2014年5月4日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書18章31〜43節
  説教者  山岡 創

「 見えるようになりたい 」

 「主よ、目が見えるようになりたいのです」(41節)。
 エリコのそばに、一人の盲人がいました。当然、目が見える人と同じように生活することはできません。彼は、道端で物乞いをして暮らしていました。自分の人生を呪いたくなる日も少なからずあったでしょう。それだけではなく、当時のユダヤ人は、彼のことを、何か罪を犯したから、神さまに裁かれ“罰”が当たったのだと見なしました。そういう否定的なレッテルを貼られることも、つらいことだったと思います。そんな生活の中で、「目が見えるようになりたい」と彼は願ったでしょう。否、この現実はもうどうしようもないと、あきらめて、ただ毎日を、物乞いをして暮らしていたかも知れません。
 そんな彼が、いつもとは違うざわめきを耳にした。「これは、いったい何事ですか」(36節)と尋ねると、「ナザレのイエスのお通りだ」(37節)と答えが返って来た。イスラエルの英雄・ダビデ王の再来と期待され、各地で病や障がいを癒(いや)しておられるという噂は、彼も聞いていたのでしょう。そのイエスが今、自分の目の前をお通りになる。彼の心臓は早鐘のように鳴り始めたことでしょう。心の底に沈んでいた「目が見えるようになりたい」という気持がよみがえってきたことでしょう。彼は必死で、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(38節)と叫びました。人々から叱りつけられても、彼は叫び続けました。その叫びが主イエスにとどいたのです。主イエスに呼ばれて、彼は、「主よ、見えるようになりたいのです」(41節)と願いました。それに応えて、主イエスは目を見えるようにしてくださったのです。目が見える!諦(あきら)めていたことが実現したのです。彼が、「神をほめたたえながら、イエスに従った」(43節)のもうなずけます。

 盲人の目が見えるようになる。主イエスによる癒しの奇跡です。けれども、この癒しの物語には、ただ単に、見えなかった目が見えるようになったというだけではなく、もっと深い意味があると思うのです。
 今日読んだ聖書の箇所には、この盲人のほかにも、目が見えない人々が出て来ました。それは、主イエスの12人の弟子たちです。もちろん、彼らの肉眼は見えています。けれども、彼らには見えないものがありました。それは、主イエスの言葉でした。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」(34節)と書かれている意味で、彼らには主イエスの言葉が見えていませんでした。
 主イエスは何を言われたのでしょう。一言で言うなら、御自分に起こる苦しみと十字架の死と復活です。それは、預言者たちによって(旧約)聖書に書き記されていることでした。神の子、救い主と目される人間は、決して英雄のように成功し、高い地位と権力を手に入れ、神の王国を実現するのではなく、世の人々に認められず、受け入れられず、反対され、排斥(はいせき)され、殺されるという預言です。その預言通りのことが自分に起こる。そして、それを引き受けると主イエスは言われたのです。
 けれども、その言葉は弟子たちには通じませんでした。どうして彼らには、主イエスの言葉が何も分からなかったのでしょうか。
 そのことを考えているときに、一つの詩と出会いました。それは、星野富弘さんという人の詩です。

