2014年4月20日 復活祭イースター礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書24章13〜35節
  説教者  山岡 創

「 信じると見えるもの 」

 「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)
 クレオパともう一人の弟子。彼らにとって、イエス・キリストは希望でした。二人だけでなく、弟子たちすべてにとって、イエスに従った人々にとって、イエス・キリストは希望の星でした。けれども、その希望が断たれてしまいました。主イエスの教えや行動を非難し、対立していた「祭司長たちや議員たち」が、主イエスを「死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまった」(20節)からです。
 望みを懸けてきた主イエスが、十字架にかけられて殺されてしまった。それは、彼らにとって絶望以外の何ものでもありませんでした。今まで主イエスと共にしてきた努力が、すべて否定され、水の泡となった挫折(ざせつ)の出来事でした。主イエスが十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)と叫ばれたように、弟子たちも、“神さま、なぜですか”と叫び出したい気持だったに違いありません。だから、彼らの目は遮(さえぎ)られて、一緒に歩いておられる主イエスが、共にいてくださる主イエスが「分からなかった」(16節)のです。
 目が遮られて、復活した主イエスが見えない、分らないということ。それは言い換えるならば、自分の人生が何なのか、何だったのかが分からず、希望が見えないということにほかなりません。けれども、それが見えるようになると、聖書は私たちに語りかけるのです。

 奥田知志さんという、日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会の牧師であり、NPO北九州ホームレス支援機構理事長をなさっている方が、『信徒の友』3月号に、〈「分からない」から始まる新しい物語〉という文章を書いておられました。25年間、ホームレスの人々を支援する中で、“お前に俺の何が分かるか”と怒鳴られたことが少なからずあったと言います。“初めて聞いてもらった”と涙を流す人もいました。けれども、話を聞いて、“つらかったですね。わかります”と言った瞬間に、“お前に俺の何が分かるか”と怒りをぶつけられたと言います。
 奥田先生は、“わかった”と言われるほど強い疎外感が生まれるような痛みがあると書いておられます。それは、その痛みを経験している人自身が、その痛みの意味が分からず苦しんでいるからではないかな、と私には思われます。だから、“わかった”と言われると、痛み苦しみが増して、余計に腹が立つことがあるのだと思います。
 私たちの人間関係には、分らないこと、理解できないこと、共感できないことが少なからずあります。そういう関係、そういう相手を私たちは恐れます。恐れて近づかず、離れていたいと思うことがあります。けれども、それで良いのでしょうか。
 奥田先生は、わらないという現実をそのまま引き受ける、という関わり方があると言われます。相手の痛み苦しみが分からない。共感できない。どんな慰めの言葉もかけられない。こうしたら良いと言うこともできない。だけど、その人と一緒にいる。そういう関わり方だと思います。そして、そのような関わり方で究極的に関わってくださる方が神であり、主イエスだと奥田先生は言うのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と十字架の上で叫んだ主イエスに、神は“わかった”とは言われなかった、何も答えられなかった。けれども、それでも神はそこに、共にいてくださったのです。それが、共感することを超えた、共にいてくださる神の恵みだと言うのです。そして、“なぜそれが起こったのか”自分でもわからない、他人も共感できない出来事に、神もまた答えないまま、しかし神が共にいてくださることを信じる。つまり、痛み苦しみを否定せず、拒絶せず、向かい合い、引き受けて生きようとするとき、新しい物語が生まれる、“エマオの物語”が、私たちの人生の中にも始まるのではないでしょうか。

 クレオパたちは、主イエスの十字架の出来事を、彼らがこの三日間に見聞きした、その視点で見ていました。主イエスのことを、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれる英雄だという目で見ていました。その目で見ていたから、十字架は望みを断たれる出来事だったのです。その見方が、まさに彼らの心の目を遮っていたため、復活した主イエスを、復活と言う希望を見ることができなかったのです。
 ところが、主イエスは、十字架の出来事を、「聖書全体」(27節)という視点から捉え直して、つまり“神さまのご計画”という壮大な見方で、神さまの目で捉え直し、語りかけてくださったのです。スケールが大きい、という表現がありますが、信仰による大きなスケール(尺度)で見直してくださったのです。十字架は、イスラエルを解放するはずだった英雄の惨めな敗北と絶望ではなく、神の子メシアが、すべての人を罪から救うために苦しみ、その死から復活して栄光を受けるための出来事だったのだと捉え直してくださったのです。その意味を新しく示してくださったのです。苦しみ痛みの中に、新しい希望を示してくださったのです。二人は、「心が燃えていた」(32節)と言いましたが、それは、希望を見つける(た)ということにほかなりません。
 私たちの人生にも、エマオへ向かって歩く日々があります。望みを失い、すべてが暗く見えるときがあります。けれども、そこにイエス・キリストは共にいてくださる。一緒に人生を旅してくださる。そして、聖書という視点で、神さまのご計画という目で、もう一度、自分を見てみないかと招いてくださいます。すぐにはできません。時間がかかります。人によってその時間は違います。けれども、痛み苦しみの中に、一條の光は指しています。その光を見つめ、いつかその光の下に出られる日が来ると望みを持ってに生きるようになる。そして、いつの日か、自分の人生の意味が分かるようになる。その歩みを、聖書は“復活”と言うのです。


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