2014年4月27日 礼拝説教
  聖  書  コリントの信徒への手紙(一)12章12〜27節
  説教者  山岡 創

「 愛が流れる体 」

  「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)。
 昨年度に引き続き、今年度も、この御(み)言葉を私たちの教会の標語聖句として歩みます。
 ところで、私たちの教会では、イースター、ペンテコステ、クリスマスというキリスト教の三大祝祭日の礼拝において、洗礼式を行うのが通例です。もちろん、その日でなければできない、というわけではありません。普段の礼拝で洗礼式を行うこともできますし、何か事情があれば、例えば病気のためにベッドから動けないような場合は、病院やご自宅で病床洗礼を行うこともできます。私は、川越少年刑務所の教誨師を務めていますが、以前に、洗礼を望む受刑者に、刑務所の中で洗礼を授けたこともありました。
 そのように、どの日に、どんな場合であっても、洗礼を授けることができますが、ご本人にとって、いつ受けたかということが覚えやすい、記念の日になるだろうと考えて、三大祝祭日に合わせて洗礼式を行っています。先週のイースター礼拝では、残念ながら洗礼を受ける方がありませんでした。けれども、神さまにはご計画があって、また、この中から、その人にとって最もふさわしい日に、洗礼を受ける人を与えてくださると信じています。
 洗礼式を行う時は、事前に準備会を3回行います。洗礼の意味を学びます。その際に、今日の聖書箇所、そして今年度の教会の標語聖句であるであるコリントの信徒へ手紙(一)12章27節を取り上げて学びをします。
 私は、今日の聖書箇所を黙想しながら、改めて心に留めた御言葉がありました。それは、13節の「皆一つの体となるために洗礼を受け」という御言葉です。洗礼を受けるということは、神さまとつながり、教会の一員となることですが、それは一つの体になるということ。キリストの体の一部になるということだと改めて受け止めました。
 人の体は成長します。10代というのは最も身長が伸びる時期ですが、教会の子どもたちを見ていると、その成長の目覚ましさを感じます。私も、既に何人にも追い抜かれました。我が家の次男も、この1年で10センチ以上、身長が伸びました。
 人の体が成長するように、キリストの体も成長します。成長にも色々な意味がありますが、洗礼を受け、キリストの体になるということから言えば、洗礼を受けた人がキリストの体の新しい細胞、新しい一部となって、体が成長するということになります。その意味では、若々しく成長し続ける教会でありたいと思います。

 洗礼を受けて、一つの体となる。キリストの体の一部になる。その例えには、とても大切な意味とメッセージが込められています。
 その一つは、皆が体の一部、各部分として、大切な役割を担っているということです。「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか」(17節)とありますが、皆が目である必要はありません。否、むしろ皆が目になったら困るのです。目だけの体になってしまいます。体の各部分に、聞く役割があり、においをかぐ役割があり、話す役割があり、見る役割があり、つかむ役割があり、歩く役割があります。また、内臓のように、見えない、目立たないところで、体を保ち、機能させている役割があります。この部分は何の役に立っているのだろうと、よく分からない部分でも、きっと体の中で何かの役割を担っています。
 だから、「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』」(15節)とは言えませんし、「目が手に向かって、『お前は要らない』」(21節)とも言えないのです。私たちは、多かれ少なかれ、自分と他人を比べながら生きているところがあります。教会の中でも、そういうところがあります。人をうらやみ、妬(ねた)み、劣等感を感じて、私は手のように能力もなく、役に立たないから体の一部ではないと、つまり自分は必要ではないのではないかと感じてしまうことがあります。自分の方が上だ、できると感じ、人を見下(みくだ)して、お前は役に立たないから要らない‥‥と、そこまでは思わないかも知れませんが、見下してしまうようなことがあります。
 けれども、神さまは、そのように見てはいません。比較ではなく、一人ひとりに必要欠くべからざる役割があると見ていてくださいます。掛け替えのない体の一部だと見ていてくださいます。自分が何の役に立っているのか、どんな役割があるのか、よく分らない時があります。でも、決してそんなことはありません。また、先週の説教でお話した“イイトコメガネ”ではありませんが、神さまが見ているのと同じように、人の良いところを見つけるようにしたいと思います。体に不必要な部分などない、キリストの体に不必要な人など一人もいないのです。何かを一緒に造り上げるとき、一つの体を一緒に成長させようとするとき、違いや差は、優劣ではなく、役割になるのです。皆が、一つの体のために仕えているからです。