  いのちが一番大切だと思っていたころ  生きるのが苦しかった。
  いのちより大切なものがあると知った日  生きているのが嬉しかった。

 これは、星野富弘さんの『鈴の鳴る道』という詩集に記されている詩です。ご存知の方も多いと思いますが、星野富弘さんは、高校の教師をされていましたが、体育の指導をしていたときに、器械体操の着地に失敗して首の骨を折り、24歳にして首から下の体が麻痺して動かなくなる障がいを負いました。その星野さんが、苦悩の末に、口に筆を加えて、草花の絵と詩を描くようになります。そのようにして生まれた詩の一つが、これです。
 この詩にハッと感じるものがありました。主イエスと弟子たちの違いは、これではないだろうかと思いました。つまり、主イエスは、いのちよりも大切なものがあると知っておられたのです。だから、人々から苦しめられ、十字架に架けられようとも、死を覚悟してさえも、いのちより大切なものを守ろうとしておられるのではないか。大切な道を歩み抜こうとしておられるのではないか。人を愛し、人を救う、神さまから託された使命を全うしようとしておられるのではないか。そう思ったのです。
 ところが、弟子たちは、いのちが一番大切だと思っていました。そう思っていると、当然、いのちの外側にくっ付いて来る“人生のオプション”が一番大切になって来ます。成功とか、地位とか、名誉とか、財産とか、健康とか、美貌とか、そういうものが大切になって来ます。弟子たちも、主イエスに従って行けば、主イエスが神の王国を再建し、その王となった時、自分たちにも地位や名誉、権力や富が手に入ると期待していた節(ふし)があります。もちろん、人としてこれらを望む気持は多かれ少なかれ、私たちにもあるでしょう。けれども、それらは、いのちより大切なものではないのではないでしょうか。
 いのちより大切なものがあると知って生きる主イエスに対して、弟子たちは、いのちが一番だと思っていたのではないか。だから、彼らには主イエスの言葉が分からなかったのだと思います。心の目が開かなかったのだと思います。

 このように、直前の御(み)言葉とのつながりを考えてみると、盲人の目が見えるようになるということには、もう一つの意味が隠されている、もう一つのメッセージが込められていると思うのです。それは、星野富弘さんの詩を借りて言うならば、“いのちより大切なもの”が見えるようになる、ということです。
 病や痛み、障がいがあれば、だれしも治りたいと願うでしょう。目が見えなければ、見えるようになりたいと願うでしょう。辛(つら)い現実を抱えていれば、取り除いてほしいと思うでしょう。それが、私たちの偽(いつわ)らざる気持です。けれども、治らない病もある。解決しない問題もあります。どんなに神さまを信じて願っても、どうにもならないこともあるのです。それでは、私たちに救いはないのでしょうか。そんなことはありません。いのちより大切なものに気づいたとき、私たちは救いが見えるようになるのです。
 星野富弘さんは、手足が動かない障がいが治ったわけではありません。けれども、いのちより大切なものがあると知って、生きる嬉しさ、喜びを手に入れたのです。救いが見えるようになったのです。
 実を言うと、今日、引用した星野富弘さんの詩に、私は、カトリックのシスター・渡辺和子さんの著書を通して再会しました。書店で見つけ、何気なく手に取り、読んでみた『面倒だから、しよう』(幻冬舎、64頁)という本の中で、星野富弘さんのこの詩が紹介されていました。その文章の中で、渡辺和子さんは、次のように書いておられます。
  人間が「生きている」ということと、「生きていく」ということは、ただ一字違うだけですが、実は大きく違うのだということを私たちは知っています。星野さんも、ただ生きているだけの自分でなく、生きていくことができる自分にお気づきになった喜びを、詩にお表しになったのではないでしょうか。その生きていく力は、いのちより大切なものがあると知った時に与えられたそうです。この自分が、傷のあるままで愛されていることに気付き、それに気付かせてくれた人々の愛、神の愛に気付いて与えられた力だったのではないでしょうか。そういう力に支えられて、苦しいことの多い一生を生きた一人の人間の生の奇跡は、この世のいのちに勝(まさ)る尊いものなのです。
「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」(42節)。
 主イエスは、私たちに、人生に傷のあるままで愛されていることを、自分の人生を否定せず、“これでよし”と肯定できることを教えてくださいます。それによって、私たちは、自分の人生を、否定して、諦(あきら)めて、ただ“生きている”のではなく、自分の人生を引き受けて、苦しみながらも“生きていく”ことができるのだと思います。それが、見えるようになるということ。信仰があなたを救うということにほかなりません。
 いのちより大切なものは、私たち一人ひとりが自分の生活の中で求め続け、見出してゆくもの、だと渡辺和子さんは記しています。あの盲人のように、どんなに人から叱られ、黙らされ、何かに妨げられようとも、叫び続け、求め続けていくものでしょう。その生き方が、「神をほめたたえながら、イエスに従う」(43節)という生活なのだと思います。その叫びに応えて、主イエスはきっと、私たちそれぞれに、いのちより大切なものを見えるようにしてくださるに違いありません。



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