2014年5月11日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書19章1〜10節
  説教者  山岡 創

「 失われたものを捜す 」

 4月から消費税が8%に上がりました。けれども、まだ1ヶ月余りなので、どの程度、違いがあるのかが実感としてよく分かりません。
 ただ、明らかに変わったと思えるのは、買い控えるようになったということです。特に、毎日の食べ物をスーパーで買いますが、消費税抜きの価格が表示されている店が多いようです。そして、その下に税込みの価格が小さく表示されていますが、表示価格とずいぶん差がある、高いと感じることが多くなりました。そのため、今までなら買っていたものを迷ったり、買わなかったり、より安いものをさがすようになりました。
 3年ぐらい前にも、扶養家族控除の基準が変わって所得税がドーンと上がりました。我が家も、中学生以下の子どもが控除されなくなり、所得税がびっくりするほど上がりました。どこに文句を言えばいいのだろう?本当にそう思いました。皆さんも、色んな場面で、そのような不満や生活の苦しさをお感じになっていることでしょう。
 そういう意味で、税を定めることは、政治の命運を左右すると言っても言い過ぎではないと思います。聖書の時代にも、税をめぐって少なからず民衆の反乱が起こったようです。そこで、当時のローマ帝国は、民衆の不満ができるだけ自分たちに向かない方法を考えました。税の取り立てを請負制度にしたのです。つまり、ローマ帝国が支配しているユダヤ人から税を取り立てるのに、その徴税(ちょうぜい)の仕事をユダヤ人自身にやらせたのです。もちろん、そんなことをすればユダヤ人仲間の恨みを買いますから、ただではだれもやろうとしません。そこで、ローマ帝国は、一定の金額を納めたら、残りは自分のものにしていいことにしました。つまり、税金を取り立てれば取り立てるほど、自分の収入、財産が増えるという餌でユダヤ人を釣ったのです。その餌に食いついて、税金を集めるようになったのが、「徴税人」(2節)と呼ばれる人々です。だから当然、徴税人は人々の不満や恨みを買います。裏切り者とののしられます。しかも、ユダヤ人が神の掟として奉じている律法、その十戒の中にある“貪(むさぼ)ってはならない”との戒めを破っている罪人(つみびと)として軽蔑されます。皆から嫌われます。だれも、人として扱い、付き合ってくれない。それが徴税人でした。

 ザアカイも、そんな徴税人の一人でした。当然、エリコの住民のほとんどだれもが、ザアカイのことを良くは思っていません。「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られてみることができなかった」(3節)とありますが、それは、たまたまそうなったのではなく、みんながザアカイのことをシャット・アウトしたということです。だれも彼を前に出してはくれなかったのです。
 そこでザアカイは、主イエスを見るためにはどうしたら良いかと考え、「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」(4節)のです。自分に意地悪する連中を見返してやろう、そんな気持だったかも知れません。
 ルカによる福音書5章27節以下には、主イエスが徴税人レビを弟子とし、彼の家で食事を共にしたことが記されていますが、ザアカイも、イエスという人が、徴税人であっても差別せず、付き合われる方だといった噂ぐらいは耳にしていたことでしょう。そんな興味から、「イエスがどんな人か見ようとした」のでしょう。ところが、その主イエスの関心が、まさか自分に向くとは思ってもいなかったに違いありません。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)
突然、こう呼びかけられて、ザアカイはどんな気持で木から降りて来たのでしょうか。今まで、徴税人仲間はいざ知らず、それ以外の人から、こんなふうに声をかけられたことは一度もなかったはずです。ザアカイが「喜んでイエスを迎えた」(6節)のもうなずけます。そして、食事の席では、財産の半分を貧しい人々に施し、不正を4倍にして返すと宣言したのです。
 私はふと、〈北風と太陽〉というイソップ童話を思い起こしました。旅人のコートをどちらが脱がすことができるか。北風と太陽が、そんな勝負をします。最初は、北風が、風を吹き付けて旅人のコートを脱がそうとします。けれども、風を強く吹けば吹くほど、旅人はかたくなにコートの前をギュッとつかんで押さえます。次に太陽が、暖かい光を少しずつ送りました。旅人は次第にコートの前を開き始めます。そして、最後にいちばん暖かい光を太陽が送ったとき、旅人はコートを脱いだ、という話です。
 エリコの人々から、まるで冷たい北風を浴びせられるかのように、軽蔑され、差別されていたときには、ザアカイも、自分の心をかたくなに閉じて、開こうとはしませんでした。その仕打ちに反発し、対抗しようとしました。けれども、主イエスから、「泊まりたい」と言われ、食事を共にしてもらっただけで、彼は心を開きました。ただ、一人の人間として認められ、扱われることが、こんなにも嬉しかったのです。
 ザアカイはこの時、本当に欲しかったものを手に入れたのだと、私は思います。ザアカイは「背が低かった」とありました。思うに、彼はそのことで子どもの頃からずいぶんいじられ、からかわれて来たのではないでしょうか。たぶん“自分のことをそんな風に扱う周りの人々に、こっちだって意地悪してやろう。見返してやろう。そんな気持で徴税人になったのかも知れない。そして、自分なりにがんばって、「徴税人の頭」という地位と、財産を手に入れたのです。けれども、人々は、その地位と財産でザアカイを認めようとはしなかったでしょう。だから、ザアカイの心は満たされなかったに違いありません。心の隙間に、北風がピュー、ピューと吹いていたでしょう。そのため余計に依怙地(いこじ)になったかも知れません。
 ところが、主イエスは、「ザアカイ」と名を呼んで、彼の家に泊まりたいと言ってくれた。徴税人かどうかに関わらず、一人の人間として認め、扱ってくれた。愛してくれた。それが、ザアカイにとって、何にも勝る喜びであり、本当に欲しかったものだったのだと思うのです。彼は、主イエスと共に食事をしている席で、
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかからだまし取っていたら、それを4倍にして返します」(8節)
と宣言しました。そんなことをしたら、それこそ彼の財産はほとんど無くなってしまうと思うのです。それでも惜しくはない。愛されることの喜びを知ったからです。本当に欲しかったものを手に入れたからです。