 もう一つの大切な意味は、「各部分が互いに配慮し合う」(25節)ということ、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(26節)という、まさに一体感です。
 私たちは、「弱く見える部分」(22節)や「見苦しい部分」(23節)は、体には要らない、なくなってほしいと思います。もちろん、痛い部分や病気はないに越したことはありません。また、「見苦しい部分」を整形したり、ダイエットしたりすることもあるかも知れません。
 けれども、キリストの体には、互いに配慮し合い、共に喜び悲しむ、あたたかい血の通った交わりになるために、「弱く見える部分」「見苦しい部分」が必要だとパウロは言うのです。
 ちょっと穿(うが)った考え方で、“一病息災”という言葉があります。ふつうは“無病息災”と言います。病気がなくて健康だ、元気だということです。けれども、病気が何もないと健康だと思って無理をする。体を気遣わない。そのために、かえって大病を招くかも知れない(まるで私のことみたいです)。むしろ、何か一つ病を抱えている方が体を労(いた)わる。体調に気を付ける。それで、かえって大事には至らず、生活できるという意味です。
 キリストの体も、そうかも知れません。どこにも弱いところがなかったら、神さまの恵みに感謝せず、自分(たち)の力だと思い上がるかも知れません。優しさがなくなって、ギスギスするかも知れません。強い者同士で、主張し合って、けんかばかりしているかも知れません。
 人は不思議と、弱い方が優しく労わり合えます。だれが弱いかを決める必要はありません。強く見える人が、実は弱いことも少なからずあります。皆、何かしら弱さを抱えながら生きています。お互い様です。その弱さを隠して強がるのではなく、少しでも打ち明けられる。そして、お互いに労わり、励まし合い、祈り合えるようでありたい。それが、一つの体、キリストの体だと思うのです。

 そのように、あたたかい血の通う体でありたいと願います。人の体に血が流れているように、キリストの体には、キリストの血が流れています。キリストが十字架の上で、私たち一人ひとりのために流してくださった血です。その血は、神の愛のしるしです。キリストが、私たち一人ひとりを愛してくださる愛のしるしです。だから、キリストの体には、キリストの愛が流れていると言い換えることもできます。だから、この体からだれが欠けても痛く、悲しいのです。だれが痛むのか?だれが悲しむのか?ほかならぬイエス・キリスト御自身です。この体の一人が嬉しい時、だれが喜ぶのか?イエス・キリスト御自身です。そして、私たちも、この体の一部であるからこそ、共に苦しみ、共に喜ぶのです。だから、キリストは、このように命じられるのでしょう。
「あなたがたに新しい掟を与える。‥‥‥わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節)
 私たちはキリストの体です。一人ひとりはその部分です。神さまが既に、そのように見なしてくださっています。しかし、キリストの体にも健康管理が必要だと思います。互いに愛し合う、あたたかいキリストの血が通うように。共に苦しみ共に喜べるように。そのために、共に過ごす時間、共に過ごす交わりという健康管理が必要かと思います。“同じ釜の飯を食う”という表現がありますが、共に過ごし、お互いを知り合う時間が長いほど、私たちの関係は親しみが増します。そのために、礼拝を共にすることは基本です。その上で、私は、できるだけ皆さんを訪問し、面談し、お話を聞き、言葉を交わし、祈る機会を増やしたいと思います。また、皆さんも、何かしら集まりに参加したり、訪ねたりして、お互いに分かち合う時間を持つように努めていただきたいと思います。
キリストが私たちを愛してくださたように、私たちも互いに愛し合う。そこから、わたしたちの教会の掲げる理念が生まれてきます。


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