2014年5月18日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書19章11〜27節
  説教者  山岡 創

「 人生に忠実に 」

 昨日、生まれて初めて、という経験を一つしました。と言っても、それほど大げさに、もったいぶってお話するようなことではありませんが、サッカーJリーグの試合を、初めて観戦しました。次男が通っている塾のサービスで、親子チケットが手に入りまして、次男と二人、浦和レッズ対セレッソ大阪の試合を、浦和のホーム・グラウンドである埼玉スタジアムで見ました。この日は超満員の5万4千人。サポーターの応援の熱気と音量に、二人とも圧倒されっ放しでした。
 間近で選手たちの迫力あるプレーを見ながら、この人たちは、“持っているなあ”と感じました。プロ選手に必要な才能です。そして、もう一つは運だと言って良いかも知れません。
 私は子どもの頃、サッカー少年でした。3度の食事よりサッカー好きで、時間を惜しんで練習したものです。中学・高校生の頃は、本気でプロ選手を夢見た時期もありました。でも、当時日本にはJリーグはなく、私はその夢をあきらめました。果たして私には“持っているもの”があったのか‥‥‥少なくとも運はありませんでしたね。

 今日の聖書箇所で、主イエスは〈ムナのたとえ〉を語られました。ムナとは、当時のお金の単位の一つです。当時、1日労働したら賃金は1デナリオンでした。1ムナは100デナリオン、日本で言えば、3〜4か月分のお給料ぐらいでしょうか。
 主イエスは、このたとえを、徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイの家で食事をしているときに語られたのではないかと思われます。直前の箇所で、ザアカイが主イエスとの出会いに感動して、自分の財産の半分を貧しい人々に施し、だまし取っていたら4倍にして返すと宣言した直後です。それを聞いて、主イエスは、「救いがこの家を訪れた」と喜びながら、居合わせた人々に財産の使い方をお示しになったのです。
 まず、お金、財産は、預けられたものであるということです。元々、自分が持っていたものではないのです。もちろん、自分の生活のため、楽しみのために使ってよいのです。けれども、それを増やすような使い方をしなさい、というのです。預けた主人(神)が喜ぶように、活かして使いなさい、ということです。
 実は、このたとえ話の中のムナは、単にお金、財産のことだけではないと考えられます。私たちが“持っているもの”を表しています。持っているものとは、神さまによって預けられたものと信仰では受け止めます。それは、Jリーガーのような、何らかの才能であり、時間であり、労力であり、人格であり、その他、私たちが与えられているものはすべて、神のムナだと言うことができます。この預けられたムナで商売をする。つまり、与えられ、持っているものを活かして生きていく。それが、私たちの信仰生活であり、もっと言えば人生だと聖書は教えています。
 信仰生活ということについて、もう少し丁寧(ていねい)にお話すると、私たちの主であるイエス・キリストが、神の国の王位を受けて戻って来るまで、主から与えられたものを活かして歩む生き方だと言うことができます。
 たとえの中に、「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」(12節)とあります。これは、主イエスご自身を表しています
 主イエスは、十字架に架けられた後、復活して、弟子たちの前で天に昇られました。言わばそれが、主イエスが神の国の王の位を受けるための旅立ちです。その主イエスが、王の位を受け、天から再来し、神の国を打ち立てると弟子たちは信じました。私たちも、この弟子たちの信仰を受け継ぎ、使徒信条において、“そこからこられて”と告白します。だから、主イエスが、天から再来し、王として神の国を打ち立てる時まで、主イエス・キリストから預かったものを生かし、用いて生きる。それが、私たちの信仰生活です。主イエスが私たちのもとにおいでになるのは、いつなのか、どんなふうに起こるのかを、どう理解し、どう受け止めるかは、現代の私たちの課題です。あるいは、命の終わりがその時かも知れませんが、今日はその点についてはお話しません。ともかく、預けられたもの、与えられたものを清算するその日まで、イエスを私たちの王、救い主と信じて、イエスに喜ばれるように生きていく。それが私たちの信仰生活です。