 この1週間の間に、カトリックのシスター・渡辺和子さんの新刊『面倒だから、しよう』(幻冬舎)を、ちょこちょこと読み続けました。その中に、マザー・テレサの言葉が引用されていました。既に天に召されましたが、インドのスラム街で、神の愛の宣教者会を立ち上げ、貧しい人々に愛をもって仕えたシスターです。そのマザーの言葉です。
  私はいつも心の中に、死んでゆく人々の最期のまなざしを忘れていません。この世で役立たずのように見えた人たちが、死の瞬間に、“愛された”と感じながらこの世を去ることができるためなら、何でもしたいと思っているのです。(前掲書23頁)
こう言って、マザー・テレサは〈死を待つ人の家〉を立ち上げ、スラム街で路上生活をしている瀕死の病人を迎え入れ、温かい手当をして、その死を看取ったのです。
 渡辺和子さんの言葉が続きます。
  死ぬに決まっている人たちに、足りない人手をかけ、なけなしの薬を与えるのは「無駄だ」という人もいます。それに対してマザーは応えるのです。生きる価値がないかのように思ってきた人々が、生まれて初めて人間らしく接してもらい、もしかしたら、生まれて初めて“愛された”思いを味わった時、その人たちは、「ありがとう」と、中には笑顔さえ浮かべて死んでゆくのですよと。辛いことしかなかった一生の終りに、自分を産み捨てた親も、冷たかった世間も許して、平安のうちに神仏のもとに戻ることを可能にする薬、人出は、決して無駄に用いられたのではないのです。(24頁)
ザアカイもきっと、笑顔だったに違いありません。“ありがとう”と感謝の気持でいっぱいだったに違いありません。自分もだれかを愛したいと思ったに違いありません。
 神の子であるイエス・キリストは、私たち一人ひとりが、“愛された”と感じることができるために、ザアカイをはじめ人々を愛して歩み、その最後に、十字架に架かり、命を懸けて、私たちの罪の心を清めてくださいました。愛を注ぎ込んでくださいました。そのキリストが、聖書を通して今も私たちに語りかけます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と、言い換えれば“愛している”と語りかけます。愛されていることを信じ、愛されていることに感謝し、応えて、私たちもだれかを愛する人になりたい、だれかに、愛されている喜びをとどける教会になりたい。そう願ってやみません。


   ウィンドウを閉じる