、その夜のうちに捕らえられ、翌日には裁判に架けられ、即座に十字架に架けられたのですから、主イエスの苦しみは非常に切迫感のあるものであり、ぬぐおうとしても大きな不安が波のように、繰り返し襲って来たことでしょう。そのために、主イエスは祈りながら苦しみもだえ、「汗が血の滴(したた)るように地面に落ちた」(44節)というのです。そんな時に、「わたしの願いではなく、御心のままに‥」などと祈れるでしょうか。私だったら、そんなに物分かりの良い祈りはできないだろうと思うのです。昨日も、仕事の上で必要な物がなかなか見つからなかった時、“どうか見つけさせてください”と祈った後で、“何で見つからないんだ!”という文句が湧いて来ました。だから、私だったら「この杯を取りのけてください」と祈るのが精一杯。それすら祈れずに、“なぜ、こんな苦しみに遭わせるのか”と文句や愚痴を言ってしまいそうです。そういう思いからすれば、イエス様が十字架に架けられたとき、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)と叫ばれた言葉の方がよく分かる気がします。

 私たちは、人生を生きていると、「わたしの願い」とは違う、思い通りに行かない、思いがけない不都合や苦しみ、悲しみに出くわします。そのとき、そう簡単には、「わたしの願いではなく、御心のままに‥」と祈ることはできないと思います。交通事故で、顔に大きなやけどを負ってしまったら、辛くて、悲しくて、とても「御心のままに」とは祈れないでしょう。自分の子どもが不登校になったり、病気になったりしたら、自分の子育てが悪かったと自分を責め、悩み、なかなか「御心のままに」という気持にはなれないでしょう。「御心のままに」どころか、“こうしてください”と「わたし(自分)の願い」すら祈れなくなってしまう。教会に、礼拝に行くことさえできなくなってしまう。信仰を失ってしまうことだってあるかも知れない。それが、私たちの生の姿ではないでしょうか。
 昨年10月に、伊豆大島を台風26号が襲いました。山津波が起こり、死者35名、行方不明4名という甚大な被害が出ました。その亡くなった方の中に、大島元村教会の会員である清水和子さんという方も含まれています。大島で保育園の園長や町議会議員を務め、教会では役員として、また教会学校の校長として奉仕されていたそうです。
 その清水和子さんの姉であり、同じく大島元村教会員である宮城満津代さんという方が、『信徒の友』4月号で、インタビューに答えて、次のように話しておられます。
  信仰を持って、本当に神さまがいつも一緒にいて守ってくださると信じて生きてきたつもりです。それが正直、「なんでこんな目にあわなければならないんだろう」と思いました。昔の人が「神も仏もあるものか」と言うけれども、いや、そんなふうには考えたくないけれども、信仰がなくなってしまうんじゃないかと我ながら不安で仕方がありませんでした。親しい人に、「祈ってください」とお願いしたりもしました。
私たちも同じだと思うのです。苦しみ悲しみに遭ったら、“なんで”と思う。“神も仏もあるものか”という気持になる。「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」なんて、とても祈れない信仰に陥るでしょう。

 そうであるならば、私たちに、「御心のままに」と祈れる時が来るのでしょうか。先ほどの宮城満津代さんの話は次のように続きます。
  それが、遺体が発見されたということで安置所で(妹の)あの顔を見たんですね。‥‥‥(山津波で)海まで流されることもなく、いつも寝ていた自宅から少し離れた近くの場所で、瓦礫(がれき)に傷つけられることもなくそっと置かれていたとのことです。どこにも傷のない眠っているような安らかな顔でした。その顔を見た途端に安心したというか‥‥「やっぱり神さまは妹と一緒にいてくださったんだ、守ってくれたのだ」と思いました。
いつの日に、このような気持になれるかは、時間差があります。何十年もかかるかも知れません。また、受け止める気持には個人差もあります。もちろん、みんながみんな、このような気持になれるとは限りません。けれども、この時、宮城さんは、「御心」が行われたのだと受け止めて、安心することができたのではないかと私には思えるのです。
 神さまの「御心」が行われたと信じられるのは、後になってからのことだと思います。そして、苦しみ悲しみのただ中にある時は、「御心のままに」と祈れなくていい。ただ「この杯を取りのけてください」とだけ「わたしの願い」を祈ればいい。否、それすら祈れないならば、“なぜ”と神さまに文句を言い、怒り悲しみをぶつけるのでいい。どんな関わり方であれ、神さまとのつながりを失わずにいる。それが、「御心のままに行ってください」という祈りの核心ではないかと思うのです。そして、信仰を失わなければ、神さまとつながっていれば、いつか「御心」が行われたと納得し、安心できる日が来るという希望の光を心に持ち続けることができます。
 だから、直前の31節以下で、主イエスは弟子のペトロのために、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われるのだなあ、と気づきました。信仰が無くならないように、神さまとのつながりを失わないように、それが主イエスの願いです。それがあれば、苦しみの中から立ち上がり、復活することができるからです。

 そのように考えると、神の「御心」、神の願いというものが、もう一つ別にあると気づきました。一つは、人の人生に、その人の願いとは違う神の「御心」が行われるという意味です。それとは別に、神の願いが今日の聖書箇所に、具体的に示されていると思います。それは、主イエスが弟子たちに語られた「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)という言葉です。それが、私たちに対する神の「御心」、願いなのです。
 主イエスがオリーブ山で祈られたのは夜中ですから、弟子たちは待ち切れずに眠り込んでしまいました。けれども、私は、起きる、眠るという言葉には、別の意味が込められていると思います。信仰が眠っているか、起きているかということです。
 「誘惑」というのは、人を神さまから引き離す、信仰を失わせる原因のことだと思います。苦しみもその一つです。苦しみに遭って、神も仏もあるものか、にならないように、愚痴でも文句でもいい、神さまとつながっている。それが、「起きて」いることだと思います。そして、神の「御心」を信じる希望を失わずにいれば、いつか自分の人生に安心し、納得できる日が来るかもしれない。それが神の願いです。そのために主イエスは、私たちのために祈っていてくださいます。
 カトリックのシスターである渡辺和子さんが、“請求書の宗教”ではなく“領収書の宗教”を持って生きてゆきたいと思います、と著書(『愛することは許されること』112頁)の中に書いておられます。信仰の弱い私たちですが、そんな私たちを愛して、祈ってくださる主イエスを信頼して、“神さまの御心を確かにいただきました。ありがとうございました”と祈る信仰の心を失わずに歩みたいと思います。


   ウィンドウを閉じる