 話を戻しますが、10人の僕(しもべ)たちは、主人から10ムナを渡され、商売をするようにと命じられました。一人1ムナというわけです。ある僕は、商売をして10ムナをもうけ、別の僕は5ムナを儲けました。その商売ぶりが主人に喜ばれています。ところが、別の僕は、預かった1ムナをしまっておき、何もしませんでした。それが、主人に叱られ、裁かれることになります。彼が1銭も儲けなかったから、主人は叱ったのでしょうか?私は、そうではないと思うのです。そうではなくて、何もしなかった、活かそうとしなかった生き方を、主人は悲しんでいるのではないでしょうか。
 この僕もそうですが、私たちも陥(おちい)りやすいのは、神は結果を求めている、という誤解です。どれだけのことをしたか、どれだけの結果を残したか。そういう行動主義、結果主義の価値観を、信仰世界にも持ち込んで、神さまもまた行いと結果を求めておられると考えるのです。神さまにしてみたら心外でありましょう。そんなこと考えていないのですから。神さまは、預けた1ムナで商売をしてほしかったのです。どんなやり方でもいい。銀行に預けるのでもいい。ともかく、それを活かしてほしかったのです。結果が良ければ、もちろんそれに越したことはありません。けれども、儲けがなくても、たとえ1ムナの元金を失ってしまうようなことがあっても、神さまは、無駄な人生だとは言わなかったでしょう。「良い僕だ、よくやった」(17節)と喜んでくだったのではないでしょうか。それを、人生は結果がすべてだ、神さまも結果主義だと思い込む。その誤解を持っていると、神さまから愛されていることが分からずに、神さまに裁かれるというよりも、自分で自分を裁くことになってしまうような気がします。大切なものを失ってしまう気がします

 神さまは、私たちのことを行いと結果で判断しません。ただ、預けたものを活かして、喜んで生きてほしいと願っておられます。しかも、預けられたものは皆、同じ1ムナです。違いがあるわけではありません。聖書の別の箇所には、預けられたものがそれぞれ違うという話もありますが、ここでは同じものです。私たちが皆、等しく預けられ、与えられているものとは何でしょうか?私が思いついたのは、“いのち”でした。いのちを活かして使う。いのちの時間を、心を込めて生きる。それが、神さまの願いではないかと思うのです。
 そこで思い出すのが、(またもやですが)カトリックのシスター・渡辺和子さんのエピソードです。それは、渡辺さんが、アメリカのボストンにある修練院で修業していた時の話です。
  その日は夏の暑い午後でした。私は、割り当てられていた配膳の仕事を食堂で果たしていました。百数十の皿、コップなどを長机の上、パイプ椅子の前に一つひとつ並べてゆく仕事を、沈黙のうちに手早く行っていた時です。突然、「あなたは何を考えながら仕事をしているのですか」と問いかけられ、振り向くと、そこには厳しい顔をした修錬長の姿がありました。「別に何も」と答えた私は、「あなたは時間を無駄にしている」と叱責(しっせき)され、一瞬、戸惑いを隠せませんでした。命ぜられたことを、命ぜられたようにしていたからです。修錬長は、そんな私に今度は優しく諭(さと)すのでした。「時間の使い方は、そのままいのちの使い方なのですよ。同じ仕事をするなら、やがて夕食の席につく一人ひとりのシスターのために、祈りながら並べてゆきなさい」。
  何も考えないで皿を並べるなら、ロボットの仕事と同じです。「つまらない」と考えて過ごす時間は、つまらない人生しか残してゆきません。同じ時間を費やすなら、一つひとつの皿を並べる時に、「お幸せに」と、私にしかこめられない愛と祈りを込めて並べ、初めて私は、愛と祈りの人生を送れるのだということを、その日、その時、教えられたのでした。‥‥‥‥時間の使い方は、いのちの使い方、この世に“雑用”という用はない。用を雑にした時に、雑用が生まれるのだということを、心に叩きこまれた修錬院での一コマでした。(『面倒だから、しよう』幻冬舎、51〜53頁より)
どんな仕事、どんな勉強、どんな活動、どんな生活、どんな場所、どんな状況であっても、いのちというムナを、どのように使うかは、私たちの信仰次第、心次第です。そこに祈りを込め、愛を込め、心を込めて生きる。そういう生き方を、主イエスは私たちに教えておられるのです。


   ウィンドウを閉じる